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悪役令嬢になったのは……

悪役令嬢になったのは、ずっと隣国の姫に愛されていたから

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/04/11

 王城の大広間は、やけに明るかった。


 燭台の火は揺れているのに、空気は凍っている。音楽はまだ流れていたが、誰も本気で聞いてはいない。笑いさざめいていたはずの貴族たちは、手にしたグラスを止め、ただ中央を見ていた。


 その視線の中心に、エルミナ・ヴァレンシュタインは立っていた。


 深い藍色のドレスは夜会の灯りを受けて静かに艶を返し、胸元から肩、背筋に至るまで一分の隙もなく整えられている。過不足のない装飾、乱れのない髪、正確に置かれた手の位置。その場にいる誰が見ても、王太子妃教育を終えた女だとわかる姿だった。


 だからこそ、今夜の彼女はこの場にそぐわなかった。


 あまりにも完成されすぎている。あまりにも、王家が本来失ってはならなかったものの形をしている。


 王太子ルシアン・アルフェイドは、その正面に立っていた。整った顔立ちも、王族らしい衣装も、今はひどく薄く見える。自分が正義の側に立っていると信じた時の、若い男に特有の昂りがそのまま顔に出ていたからだ。


 その腕へ、聖女ミレイユ・ソルベールが縋りついている。


 震える指で袖を掴み、小さく身を寄せる。その仕草に嘘がまったくないわけではないだろうし、まったく本物でないわけでもないのだろうと、エルミナは思った。ミレイユは本当に怖がっている。人の視線も、場の冷たさも、自分の言葉で誰かを傷つけることも苦手なのだろう。


 けれど同時に、こういう時に男の腕へ縋れば、自分は守られるのだと、もう身体で覚えていた。それが場をどう傾けるのかまで、まるで知らないわけでもない。


 ミレイユが少しだけ胸を押し当てるようにしてルシアンの腕を抱き込む。本人がどこまで意識しているのかはわからない。ただ、少なくともルシアンが、その柔らかさと“守ってやっている自分”に酔っているのは明らかだった。


 たしかに、男の庇護欲を煽る柔らかさなのだろう。


 だがその正面で、何にも縋らず立つエルミナのほうが、女としての完成度そのものはよほど強かった。胸元に無理はなく、腰はきちんと締まり、裾の落ち方ひとつにまで“育ちのよい身体”の線が出る。見せつけようとしているわけでもないのに、立っているだけで差が出てしまう。


 エルミナは、それを見てもまばたきひとつ変えなかった。


 ルシアンが声を張る。


「エルミナ・ヴァレンシュタイン。お前のこれまでの不敬と、聖女ミレイユへの度重なる圧迫、そして隣国第一王女との不適切な親密は、もはや看過できぬ」


 広間がざわつく。だが、驚きではない。誰もが待っていた筋書きが読み上げられただけだ。


「加えて」


 ルシアンはそこで一度言葉を切った。周囲の視線が自分に集まっていることを確かめるように、わずかに顎を上げる。


「隣国との文のやりとり、贈答の頻度、その内容の不自然さ。これらを総じて見れば、お前が王家の内を隣国へ漏らしていた疑いすらある」


 その瞬間、ざわめきが一段深くなった。


 内通。


 その二文字は、夜会の空気を一気に裁きの場へ変えるには十分だった。


 けれどエルミナは、ようやくそこで小さく息を吐いただけだった。


 ああ、そこまで持っていくのね。


 驚きはない。むしろ、ようやくそう来たかという感覚のほうが近い。


 隣国第一王女セラフィナとの文のやり取りは、隠したことなど一度もない。礼を失わぬよう整えた、季節の挨拶と近況、たまの贈り物。王家に見られて困るような内容はひとつもなかった。


 だがルシアンは、それをずっと目障りに思っていた。


 自分には向けられない柔らかさを、遠い国の姫には向けている。自分の婚約者が、自分の外にひとつ別の大事な場所を持っている。そのことが、気に入らなかった。


 王太子への不敬も同じだ。


 エルミナはルシアンを軽んじたことなどない。ただ、未来の王として必要な重さを求めただけだった。礼を守れ。順序を飛ばすな。耳障りのいい者ばかりを近くに置くな。楽なほうへ流れるな。どれも王太子妃候補として当然の諫めにすぎない。


 けれどルシアンには、それが支えではなく息苦しさにしか映らなかった。


 そして今、その隣にいるのは、自分を気持ちよく守らせてくれる聖女である。


 ミレイユが細い声で言った。


「わたくし、エルミナ様に嫌われてしまって……。それでも、仲良くなりたかったのです……」


 広間の視線が、さらにエルミナへ刺さる。


 仲良く、ね。


 エルミナは内心でだけ苦く笑った。


 王城の回廊で、礼を抜いたまま先に歩こうとした時。隣国からの客へ、軽い調子で割って入ろうとした時。王家の席次を理解せず、場を崩しかけた時。そのたびに止めた。たったそれだけだ。


 だがミレイユは、止められたことを“怖かった”と覚えている。あるいは、そう言うのが一番自分にとって得だと知っている。


 ルシアンが一歩前へ出た。


「何か言うことはないのか、エルミナ」


 ようやくエルミナは顔を上げた。真っ直ぐにルシアンを見る。


「……何を申し上げても、今の殿下には届きませんでしょう」


 その一言に、ルシアンの顔がわずかに強張った。


「まだそのような口を利くのか」


「口の利き方の話ではございません」


 エルミナの声は静かだった。怒鳴らない。泣きもしない。だから余計に冷たく響く。


「殿下が、もうお聞きになるお気持ちをなくしておいでだと申し上げております。わたくしは殿下に礼を尽くさなかったことはございません。申し上げたのは、未来の王としての順と重みだけです」


 その言葉は正しかった。


 だからこそ、ルシアンには耐え難かった。


「やはりな」


 勝ち誇ったように言う。


「お前はいつもそうだ。理屈ばかりで、人の心というものがない」


「……そう見えるのでしたら、殿下にはそうなのでしょう」


 その返しすら、ルシアンには反省のなさにしか映らない。


 玉座の前で、王オズワルド・アルフェイドがようやく口を開いた。


「……エルミナ・ヴァレンシュタイン」


 疲れた声だった。止めるべき時に止めず、決めるべき時に決めなかった者の声だった。


「その身は、ひとまず王都に留め置く。正式な裁定は後日下す」


 追放でもない。処刑でもない。かといって擁護でもない。


 ただの先送りだった。


 広間に安堵とも失望ともつかない息が広がる。王は今夜の破裂だけを防ぎ、明日以降の腐敗には目を瞑ったのだと、わかる者にはわかった。


 エルミナは一礼した。


 深く、正確に、王太子妃教育で叩き込まれた通りの礼。


 その一礼はあまりにも綺麗で、だからこそ余計に場違いだった。まるで、この場にいる誰よりも王家にふさわしいのが誰かを、無言で示してしまうようで。


 それがルシアンには、最後の最後まで気に入らなかった。


 広間を辞する時、背後でミレイユが震える声を落とした。


「……どうか、これ以上こわいことは……」


 誰に向けた言葉なのかは明白だった。


 だがエルミナは振り返らなかった。


 長い廊下を歩きながら、ようやく呼吸がひとつ深くなる。


 これで終わったのだと、頭のどこかだけが理解していた。けれど不思議なことに、肩の荷は軽くならない。むしろ何かもっと嫌な、形のない重みだけが残った。


 王都幽閉は、二ヶ月半に及んだ。


 最初の十日で侍女が一人減った。次の十日で差し入れの類はすべて止まった。一月を過ぎる頃には庭へ出る許可もなくなり、二月に入る頃には窓辺から見える木々の色が変わっていた。


 時間だけは、誰が見てもはっきりと過ぎていた。


 王都から隣国までは早馬でも数日。そこから裏取り、王家内の相談、受け入れ準備、王都への移動。公爵領側にも情報が届き、王家との照会を重ね、見切りを固め、兵を動かす。そのすべてを通すなら、二ヶ月半は長すぎなかった。


 むしろ、それだけの時間をかけて王家は自分から信を失い切った。


 エルミナにとって、その二ヶ月半は静かな消耗だった。


 最初の数日は、ただ閉じ込められているだけだった。食事は出る。衣服も最低限整えられる。侍女もひとりついている。けれどそのすべてが、“とりあえず生かしておけばいい”という雑さの上に成り立っていた。


 処分は決まらない。釈放もない。名誉回復などもちろんない。ただ閉じ込められ、時間だけが削られていく。


 今日こそ何か決まるかもしれない、という期待は、三週間で消えた。そのあと残ったのは、何も決まらない一日を、また一日として受け取る作業だけだった。


 十日ほどで食が細くなった。皿の上の料理に手を伸ばしても、途中で止まることが増えた。一月が過ぎる頃には頬が少し削げ、手首の細さが目立つようになる。二月を回ると、肩へ布が落ちる位置が変わり、起き上がるたびに身体の軽さが不快になった。


 それでもエルミナは崩れなかった。


 姿勢も、言葉も、髪も、礼も。崩すことを自分に許せなかったのかもしれないし、もうそれしか残っていなかったのかもしれない。


 二ヶ月が過ぎた頃、鏡の中の自分は少し別の女のように見えた。


 儚い、と他人なら言うのかもしれない。


 けれど本人には、ただ静かに削られているとしか思えなかった。


 頬が薄くなっても、胸元のふくらみは消えなかった。腰から尻への曲線も、痩せた程度では隠れない。そんなところばかり妙に女として残ってしまうことが、時々たまらなく腹立たしかった。


 王太子妃候補として磨かれた礼や姿勢や言葉遣いは、いまや自分を保つための骨組みにすぎないのに、身体だけはまだ“若い女”の形をしている。閉じ込められ、処分待ちにされ、少しずつ削られている最中でも、そこだけは鈍く残る。


 それが情けないのか、悔しいのか、自分でもうまくわからなかった。


 引き出しの奥に、小さな守り石がある。


 誰にも見つからなかったそれを、夜になると指先で確かめるのが習慣になった。


 昔、怯えていた小さな姫に、自分が握らせた石。けれど返ってきたものでもあった。


 ――大丈夫。わたくしが守ります。


 あれは、どこにでもある子供じみた言葉だったはずだ。


 それなのに、どうしてこんなに長く残っているのだろう。


 幼い日の公爵領は春だった。


 ローゼリンデ・ヴァレンシュタインと隣国王妃ヴィオレッタ・ルヴェルディアは、若い頃からの友人だった。政略の匂いがまったくないとは言わない。だがそれ以上に、性質として気が合っていた。だからヴィオレッタは時折、小さなセラフィナを連れて公爵領へ滞在に来ていた。


 その日も、二人はサロンで紅茶を飲みながら笑っていた。


 幼いエルミナは客人の娘であるセラフィナの相手を任されていた。任されていたと言っても、年の近い娘同士が庭を歩く程度のことだ。セラフィナはまだとても小さく、目に入るものすべてへ素直に気を取られる子だった。


 噴水の向こうで鳥が羽を打った。


 それに気を取られたセラフィナが、濡れた石縁へ足をかける。侍女が「あっ」と声を上げるより少し早く、身体が傾いた。


 若手侍女だったイザベラが駆けた。けれど一歩、届かない。


 その時、エルミナが飛び込んだ。


 転びかけたセラフィナを引き寄せ、自分の身体で庇う。小さな姫は完全に怯えきって、声も出せず震えていた。


 大人たちが駆けつけるより先に、エルミナは髪のリボンをほどいた。それをセラフィナの手首に結ぶ。さらに、いつもお守りとして持たされていた小さな石を、その小さな掌へ握らせる。


「大丈夫」


 泣き出しそうな瞳を、まっすぐ見る。


「わたくしが守ります」


 その瞬間、セラフィナの世界は決まった。


 守られた記憶ではない。あの時、初めて“この人の傍へ行きたい”という感情が、幼い胸の奥に形を持った。


 後からヴィオレッタとローゼリンデが駆けつける。イザベラは息を切らしながら膝をつき、自分の一歩の遅れを痛いほどに知った。


 だがセラフィナはもう、母ではなく、侍女でもなく、エルミナから目を離さなかった。


 その後の文通は、細く長かった。


 毎月ではない。毎季節でもない。けれど途切れない。


 王都の礼を守り、隣国の礼を守り、見せられて困るようなことは何ひとつ書かない。それでもそこには、確かに親愛があった。


 いや、セラフィナにとってはもっと重かった。


 季節の挨拶を受け取るたび、行間の硬さを読み取った。贈り物の選び方ひとつで、その時の相手の忙しさや心の余白を想像した。王都での暮らしが少しでも窮屈になれば、それが文のどこかへ滲むのではないかと、ずっと目を凝らしていた。


 あの人は、自分が思うよりずっと我慢強い。


 だから本当に助けを求める頃には、たいてい手遅れになる。


 セラフィナはそれを、十年かけて知っていた。


 だから、文が止まった時、すぐにわかった。


 あの人は、閉じ込められたのだと。


 報せが隣国へ届くまでには時間がかかった。断罪の当日ではない。数日遅れ、さらに内容が整ってからだった。


 それを受け取った十八のセラフィナは、寝耳に水の顔をしなかった。


 驚愕より先に、理解した。


 やはり、そこまで追い詰められていたのですね、と。


 彼女はすぐ父王レオニードのもとへ向かった。王太子アドリアンもいた。


 礼を取り、まっすぐに言う。


「エルミナ様を、お迎えにあがります」


 レオニードは娘の顔を見た。


 王女としてか。それとも、あの日の小さな娘としてか。


 セラフィナは少しも迷わない。


「どちらでもあります」


 そして続けた。


「連れ帰るだけでは足りません。二度と軽く扱わせないための立場が必要です」


「……何をする気だ」


 アドリアンが額を押さえる。


 セラフィナの目は真っ直ぐだった。


「ユリウスとの婚約が最も適切です。国としても、家としても、あの方個人にとっても」


「お前はそれでいいのか」


 父王の問いは、政治ではなく娘に向けられていた。


 セラフィナは一拍だけ黙った。


 それから、平然とした顔で答える。


「よくはありません」


 レオニードの眉がわずかに動く。


「ですが、あの方を手元に置いて眺めていたいという理由で国を動かすほど、わたくしは幼くありません」


 言葉は冷静だった。


 けれど、その冷静さの底にあるものが重い。


「軽く扱われるくらいなら、わたくしのそばで息をしていてくださるほうがましです。わたくしの目の届くところにいてくださるなら、その立場が弟の婚約者でも、今はかまいません」


 アドリアンが、今度こそ本当に何も言えなくなる。


 それは恋情の告白ではない。もっと長く煮詰めた執着の表明だった。


「王太子妃教育は済んでおります。国としても損はございません」


 最後だけ、少しだけ王女らしく言い切った。


 だが、そこで軽くはならない。


 レオニードは深く息を吐いた。呆れではなく、もうそれが娘の本気だと理解している父親の息だった。


「許す」


 短く言う。


「ただし、迎えに行くのは王女としてだ。奪い返すのは感情でも、通すのは理で通せ」


「はい」


 その返答は、幼い日の姫のものではなかった。


 その足でセラフィナはイザベラを呼んだ。


「行きます」


 短く、はっきり。


 イザベラは深く頭を下げる。


「承知いたしました」


 十年前、間に合わなかった侍女は、もう二度と遅れないつもりで立っていた。


 王都からの報せは、公爵家にも良い形では届かなかった。


 最初に来たのは断片だけだった。夜会の場で王太子が婚約者を糾弾したこと。聖女がその場にいたこと。公の面前で婚約破棄同然の扱いがなされたこと。処分は即決されず、エルミナが王都に留め置かれたこと。


 そこから数日遅れて、ようやく整った文面が届く。


 だが、整っていたのは体裁だけだった。


 ヴァレンシュタイン公爵クラウスは、王都から届いたその文書を最後まで読み切ってから静かに机へ置いた。怒りで紙を握り潰すような男ではない。けれど置かれた羊皮紙の音だけで、居並ぶ家臣たちはその場の温度が変わったことを知った。


 執務室の窓から見えるのは、公爵領の冬枯れの庭だった。


「……王都は、こう申し開くわけか」


 誰に向けたというほどでもない声だった。


 側に控えていた家宰が一礼する。文面には、一応の理が並んでいた。王太子への不敬、聖女への圧迫、隣国第一王女との過剰な親密、内通を疑わせる事情。どれも、公の文書へ落とすには都合のよい語だ。


 けれど、ここにいる者たちの目には、そこに本当の理などないことがわかっていた。


 クラウスは指先で文書の端をなぞった。


「内通、だと」


 低い声だった。


 そこへ、やわらかな気配が一つ混ざる。


「まあ」


 ローゼリンデ・ヴァレンシュタインが、執務室の入口に立っていた。公爵夫人は今日もやわらかな色合いのドレスを着て、ふんわりと髪をまとめている。見る者を警戒させない、穏やかな人にしか見えない姿だ。


 けれど今、その目だけは少しも笑っていなかった。


「うちの娘になんてことを」


 声はいつも通り柔らかい。


 怒鳴らない。なのに、その一言で家臣たちの背がわずかに強張った。


 クラウスは妻を見やり、それから再び文書へ目を落とした。


「王都への照会は」


「二度目の使者も戻っております」


 家宰が答える。


「返答は」


「曖昧なままです。正式裁定はなお先送り。王都にて静養と称し、事実上の幽閉を継続すると」


 静養。


 その言葉に、ローゼリンデが小さく笑った。笑い声は上品なのに、まるで氷の表面へ爪を立てるように冷たい。


「静養、ですって」


 彼女はゆっくりと室内へ入り、夫の机のそばへ立った。置かれている文書を上からひと目見て、また笑う。


「頬を削って、手紙も出せず、いつ終わるかわからない部屋へ閉じ込めておいて、静養。王都の言葉は便利ですこと」


 誰かが小さく息を呑んだ。


 クラウスはようやく顔を上げた。怒っているようには見えない。だが、その静けさはすでに決断のあとのものだった。


「娘を内通者と疑うことは、今まで忠誠を果たしてきた我が公爵家を疑うことに等しい」


 室内が沈黙する。


 これは娘を庇う父の感情論ではない。家門と王家の信義に関する最終確認だ。


 ヴァレンシュタイン家は代々王家へ兵を出し、税を納め、国境の緩衝を担い、交易の結節点を守ってきた。王太子妃候補として娘を差し出したことさえ、家門としての忠の一部だった。その娘を内通者の疑いありと公に扱う。ならば疑われたのはエルミナ一人ではない。家そのものだ。


「王都は、我らをまだ手駒の一つとしか見ておらぬ」


 熱のない声だった。だからこそ重い。


「切り捨てた娘の価値も、疑った家門の重みも、まだわかっていない」


「でしたら」


 家宰が一歩進み出る。問うというより、確認する調子だった。


「忠誠を、お解きになりますか」


 クラウスは迷わなかった。


「解く」


 それだけだった。


 だがその二文字で、部屋の中の空気が決定的に変わる。


「疑われたまま差し出せる忠など、もう我が家には残っておらぬ」


 ローゼリンデはにこやかなまま、小さく頷いた。


「ようやくですわね」


 彼女のほうが、夫よりもずっと先に心の中で王家を切っていたのだと、その場の誰にもわかった。


「返していただきますわ。もう、そちらへ預けておけませんもの」


 そこから先は速かった。


 王都への追加物資の手配は止められる。公爵領を通る主要街道の監視が強化される。王都寄りの役人や商人には表向き、冬季の治安維持強化と説明がなされる。


 だが実際には違った。


 これは領内封鎖の第一段階だった。


 兵の点呼が始まり、厩舎には火が入り、各地の館から信頼できる腹心たちが本邸へ呼び戻される。王都へ送る返答文は、冷静で形式を崩さぬものとなった。感情を爆発させた文句など一つもない。だからこそ怖かった。


 娘を内通者と疑い、その身を王都に幽閉した時点で、ヴァレンシュタイン公爵家と王家の信義は断たれたも同然である。以後、公爵領は自領の安寧と領民の保全を最優先とし、王都の一方的裁定には従わない。


 骨だけの、冷たい文だった。


 その作成を見ていたローゼリンデが、ふと家宰へ微笑みかける。


「ところで」


「はい、奥様」


「その文、もう少しだけやわらかくして差し上げて」


 家宰がわずかに迷う。


 ローゼリンデはにこやかなままだ。


「ええ。王都はきっと、まだわかっておりませんもの。こちらが、もう怒っているだけでは済まないところまで来ていると」


 その瞬間、家宰は背筋に冷たいものを覚えた。


 やわらかく。


 その意味は、丸くすることではない。相手がまだ気づかぬまま、逃げ道だけを消していく文章にしろ、ということだ。


「承知いたしました」


 数日後、公爵領兵の一部が動いた。


 名目は領内安寧の確保。だが動かした人数も、選ばれた顔ぶれも、それだけではないことを示している。前線を担ってきた者、街道と関所の扱いに慣れた者、領都と王都を結ぶ動線を知り尽くした者たち。彼らは一様に口数少なく装備を整え、命令を待った。


 王都へ向けて露骨に旗を掲げるわけではない。それではまだ早い。


 けれど、娘を取り戻すための圧はかける。


 王都へ向かう路の要所を押さえ、ヴァレンシュタイン家が本気であることだけは、誰の目にも見える形にする。


 その最初の進発を見送りに出たローゼリンデは、やはりにこやかだった。


「怪我はなさらないでね」


「はい、奥様」


「でも」


 そこで彼女は少しだけ目を細める。


「うちの娘を傷つけた方々には、ちゃんとわかるようにして差し上げて」


 穏やかな声だった。


 兵たちは深く頭を垂れ、誰ひとり軽くは受けなかった。


 王都近郊へ向かった先遣は、数日後、街道の分岐で別の一団と遭遇する。


 絹をまとった女たちだった。


 だが、誰もそれを“ただの侍女”とは見なさなかった。


 前に立つ女たちの歩幅が揃いすぎている。荷の持ち方が軽すぎる。裾の下へ隠した足運びが静かすぎる。


 そして中央にいるのは、馬上の若い王女。


 第一王女セラフィナ・ルヴェルディアだった。


 幼い日の面影は残っていた。けれど今、馬上にいるその女は、守られる姫ではなく、守るためにここまで来た王女だった。


 そのすぐ傍らにいるのが、姫付き侍女頭イザベラ・ノルエン。年は二十八。兵のように騒がず、侍女のように柔らかくも見せる。だが視線だけで何人がどこへ動くべきかを把握している女だった。


 公爵領兵の側が先に手綱を引き、街道の中央を明ける。


 緊張は一瞬。だが敵意はない。なぜなら、互いにどこを目指しているのかが、見ればわかったからだ。


 ヴァレンシュタイン家側の指揮官が馬を進める。年嵩の副将で、クラウスの信頼が厚い男だ。


「王女殿下」


 深く礼を取る。


「ヴァレンシュタイン公爵家、家令代行にございます。お志、我が家門として感謝いたします」


 セラフィナは馬上で小さく頷いた。


「エルミナ様を迎えに参りました」


「ええ」


 副将は短く返す。


「でしたら、我らも娘君を迎えに参ったところ。目的は同じに存じます」


 そこで初めて、セラフィナの口元がほんのわずかにやわらいだ。


「……そうですね」


 イザベラが一歩出る。その動きだけで、後ろの侍女たちの重心がわずかに変わる。


 副将もそれを見逃さなかった。見た目は侍女。だがこれはもう、統率された実働部隊だ。


「先行なさるなら」


 副将が言う。


「背は我らが抑えましょう」


 セラフィナは迷わず答えた。


「お願いします」


 それで決まった。


 示し合わせていたわけではない。けれど、別々に動いた本気が、ここで一つの形になる。


 姫侍女隊が前へ出る。公爵領兵が後詰めへ回る。


 外を押さえる公爵家。内へ入る王女。


 王都へ向かう道の上で、すでに勝敗の大枠は決まり始めていた。


 副将は馬首を返しながら、セラフィナを見た。


「姫殿下」


「なんでしょう」


「……我が家の姫君は、泣いておりましょうか」


 それは軍務の言葉ではなかった。父が問えないことを、家の者として聞いてしまった男の声だった。


 セラフィナはしばし黙った。


 それから、静かに言う。


「泣いてはいないと思います」


 副将の顔がわずかに動く。


「でも、泣いていないからといって、大丈夫なわけではありません」


 副将は深く頭を垂れた。


「……承知いたしました」


 その言葉ひとつで、彼の中の何かがさらに固く決まる。


 王都の外壁は、遠くから見ればただの石だった。


 だが近づけば、その石が“ここから先は王家の内だ”と冷たく主張してくる。高く積まれた壁、一定の間隔で立つ見張り塔、朝と夜で交代する門番の数、荷馬車の検めの厳しさ。どれも王都らしい秩序の一部だった。


 その秩序が、二ヶ月半のあいだ、エルミナをただ閉じ込めるために使われてきた。


 セラフィナは王都そのものへ正面から突っ込むつもりはなかった。必要なのは大軍の威圧ではない。内へ届く手と、外で支える背だ。


 外側はすでに整っていた。ヴァレンシュタイン公爵領兵が街道の要所を押さえ、王都側の連絡と動きにじわじわ圧をかけている。表向きにはまだ軍事衝突ではない。だが、門の内側にいる者なら誰でもわかる。何かひどく面倒なことが起きつつある、と。


 その上で、内へ入るのは姫侍女隊だった。


 王都の裏口に近い宿を抑え、侍女たちがばらけて動く。目立たない。でも隠れもしない。


 絹の袖。荷を抱える腕。軽く伏せたまつげ。


 それだけ見れば、地方から来た貴婦人付きの侍女にしか見えない。だが、兵に見える者が見ればわかった。歩幅が揃いすぎている。視線の切り方に遊びがない。立つ位置が綺麗すぎる。


 イザベラは、宿の一室で地図を広げていた。王都の簡略図、離宮周辺の導線、見張りの交代時刻、食事搬入の時間、周辺の巡回。情報はここ数週間で積み上げてきたものだ。遅かったわけではない。遅れずに確実に届くために、必要な二ヶ月半だった。


 部屋にいる侍女たちは八人。今夜、エルミナを保護して出す護送役になる者たちだ。


「正門は使いません」


 イザベラが言う。声音は低く、いつも通り静かだ。


「南側の搬入口を通ります。外の鍵当番が一度だけ離れる。その間が七十数息。そこを抜ける」


 誰も問い返さない。理解はすでに共有されている。


「短槍は見せないで。抜くのは押し返す時だけ。短剣組は前。弓は最後尾で構いません。撃つのは最終段階、どうしても必要ならのみ」


「はい」


「ナイフ組は連絡線を断ちます。余計な悲鳴を上げさせないで。眠らせられるならその方がいい」


 ひとつひとつの指示は簡潔だった。だが、その短さの中に何年も積み上げた訓練がある。


 侍女たちは頷き、布の下に隠した刃の位置を無意識に確かめる。


 この隊にいる女たちは、いざとなれば人を傷つけることもできる。けれど本当に鍛え込まれているのは、そこではない。


 間に合うこと。


 それがイザベラと姫侍女隊の核だった。


 十年前、手を伸ばした先で間に合わなかった記憶だけが、彼女をここまで鍛えた。あの一歩の遅れを、自分は死ぬまで忘れないだろうと知っている女の顔を、今は誰もしていない。だから怖かった。


 最後にイザベラは、机の端へ置いた小さな守り石をちらりと見た。セラフィナが肌身離さず持っているものと、同じ系統の石だ。


 無言でそれを見つめてから、顔を上げる。


「今度は、遅れません」


 それだけで十分だった。


 夜の離宮は、昼よりむしろ静かだった。


 身分ある者を丁重に閉じ込める建物は、見た目だけは穏やかだ。灯りもある。通路も磨かれている。だが人の気配は薄く、そこに住む者が“外へ出る予定のない人間”だということだけが、壁の厚さや窓の小ささに滲んでいる。


 エルミナは、その夜も眠れてはいなかった。


 眠れないといっても、目を開けたまま絶望に浸っているわけではない。そういう濃い感情の時間は、もう過ぎていた。人は二ヶ月半も宙づりにされると、絶望するにも手順が要ることを覚える。何も決まらないことに慣れてしまう前に、せめて一日の形だけは守ろうとする。


 灯りを落とした部屋の中で、彼女は窓辺に立っていた。閉ざされた格子越しに見えるのは、王都の夜空のほんの切れ端だけ。その狭い空を見上げるのが、いつの間にか癖になっていた。


 小さく、何かが鳴った。


 金属が金属へ当たる、ほんの一度の微かな音。


 侍女の合図ではない。見張りの足音でもない。


 エルミナは振り返った。扉の外にいたはずの人の気配が、いつの間にか変わっている。それがわかった瞬間、扉が内へ滑った。


 入ってきたのは王都の兵ではなかった。


 夜目にもわかる整った服。抑えた色味のドレス。髪をきっちりまとめた侍女が二人、音もなく左右へ流れる。その後ろにさらに二人。その動きだけで、部屋の中の空気が王家のものではなくなったとわかった。


 最後に入ってきた女を見て、エルミナは初めて目を見開いた。


「……イザベラ」


 幼い日の、あの一歩遅れた若手侍女の面影はもう薄い。だが、その目の奥の静かな鋭さだけは覚えている。


 イザベラは深く一礼した。


「あの時は、間に合いませんでした」


 十年前から抱えてきた悔いを、そこへ一行だけ置くように。


「今度は違います。お迎えに参りました」


 エルミナは数瞬だけ黙った。長い夢の続きを見せられているような顔だった。やがて息をひとつだけ吐く。


「……本当に、来たのですね」


「参りました。姫殿下が」


 その一言で十分だった。


 外気が触れた。


 閉じ込められていた二ヶ月半のあいだ、ずっと遠かった夜の空気が、ようやく頬へ触れた。それだけのことに、泣きそうになる自分を、エルミナは他人事のように知った。


 護送に選ばれた八人が前後左右を固める。華やかな布をまとっていても、その歩き方は兵そのものだった。その中央を、少し痩せたエルミナが静かに歩いてくる。


 もう誰の目にも、彼女が王家の管理下にないことは明らかだった。


 王都の空気は、外からの圧にも中からの異物にも弱かった。公爵領兵が外を押さえ、姫侍女隊が内へ入り込んだことで、王城側は完全に後手に回った。あわてて集められた兵や役人たちは、何が起きているのかを理解する前に、理解しがたい現実を突きつけられる。


 見た目は侍女。だが、進路を塞ぐ位置取りも、脇を抜ける速さも、兵そのものだった。


 王が頭を下げたのは、その頃だった。


 遅かった、とオズワルドは自分でもわかっていた。だが頭を下げる以外に、いま残っているものがなかった。


 謁見の間に通されたクラウスとローゼリンデ、公爵家の使者、隣国第一王女セラフィナ、その傍らに立つイザベラと姫侍女隊。ひと目でわかる。もうこれは、息子の婚約をまとめ損ねた程度の話ではない。国家と家門の信義を壊した結果が、全部まとめて王都へ来ている。


 そこへ扉が開いた。


 全員がそちらを向く。


 先に入ってきたのは王家の兵ではない。揃いの意匠を抑えた侍女服に身を包んだ八人だった。前後左右、そして傍付き。誰も声を出さない。絹をまとっているのに、空気だけが兵の一団だ。


 その中央を、エルミナが歩いてくる。


 広間にいた者の多くが、息を呑んだ。


 彼女は少し痩せていた。夜会の時に比べれば、それは誰の目にも明らかだった。頬はわずかに削げ、首から鎖骨にかけての線が薄く際立ち、手首は白く細い。


 それでも姿勢は崩れていない。誰にも縋らず、礼を失わず、ひどく儚く、それでいて凛としていた。


 細くなった分だけ、もともとの胸元のふくらみと、立った時に裾の下へ残る尻の丸みがかえって隠せず、本人が少しも誇ろうとしていないぶん余計に、そこにいる女の美しさだけが目に入る。


 やつれているのに、女としての強さまでは削れていない。その事実が、この二ヶ月半の残酷さをかえって際立たせた。


 セラフィナの顔から、一瞬で血の気が引いた。


 その次の瞬間には、喉の奥を鋭く締め上げられるような痛みが来た。


 遅かった。


 間に合ったはずなのに、遅かった。


 守ると言われた日の自分を、殴りたくなるほど思い出した。あの時からずっと大事だった人を、こんな顔にするまで置いてしまった。


 クラウスの目が変わった。ローゼリンデは笑顔のまま、目だけが完全に冷えた。オズワルドは、自分の謝罪がもう意味を持たないことを、この姿で理解した。


 その沈黙を壊したのはルシアンだった。


「見たか! やはり内通していたではないか! 隣国の姫に守られ、公爵家の兵まで背にして現れるとは!」


 その叫びが広間に響いた瞬間、誰よりもまずオズワルドが目を閉じた。


 まだ、そこなのか。


 まだ、その程度の理解しかないのか。


 クラウスが前へ出た。静かだった。


「娘を内通者と疑うことは、今まで忠誠を果たしてきた我が公爵家を疑うことに等しい」


 それだけで十分だった。


 理は、もう一度王都へ落ちた。


 イザベラが一歩だけ前へ出る。


「内通ではございません」


 抑えた声で、けれどひどくよく通る。


「救出でございます」


 ミレイユが小さく息を呑み、ルシアンの腕にさらにしがみついた。


「ひどい……。そんな、野蛮です……」


 その言葉に、本人なりの本気はあった。彼女には本当に怖かったのだろう。華やかな場で、女たちが刃を隠し、兵のように動き、王家の都合より“たった一人を取り戻すこと”を優先していることが。


 だからこそ、余計に浅かった。


 それが何の上に積み重なった本気なのかを、彼女は最後まで理解できない。


 セラフィナの視線が、初めて真正面からミレイユに向いた。その瞳には怒鳴り返すような熱はない。ただ、見切った者の冷たさだけがある。


「野蛮で結構です」


 低くはない。なのに、広間の誰よりもよく通る。


「あの方を守れなかった方々に、品位を説かれる筋合いはありません」


 ミレイユは息を詰め、ルシアンは顔を赤くする。けれど、その二人の感情よりも、エルミナの削れた頬のほうが、この場では重かった。


「まあ」


 ローゼリンデが微笑む。


 その一音だけで、空気が凍った。


「うちの娘を、ここまで削ってくださったのですね」


 笑顔の形は少しも崩れない。でも目だけが完全に笑っていなかった。


 怒鳴るよりも、泣くよりも、それは深く刺さる。


 オズワルドは深く頭を下げた。遅きに失した謝罪だと知りながら、それでも王として頭を下げるしかなかった。


 だが、もう誰もそれで戻るとは思っていない。


 頭を下げれば戻る程度の信なら、そもそも壊れていなかった。


 その後、エルミナは隣国へ渡った。


 馬車の中でも、王宮の廊下でも、セラフィナはひどく静かだった。再会の喜びより先に、怒りと痛みが勝っていた。それを飲み込んだうえで、ようやく“ここから先”を考える余地が生まれる。


 王宮の一室へ通された時、エルミナはわずかに目を細めた。


 罪を問われる者の部屋ではなかった。客人に宛てるには重く、しかし保護するだけの部屋でもない。そこは最初から、“迎える者のための部屋”だった。


 侍女たちの目にも、扱いにも、罪人を見る曇りがない。


 そこで初めて、エルミナは自分が置かれるのではなく、迎えられているのだと理解した。


 夜、更けたあとで、セラフィナが一人で訪ねてきた。


 護衛も、侍女も、扉の外へ残したまま。


 しばらく二人とも何も言わなかった。十年分の文と、二ヶ月半分の空白が、そのまま部屋にあるようだった。


 先に口を開いたのはセラフィナだった。


「遅くなりました」


 エルミナは、その顔を見た。


 幼い日の面影は遠い。けれど、守り石を握っていた小さな手の感触だけが、不意に蘇る。


「……来てくださいました」


 その一言で、セラフィナの喉が詰まった。


「本当はもっと早く来たかったのです」


「ええ」


「でも、半端な形で来たくありませんでした。あなたを返してもらうだけで終わるのは、嫌だったのです」


 セラフィナはそこで初めて、少しだけ目を伏せた。


「わたくしは、あなたが思っているより、ずっと長くあなたに執着しています」


 静かな声だった。


「守ると言われた日のことを、一度も忘れませんでした。あなたが文をくれるたび、あなたが誰かの婚約者だと知るたび、きちんと祝うふりをしながら、ずっと腹を立てておりました」


 エルミナは小さく息を呑む。


 だがセラフィナは止まらなかった。


「それでも、あなたがあなたの意思でそこにいるなら、と自分に言い聞かせておりました。けれど、違った」


 顔を上げる。


「軽く扱われてよい方ではありません。だから、今度はわたくしが決めます。二度と勝手に削らせません」


 その言葉は、愛の告白というより宣言に近かった。


 エルミナはしばらく何も言えなかった。やがて、ほんのわずかに苦く笑う。


「相変わらず、まっすぐでいらっしゃるのですね」


「昔は、あなたがまっすぐでした」


「今は違いますか」


「今は、わたくしのほうが強引です」


 その返答に、エルミナはほんの少しだけ肩の力を抜いた。長いあいだ忘れていた笑い方を、ようやく思い出すように。


 翌日、セラフィナは弟ユリウスを呼んだ。


 十六の第二王子は、何も知らずに来る。姉に呼ばれたから来ただけ、という顔をしている。そこで開口一番、この方があなたのお嫁さんだから大事にしなさい、と言われて、しばらく本当に言葉を失った。


「……は?」


 間の抜けた声だった。


 セラフィナはまったく気にしない。


「ですから、お嫁さんです」


「いや、ですからじゃなくてですね姉上、順というものが」


「今さら順を言いますか。あなた、昨日まで暇だったでしょう」


「それはそうですけど、暇だったからって急に嫁が降ってくるものではないでしょう」


「降ってきたのではありません。わたくしが連れてきました」


「なお悪いですよ」


 エルミナはそのやりとりを見て、思わず少しだけ目を丸くした。


 王族の姉弟にしては、ずいぶんと遠慮がない。


 だが次の瞬間、ユリウスはそれどころではなくなった。


 目の前に立つエルミナは、少しやつれている。頬は薄く、静かな疲れが残っている。なのに、不思議なほどみすぼらしくない。むしろその削れた輪郭が、もともとの整った顔立ちにひどく儚い影を落とし、背筋の伸びた立ち姿がその儚さを凛としたものへ変えていた。


 細くなった身体の中になお隠せない胸の豊かさと、立った時にわかる尻の丸みが、本人の無自覚のまま女としての美を残している。


 ユリウスは、ぽかんとしたまま、その先へ行けなくなった。


 姉が何を言ったのかも、半分しか頭に入っていなかった。


 ただ、ひとつだけはっきりしたことがある。


 この人は、雑に扱っていい人ではない。


 美しいから、ではなかった。もちろん美しい。息を呑むほどに。けれどそれ以上に、痩せてなお崩れていないものがある。誰にも縋らず、やつれてなお礼だけは失わず、削られてなお軽く見えない。


 そんな人を、自分の姉は“お嫁さんだから大事にしろ”と雑に言った。


 たぶん、それがいけなかった。


 その乱暴さのせいで、逆にユリウスの中で何かが一気に定まったのだ。


 大事に、という言葉だけでは足りない。


 この人の前で軽くあってはいけない。


 自分が子どものままでいたら、たぶん失礼になる。


 その感覚は、一目惚れよりも先に身体へ落ちた。


 セラフィナは、そんな弟の顔を見て少しだけ満足そうに目を細める。わかったならよろしい、と言いたげな顔だ。


 だが婚約は、その場で決められたわけではない。


 ユリウスは一度深く息を吸い、ようやく自分を立て直した。見惚れたことをなかったことにはできない顔のまま、それでもきちんと一礼する。


「お初にお目にかかります。姉上の勢いでお会いする形にはなりましたが、軽い気持ちで来たわけではありません」


 エルミナはその礼を受ける。少年らしさの残る顔立ちだが、目は思っていたよりずっとまっすぐだった。


 ユリウスは続ける。


「正直に申し上げれば、最初に思ったのは、綺麗な方だということです」


 セラフィナが呆れたように眉を動かす。


 だがユリウスは動じない。


「ですが、それだけで申し上げているのではありません。姉上がここまで本気になる相手を、私は軽い方だとは思いません」


 そこで一度、エルミナを真っ直ぐ見た。


「姉上が決めたからではありません。あなたが望まれないなら、無理に形へはいたしません。けれど、あなたがここでやり直されるなら、その隣へ立ちたいと私は思いました」


 安全なだけの男ではなかった。


 重いものを重いまま受け取れる側の王族だった。


 その日の夕方、ユリウスは珍しく自分からセラフィナの部屋を訪ねた。


 姉は書類を見ていた。弟の顔を見ても、特に驚いた様子はない。


「どうしました」


「姉上」


 ユリウスは言ってから、一度だけ言葉を選んだ。


「あの方を、“とりあえずここへ置く”みたいに扱わないでください」


 セラフィナの指が止まる。


「……ずいぶん急に育ちましたね」


「育ってはいません」


 ユリウスはむしろ、少し腹を立てた顔で返した。


「でも、わかります。あの方は、そういう雑な言い方で安心する人ではないでしょう」


 セラフィナは少しだけ目を細めた。感心したのか、あるいは、ようやく同じ場所まで来たかと思ったのか。


「ええ」


 短く答える。


「だから、あなたがそう思ったなら大丈夫です」


 ユリウスはそこで初めて、姉が弟へ押しつけただけではないのだと知った。試されていたのだとまでは言わない。だが少なくとも、姉は“受け止められない男”へあの人を渡す気は最初からなかったのだとわかる。


 そのあと、レオニードがあらためてエルミナと話をする。ヴィオレッタは旧友の娘としてではなく、一人の王族の婚約者候補としてエルミナを見極める。ユリウスもまた、姉に言われたからではなく、自分の意思で望むのだと示す。


 その間、彼は何度かエルミナと言葉を交わした。


 最初はほんの短いやりとりだった。食事は口に合ったか。部屋で不便はないか。医師の診察は受けたか。そうしたことを、年若い王子らしく少しぎこちなく、けれど真剣に尋ねる。


 エルミナはそのたび、丁寧に答えた。


 礼を失わない返答だった。だが、壁がないわけでもない。その距離の置き方に、ユリウスは少しだけ胸の奥を刺された。ああ、この人は簡単には安心しないのだとわかる。


 だからこそ、彼は変に優しいふりをしなかった。


 ある日、庭の東屋で二人きりになった時、ユリウスは思い切って言った。


「私は、あなたを慰めるのは下手だと思います」


 エルミナが少し目を瞬かせる。


「正直ですのね」


「うまくないことを、うまいように言っても仕方がありませんから」


 ユリウスは耳を少しだけ赤くしながら続ける。


「でも、軽く扱わないことならできます。あなたが嫌がるなら無理に近づきませんし、必要なら前にも立ちます。私はまだ、姉上や父上ほど上手くはありませんが、それくらいならできます」


 その言葉に、エルミナはしばらく何も言わなかった。


 やがて、ほんの少しだけ口元をやわらげる。


「それは十分、立派なことですわ」


 その瞬間、ユリウスの中でまた何かが固まった。


 守る盾になるというのは、派手に剣を振るうことではない。この人の重さから逃げずに前へ立つことなのだと、少しだけわかった。


 エルミナ自身も、ようやく少しずつ、自分が“置かれる”のではなく“迎えられる”立場にいるのだと理解していく。


 そのいくつかの段階を踏んで、婚約は正式に形になる。


 ユリウスが最初に見せたのは一目惚れだった。だが婚約まで進めたのは、それだけではない。重いものを重いまま差し出されても逃げないことを、彼は短い期間で示した。


 それでいいのだと、王家の上もエルミナ本人も納得できるだけの一拍が、ちゃんと置かれた。


 ヴァレンシュタイン公爵家は、そののち独立公国を宣言した。


 王家への忠誠を断ち、自ら立つ。逃げではなく、信を切られた側の秩序ある離脱だった。家臣たちの前に立ったクラウスは、短く告げた。


「疑われた忠は、もう忠ではない。我らは今日をもって王家への旧き誓いを解き、自らの秩序を立てる」


 その言葉に、誰も異を唱えなかった。


 そこへ、エルミナとユリウスの婚約が正式に結ばれる。婚姻の約束は、個人の救済だけではない。新しい国境秩序を結ぶ継ぎ目にもなる。独立公国は、その婚約を軸に隣国へ編入された。


 王都では、数字より先に空気が悪くなった。


 旧公爵領を失ったことで、防衛も、交易も、税の流れも、まとめて歪む。だが本当に悪かったのは、そこではない。


 王家は、自分たちが何を失ったのかを、誰ひとり正確に認められなかった。


 ルシアンは相変わらず、やわらかく媚びるものに弱かった。色仕掛けに弱いのではない。気分よくさせ、守っている気分を与え、現実から少しだけ目を逸らさせてくれるものに弱いのだ。佞臣たちはそこを突いた。ミレイユは相変わらず愛らしく、私生活の慰めにはなっても、国の重さは背負えない。


 だが、それらは決定打ではなかった。


 答え合わせにすぎない。


 王家が本当に終わり始めたのは、エルミナ・ヴァレンシュタインを切ったあの日だった。


 それ以後の失敗は、全部その続きをなぞっているだけだった。重いものを鬱陶しいと思って切り、軽いものへ流れ続けた男が、国の重さに耐えられるはずがない。


 最初の亀裂は、書類の山の前で来た。


 旧公爵領を失ったあとの再編で、王都の執務室には毎日のように報告が積み上がった。税の不足、街道警備の再配置、流通の遅延、貴族たちの不満、騎士団の補給計画の見直し。どれも目を逸らせないものばかりだった。


 ルシアンは机に向かっていたが、明らかに苛立っていた。


「どうしてこう、毎日毎日面倒が増える」


 投げるように言う。


 文官たちは顔を伏せた。誰も返せない。増えたのではない。今まで公爵領と、その娘が見えないところで受け止めていたものが、表へ出ただけだとわかっていたからだ。


 そこへ、ミレイユがそっと近づく。


「殿下……今日はもう、お休みになったらいかがでしょう。そんなに怖い顔をなさると、お身体に障ります」


 甘い声だった。


 以前のルシアンなら、それで少し気持ちをほどいただろう。疲れている自分を気遣ってくれる存在がいる。それだけで、自分はまだ大丈夫だと思えた。


 だが、その日ばかりは違った。


 机の上には、休めば消えるわけではない報告が積まれている。放置すれば、明日にはもっと重くなるだけだ。


 その時、不意に思い出してしまった。


 エルミナなら、ここで休ませはしなかった。


 顔色が悪くても、順を先に整理した。何を今夜中に決め、何を明日に回し、誰へ振るかを短く切って、少なくとも机の上の重さだけは減らしただろう。


 ルシアンの眉がぴくりと動く。


「……今、それを言うか」


「え?」


「休めば済むように見えるのか」


 ミレイユがびくりと肩を震わせる。


「わ、わたくしは、ただ殿下のお身体が……」


「身体の話ではない!」


 声が思ったより強く出た。部屋の空気が凍る。


 ミレイユの目にすぐ涙が浮かんだ。それを見て、ルシアンは一瞬だけ罪悪感を覚える。だが、次の瞬間にはもっと嫌な感覚が来た。


 泣かせたくない。守りたい。けれど、今必要なのはそれではない。


 その事実が、たまらなく不快だった。


 その夜、ルシアンは執務室に一人残った。


 机に肘をつき、こめかみを押さえる。誰もいなくなった部屋で、ようやく認めざるを得なかった。


 エルミナは、少なくともここで逃げなかった。


 自分がどれほど不機嫌でも、どれほど言葉が荒くても、あの女はたぶん眉ひとつ動かさず、「今はお気持ちより先に、決める順がございます」と言っただろう。


 腹立たしいほど、想像できる。


 そして、その想像ができてしまうこと自体が、もう遅い理解だった。


 二度目は、夜会で来た。


 王都の有力貴族たちを集めた小規模な会食だった。失ったものを埋めるため、王家はまだ余裕があるように見せる必要があった。ルシアンも、以前のように柔らかく場を回そうとした。


 だが、席次も、言葉の順も、贈答の扱いも、妙に噛み合わない。


 ミレイユは愛らしく笑い、緊張した空気を和らげようとした。誰かが少しきつい顔をすれば、困ったように目を伏せる。悪いことではない。むしろ善意ですらある。


 けれど、善意では場が持たない瞬間がある。


 ある老伯がわざとらしく杯を置いて言った。


「以前は、こうした場でも王太子殿下の隣に“抜け目のない方”がおられましたな」


 誰もが聞こえないふりをした。


 ルシアンの顔が強張る。ミレイユは意味がわからないまま、それでも空気の変化だけを察して不安そうに袖へ触れる。


「殿下……」


 その小さな声さえ、今夜ばかりは場違いに思えた。


 抜け目がない。


 それは褒め言葉ではないのだろう。けれど今の王都にとって必要だったのは、まさにそういう女だった。気配りでなく管理。愛らしさでなく重さ。守りたくなる相手ではなく、隣にいるだけで場の骨格が立つ相手。


 そのことを、貴族たちはもう隠さなくなっていた。


 ルシアンは盃を強く置いた。


「言いたいことがあるなら、はっきり言えばよい」


 老伯は肩をすくめる。


「いいえ。ただ、失って初めてわかるものもある、というだけでございます」


 それ以上は言わない。


 言わないからこそ、深く刺さった。


 会食のあと、控室へ戻ったミレイユは泣いた。


「わたくし、何か間違えましたか……? 皆様、どうしてあんなに冷たく……」


 ルシアンは答えられなかった。


 間違えたのは彼女ではない。彼女は最初からこういう場で国を支えるための女ではなかった。なのに自分が、そういう場所へ引っ張り出してしまった。


 いや、違う。


 本当に間違えたのは、その役目を果たせる女を自分の手で切ったことだ。


 三度目は、もっと直接的だった。


 ある若い文官が、補給計画の修正案を出しに来た。震える手で差し出された書類は、見ればわかるほど詰めが甘い。ルシアンが苛立って問い返すと、文官は顔を青くして言った。


「も、申し訳ございません。以前でしたら……以前でしたら、ヴァレンシュタイン嬢が、先に赤を入れてくださっておりましたので……」


 そこで部屋が完全に静まった。


 本人も言ってから青ざめた。口を滑らせたのだとわかったのだろう。膝をつきかける勢いで謝罪する。


 だが、ルシアンは止めなかった。止める言葉が出なかった。


 赤を入れていた。


 そうだ。あの女は、表に出る場だけではなく、こういうところまで手を回していた。見えていないところで整え、転ぶ前に直し、恥が外へ出る前に潰していた。


 それを、自分は“理屈ばかりで息苦しい”と切ったのだ。


 書類を受け取る指先へ、じわりと嫌な汗が滲む。


 文官を下がらせたあと、ルシアンはしばらく動けなかった。


 窓の外は曇っていた。王都の冬は重い。


 その重さを、前は誰かが引き受けていたのだと、いまさらのように思い知る。


 そしてその誰かは、もう別の国で、別の王子の婚約者として迎えられている。


 そこまで考えたところで、胸の奥へ鈍い怒りが混ざった。


 なぜあの女は、最後まで自分に縋らなかったのか。


 なぜあの時、泣いて詫びなかった。なぜもっと、自分が守ってやらねばならぬ気分にさせなかった。


 そんな理不尽な責任転嫁まで浮かぶ自分に気づいて、ルシアンは唇を噛んだ。


 もう、取り戻せない。


 わかっている。


 わかっていて、なお遅い。


 決定打になったのは、複数の女だった。


 最初は些細な違和感として上がってきた。まだ公にならない相談事が、なぜか先回りするように外で囁かれている。通るはずのない便宜が、事前に期待された形で求められている。王太子の耳へだけ入ったはずの話が、商人や下級貴族の親類筋まで、ぼんやりとだが知っている。


 ひとつひとつは小さい。


 だが、小さいからこそ気味が悪かった。


 情報管理を預かる文官が流れを洗い、側近の一人が顔を青くして持ち込んだ時には、もう偶然では済まなかった。


 相手は一人ではない。


 女官、若い貴族令嬢、商会に縁のある娘、貴族家へ出入りする相談役めいた女。どれも立場は微妙に違うが、共通していたのは、ルシアンの前で“守ってあげたくなる顔”をすることだった。


 少し困ったように笑う。


 誰にも言えず苦しんでいるふうを装う。


 殿下にしか頼れません、と声を細くする。


 そうして袖を引き、時には涙を見せ、時には胸元を緩める。


 それだけで、ルシアンは気分よく口を滑らせた。


 まだ決裁前の人事。再編予定の街道警備。補給経路の見直し。どの家へ先に話を通すか。誰を外し、誰を残すか。王家の中にだけ留めるべき“順番”の話。


 決定した機密を売ったわけではない。


 もっと軽いところで、もっと浅く漏らした。


 だからこそ性質が悪かった。


 本人に裏切った自覚が薄いまま、何度も同じことを繰り返していたからだ。


 便宜も同じだった。


 正式な手続きを飛ばし、後回しにすべきものを先に回す。顔を立ててほしいと甘えられれば、書類の順を変えさせる。特別扱いとまでは言えぬ程度の小さな歪みを、いくつもいくつも積み上げる。


 王太子の一存で国は壊れない。


 だが、王太子の軽さは確実に組織を腐らせる。


 セドリックのもとへ上がってきた報告書は、一枚ではなかった。


 面会記録、出入りの記録、金の流れ、便宜の痕跡、女たちの周辺で不自然に動いた人間関係。そこに添えられた証言はどれも決定打たり得るほど派手ではない。派手ではないが、逃げ道を少しずつ塞いでいくには十分だった。


 机へ並べたそれらを見て、セドリックは長く黙った。


 向かいにいたクラリスが、淡々と言う。


「一件なら、愚かで済みます」


 紙の上へ視線を落としたまま続けた。


「二件でも、未熟で済ませる方はいるでしょう。ですが、ここまで重なれば性質です」


 セドリックはまだ答えない。


 兄を引きずり下ろしたいわけではなかった。できることなら、誰かがここまで行く前に止めていてほしかった。できることなら、自分は弟のままでいたかった。


 だが、紙の上の数字も、記録も、証言も、そういう甘さを許さない。


 クラリスが次の一枚を静かに押し出す。


「こちらは、外へ漏れた時期と、殿下の私的な接触時期が重なっております」


「……見ればわかる」


「ええ。ですから、もう“知らなかった”では済みません」


 セドリックはそこでようやく顔を上げた。


「父上に持っていくべきだと思うか」


「持っていかなければ、今度はあなたが知っていて黙った側になります」


 冷たい言い方だった。


 だが、ここで濁さないからこそクラリスだった。


「兄君を切るためではありません」


 彼女は言う。


「兄君に、もう国を預けられないと認めるためです」


 セドリックは指先で書類の端を押さえた。


 紙がずいぶん重く感じた。


「……嫌な役目だな」


「ええ」


 クラリスは一切慰めない。


「ですが、ここで嫌がって済む段階は過ぎております」


 その一言で、セドリックの中の迷いがようやく形を変える。


 兄を裁きたいのではない。


 国を、これ以上軽い手へ置いておけないだけだ。


 そう腹を括って、彼は病床の王へ直訴を決めた。


 病床の王の前に、セドリックとクラリスが並んだ。


 冬の午後だった。厚い帳が半ば閉じられた寝所は薄暗く、薬湯の匂いと、長く病んだ人間の部屋にだけ残る重たい湿り気が漂っている。寝台の上のオズワルドは、少し前までの王よりひと回り小さく見えた。頬は落ち、肩は痩せ、王冠も式服もないその姿は、もはや“国王”というより、疲れ果てた老人に近い。


 だが、その枕元に立つエレノア王妃だけは、まだ王家が壊れていないと思い込んでいる顔をしていた。


 セドリックは一歩前へ出る。若いが、もう少年ではない顔だった。兄を追い落としたい弟の顔ではなく、いよいよ言わねばならないところまで来た者の顔だった。


「陛下」


 低く、抑えた声だった。


「兄上を嫌って申し上げるのではございません」


 寝台の上のオズワルドは何も言わない。ただ、続きを促すようにわずかに目を動かした。


「ですが、このままでは国が持ちません。いま起きている混乱は、一つ一つなら補えます。失った領の分も、交易の乱れも、貴族たちの不満も、時間をかければ埋められるでしょう」


 そこでセドリックは一度だけ言葉を切った。


「けれど、王太子が重さに耐えられないままでは、何を埋めても同じです」


 部屋の空気が少しだけ張る。


 エレノアの眉がぴくりと動いた。だが口を挟む前に、クラリスが口を開いた。


 彼女はいつも通り、すらりと背を伸ばして立っていた。表情は薄い。だが、その薄さは感情がないのではなく、曇らせないためのものだと、ここにいる誰もが知っていた。


「女にだらしないこと自体を責めているのではございません」


 静かな声だった。


「抱いた相手に気分よく情報を漏らし、便宜を図り、それを裏切りとすら認識できないことが問題なのです」


 短く切るように続ける。


「これは放蕩ではございません」


 少しだけ間を置き、続ける。


「適性の欠如です」


 誰もすぐには息を継げなかった。


 ルシアンの素行が悪いとか、女にだらしないとか、そういう言い方ではない。もっと冷たく、もっと逃げ道のない言葉だった。


「優しさでは、国は回りません。慰めでは、王家は保てません。判断を先送りし、耳障りのいい方へ流れ、重さのある進言を疎み続けた結果が今でございます」


 クラリスはそこで一度だけ視線を伏せた。ほんの一瞬だった。


「そして、その重さを一手に引き受けていた方を、王家は自ら手放しました」


 エルミナの名は出さない。


 出さないからこそ、その不在が部屋の中で輪郭を持つ。


 オズワルドの指先が、寝台の上でかすかに動いた。わずかな反応だった。だがセドリックは見逃さなかった。


「兄上に必要だったのは、守ってやりたくなる相手ではありませんでした」


 セドリックは言う。


「止める相手です。嫌がられても、重い現実を先に置く相手です。兄上はそれを鬱陶しいと思い、切りました」


「セドリック」


 エレノアがそこで初めて割って入った。低く咎める声だったが、動揺が混じっている。


「言葉が過ぎます」


「過ぎておりません」


 返したのはクラリスだった。


 王妃へ向けるにはあまりにも真っ直ぐな声だった。


「過ぎたのは、これまで王家が兄君へ与え続けた甘さのほうでございます」


 エレノアの顔色が変わる。


「あなたに、母であるわたくしの何がわかるというの」


「わかります」


 クラリスは一歩も引かなかった。


「責められるたびに抱き寄せ、傷ついたと言えば休ませ、優しい子なのだと言い続けた。その結果、責任より先に慰めを求める王太子が残りました」


「ルシアンは優しい子です!」


 ついにエレノアの声が荒れた。


「人を傷つけることを好まず、心根のやわらかな子です! 少し疲れていただけ、少し周囲が悪かっただけで――」


 そこまで言って、エレノアは寝台の脇に控えていたルシアンの腕を引いた。まるで昔と同じように、自分のそばへ寄せる。ルシアンも一瞬ためらったが、結局その動きに逆らわなかった。


 王妃はそのまま、息子の頭を胸もとへ抱き込むように包む。


「この子は、ただ優しいだけなのです……」


 その姿は、母子の情として見れば哀れですらあった。だが、この場ではあまりにも遅く、あまりにも醜かった。


 王太子はもう子どもではない。国が傾き、家門が離れ、父王が病床に伏すここまで来てなお、そのように抱かれて終わる男を、次の王として立てられるはずがない。


 セドリックは何も言わなかった。


 言う必要がなかった。


 クラリスもまた、口を閉ざした。


 目の前で示されてしまったからだ。何が兄をここまでにしたのかを。何が王家の病だったのかを。


 オズワルドは寝台の上で、その光景を見ていた。


 ずっと、どこかでわかっていたのかもしれない。長男は軽い、と。優しいだけでは足りない、と。隣にいた婚約者がどれほど重いものを受け止めていたか、と。


 だが、そのたびに先送りした。


 若いからまだよい。婚姻すれば変わる。周囲が支えればよい。王太子妃候補が整えればよい。そうやって、一つずつ決めるべきところを流してきた。


 その結果が今、目の前にある。


 国を失いかけたことではない。


 王太子が、まだ母の胸へ逃げていることだ。


 オズワルドはそこでようやく、言い訳が一つずつ潰れていくのを感じた。


 ルシアン一人の罪ではない。


 こうして逃げ場を与え続け、終わらせるべき幼さを終わらせなかった王家そのものの失敗だ。そして、それを止められなかった自分の治世もまた失敗だった。


 長く、細く、息を吐く。


「……もうよい」


 それは大きな声ではなかった。だが、部屋の全員が顔を上げるには十分だった。


 エレノアが振り向く。まだ、どこかで取り繕えると思っている目だった。


「陛下、この子は――」


「もうよい」


 今度は少しだけ強かった。


 オズワルドはゆっくりと目を開ける。病人の目だった。だがその奥に、ようやく王の判断だけが残っていた。


「ルシアンを、王太子の座から外す」


 エレノアが息を呑む。ルシアンの顔から血の気が引いた。だが、誰もすぐには声を出せない。


 それほどまでに、その宣告は遅く、そして重かった。


「余も退く」


 セドリックが目を見開く。


 だがオズワルドは続けた。


「ここまで来てなお、そのように抱かれて終わる男を次の王に据えられるわけがない」


 エレノアの腕の中で、ルシアンの肩がぴくりと震えた。その言葉は、王太子としての否定であると同時に、男としての未熟さへの裁定でもあった。


 沈黙の中で、誰も反論できない。


 そこで、魔法狂いの王女リディアが横から刺す。


「でも、最初からわかっていたのでしょう」


 誰にともなく、あるいは全員に向けて。


「あの方を切った時点で、もう立て直せなかったって」


 その一言で、部屋の中にいる誰もが口を閉ざした。


 ハニトラも、佞臣も、王妃の甘やかしも、全部あとから表へ出た傷にすぎない。王家が本当に終わり始めたのは、エルミナ・ヴァレンシュタインを失ったあの日からだった。


 もう、否定できない。


 隣国の庭で、セラフィナは小さな守り石を取り出した。


 午後の光はやわらかく、冬を越えたばかりの庭にはまだ春になりきらない匂いが残っている。整えられた低木の向こうで、水路が細くきらめいていた。王都の離宮で見上げていた狭い空とは違う、ちゃんと息の届く空気だった。


 東屋の影に立つエルミナは、その石を見てわずかに目を細めた。


「……まだ持っていらしたのですね」


 セラフィナは少しだけ笑った。


 昔のように無邪気な笑い方ではない。十年分の文と、二ヶ月半分の空白と、ようやく取り戻した安堵が混ざった、静かな笑みだった。


「あなたは忘れていてもよかったのです」


 そう言って、掌の上の石をそっと転がす。


「わたくしが忘れませんでしたから」


 風がやわらかく吹いた。枝先の若い葉が小さく鳴る。


 エルミナは、その石を見たまましばらく何も言わなかった。


 忘れていたわけではない。忘れられるほど軽いものでもなかった。けれど、あの日の約束がこんな形で返ってくるとは思っていなかった。


 幼い子どもの言葉だったはずだ。


 転びかけた小さな姫を抱き寄せて、大丈夫、と言って、守ると口にした。あれはその場を落ち着かせるための、ほとんど反射のようなものだったのかもしれない。


 なのに、その一言を、目の前の王女は十年抱えてきた。


 季節ごとの文のたびに。贈り物のたびに。自分が別の国の婚約者だと知りながらも。腹を立てて、諦めきれず、それでも礼を崩さず、ずっと忘れずに。


 エルミナはようやく、小さく息を吐いた。


「……わたくしは、もっと軽いものだと思っておりました」


 セラフィナが顔を上げる。


「何を、ですか」


「あの時の言葉も。あなたにとってのわたくしも」


 その声には、自嘲が少しだけ混じっていた。


「王都ではずいぶん長く、軽く扱われましたから。そういうものなのだと、どこかで思いかけていたのでしょうね」


 セラフィナの表情が静かに変わる。


「それは違います」


 返答は早かった。


「少なくとも、わたくしにとっては最初から一度も軽くありません」


 迷いのない声だった。


「あなたが思っている以上に、ずっとです」


 その言い切り方に、エルミナは少しだけ目を伏せた。


 強い子だと、昔から思っていた。けれど今、目の前にいるのはもう“強い子”ではない。自分の執着を恥じず、必要なら国と人を動かしてでも取りに来る女だった。


 あの小さな姫は、もういない。


 なのに、不思議と遠くなった気はしなかった。


「あなたは昔、わたくしを守ると仰いました」


 セラフィナは守り石を見下ろしながら言う。


「だから、今度はわたくしの番だと思っておりました」


 あまりにも真っ直ぐな言い方だった。


 エルミナは苦笑する。


「律儀でいらっしゃるのですね」


「執念深いのです」


 即答だった。


 思わず、エルミナの喉から小さな笑いが漏れる。


 その笑いは、王都にいる間には一度も出なかった種類のものだった。気を張ったままでは出ない、身体の奥がようやくほどけた時の笑いだった。


 セラフィナはその笑いを見て、ほんの少しだけ目を細める。


「ようやく、笑ってくださいました」


「……そんなに笑っておりませんでしたか」


「ええ。文の上ではとても上手に隠しておいででしたけれど」


 そこまで言って、セラフィナは一歩だけ近づく。


「もう、隠さなくて結構です」


 近い距離だった。けれど押しつける近さではない。逃がさないが、急かしもしない距離だった。


 エルミナは、その顔をまっすぐ見た。


 救われた、と思うにはまだ早いのかもしれない。削られた二ヶ月半は消えないし、失ったものも戻らない。王都で軽く扱われた記憶は、そう簡単に薄れはしない。


 それでも、少なくともここでは、自分の重さを重いまま受け取る者がいる。


 そのことだけで、胸の奥のどこかが、ようやく少しだけ緩んだ。


「……不思議ですわね」


 エルミナは静かに言った。


「昔はわたくしが小さな姫を守ったのに」


「はい」


「今は、その姫に守られております」


 セラフィナはそこで、少しも照れずに頷いた。


「ええ。ずっとそうしたかったので」


 それがあまりにも迷いなく出てきたので、エルミナはまた小さく笑った。


 風が抜ける。枝葉が揺れる。遠くで水の音がした。


 セラフィナの掌の上で、守り石がやわらかい光を返す。


 守ると言った日の約束は、思っていたよりずっと長く生きていたのだと、エルミナはようやく知った。


 そしてたぶん、自分が思っていた以上に、深く愛されていたのだということも。

今回は、断罪そのものよりも、切った側があとから相手の重さを知る話を書きたくて形にしました。


軽く扱った相手が、実はまったく軽くなかった。

そのことを、王家より先に隣国や実家のほうがきちんとわかっていた、という話です。


セラフィナは恋愛一直線というより、親愛と執着が長く育った子として書いています。

幼い日の一言を忘れず、自分で人も力も整えて迎えに来る王女にしたかったので、個人的にもかなり気に入っています。


ローゼリンデのような、笑っているのにまったく笑っていない母を書くのも楽しかったです。


楽しんでいただけたら嬉しいです。

感想、反応などいつもありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
元凶は確かに王妃ですね。公爵家を失った以上、この後も王家は苦労するのでしょう。聖女も政治の場に出なければまた違っていたかもしれません。
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