ショコラの嵐、昨日のきみと陽だまりで
バレンタインなのでそれなりの短編をひとつまみ。
二月十四日。
逃げるように去ったはずの故郷の駅に、僕は再び降り立った。
電車のドアが開いた瞬間、冷たい冬の風と共に、胸焼けがしそうなほど濃厚な甘い香りが鼻をつく。
ここは巨大な製菓工場が支配する「チョコレートの町」だ。
町全体を覆うこの匂いは、季節や風向きに関わらず住民の鼻腔を侵食し、どこにいても工場の支配下にあることを無意識に刷り込む。
それはまさに、逃れられない「嗅覚的パノプティコン」のようであり、かつての僕はその窒息感に耐えられずに上京したのだった。
だが、今日の僕は、あの頃のただ反発するだけの子供ではない。
二十八歳になり、東京の不動産会社で支店長を任されるほどには、世間というものを知った。
今回の帰郷も、あくまで仕事の一環だ。
この町で起きたあるトラブル。
――地域企業の倒産に伴う物件処理のため、数日間だけ戻ってきたに過ぎない。
僕はコートの襟を立て、甘ったるい空気を拒絶するように早足で歩き出した。
向かう先は、母校である鯉ケ窪学園の裏手に広がる、古い公園だ。
そこで待ち合わせをしている人物がいる。
名前は、真奈。
彼女は僕の恋人だ。
……いや、正確には「恋人になるはずの女性」と言うべきか。
僕たちの関係は、通常の恋愛とは決定的に異なる、ある残酷な物理法則に縛られていた。
公園に近づくと、奇妙な光景が目に入った。
冬枯れの木々の間から差し込む陽だまりの中に、人影がある。
ベンチに座っているのではない。
彼女は、ジャングルジムの頂上に危なっかしくしゃがみ込み、目を細めて太陽を見上げていた。
「真奈!」
僕が声をかけると、彼女はこちらに気づき、花が綻ぶような笑顔を見せた。
「あ、遼くん! 遅いよ!」
次の瞬間、彼女は信じられない行動に出た。
高さが三メートルはあるジャングルジムの天辺から、迷うことなく身を躍らせたのだ。
「危ない!」
僕が叫ぶよりも早く、彼女はふわりと空中で体勢を整え、音もなく砂地に着地した。
五点着地すら必要としない、まるで猫のような柔軟性と身体能力だった。
「驚いた? 私、高いところ好きなんだよね」
悪びれもせず駆け寄ってくる彼女の勢いは、さながら局地的な台風だ。
彼女の纏う空気はいつも騒がしく、停滞したこの町の空気を強引に撹拌する。
「今日はバレンタインだよ、遼くん! 女子にとっては戦場であり、学園にとっては嵐の日なんだから!」
彼女は僕の腕を掴むと、ぐいぐいと歩き出す。
その強引さとエネルギーは、かつて読んだミステリー小説に出てきた探偵気取りの女子高生を彷彿とさせた。
彼女がいるだけで、ありふれた日常がドタバタ劇へと変貌してしまう。
僕はこの「嵐」に巻き込まれるのが、どうしようもなく好きだった。
僕たちは、チョコレートの匂いが漂う町を歩いた。
工場の巨大な煙突からは、今日も絶え間なく甘い蒸気が吐き出されている。
「ねえ、遼くん。この匂い、やっぱり嫌い?」
真奈が不意に尋ねてきた。
「ああ。僕にとっては首輪みたいなものだからな。どこまで行っても、この町に繋がれている気がする」
僕がそう答えると、彼女は少しだけ寂しそうな顔をした。
「私は好きだよ。甘くて、優しくて……それに、今日が終わっても、この匂いだけは覚えていられる気がするから」
その言葉の端々に、微かな違和感が混じる。
彼女は時折、未来を懐かしむような、あるいは過去を予言するような奇妙な話し方をするのだ。
僕たちの間には、秘密がある。
僕たちが住む世界と、彼女が住む世界は、「時間の矢」の向きが逆なのだ。
僕にとっての明日は、彼女にとっての昨日。
僕が一日歳をとるたびに、彼女は一日若返っていく。
二つの世界が交錯し、こうして会うことができるのは、五年に一度の周期で訪れる、たった四十日間だけ。
そして今年は、僕たちにとって唯一、年齢が並ぶ二十歳の冬だった。
(正確には僕は二十八歳だが、この世界での「二十歳の枠」を使って会っている。)
「遼くん、今日は何日目?」
唐突に彼女が聞いた。
「僕にとっては、今日が初日だ。やっと君に会えた一日目だよ」
僕が答えると、真奈は足を止め、俯いた。
「そっか……。遼くんにとっては、今日が『初めまして』なんだね」
その声が震えていることに、僕は気づかないふりをした。
時間の流れが逆である以上、僕にとっての「最初の日」は、彼女にとっての「最後の日(四十日目)」になる。
彼女はこの四十日間、徐々に他人行儀になっていく僕と過ごしてきたのだ。
愛し合った記憶を持つ彼女が、まだ何も知らない僕と対面する。
その残酷な非対称性が、この再会の正体だった。
「お腹空いた!」
真奈は湿っぽい空気を振り払うように叫ぶと、駅前のカフェに僕を引っ張り込んだ。
彼女の食欲は凄まじい。
パスタにケーキ、さらに巨大なパフェまで注文し、リスか何かのように猛烈な勢いで平らげていく。
その姿は理性的というより、どこか野生的で本能的だ。
「そんなに食べて大丈夫か? 毒でも入ってるみたいにガツガツしてるぞ」
僕が冗談めかして言うと、彼女は口元にクリームをつけたままニヤリと笑った。
「毒なんて入ってないよ。でもね、この町には『見えない毒』があるの。甘くて、心地よくて、人を動けなくする毒が」
それはまるで、僕がこの町に対して抱いていた閉塞感を言い当てたようだった。
彼女は続ける。
「でもね、遼くん。毒と薬は紙一重なんだよ。あなたが毒だと思っているものが、誰かにとっては生きるための糧になることもある」
彼女はスプーンを置き、真剣な眼差しで僕を見つめる。
「……予言してあげる。遼くんは、この町に戻ってくるよ」
「まさか。仕事が終わればすぐに東京へ帰るさ」
「ううん、戻ってくる。だって、遼くんはこの町の『ほろ苦さ』を知ることになるから。甘いだけじゃない、苦味も含めた本当の味を」
彼女の予言は、いつも的中する。
それは彼女に超能力があるからではない。
彼女にとって、僕の未来はすでに経験済みの「過去」だからだ。
彼女のメモ帳には、これからの僕がどう生き、どう変わっていくかが記されているのだろう。
だとすれば、僕は本当にこの町に戻ってくるのだろうか。
父との確執、兄の諦念、そして元恋人のサキが選んだこの町での生活。
それらすべてを、僕は受け入れることになるのか。
陽が傾き始めた頃、僕たちは工場の煙突が一望できる高台の公園へと移動した。
夕日が沈むにつれて、町はオレンジ色から群青色へと染まっていく。
風に乗って運ばれてくるチョコレートの匂いが、夜の冷気を含んで少しビターな香りに変わった気がした。
「そろそろ、時間だね」
真奈が呟く。
日付が変わる二十四時、彼女はこの世界から消える。
僕にとっては明日も会えるはずの彼女だが、彼女にとっての僕は、もう二度と会えない存在になる。
五年に一度の周期が終われば、次に会うとき、僕たちは大きく年齢が離れてしまっているからだ。
恋人として過ごせる時間は、今夜で終わる。
彼女は鞄から、小さな包みを取り出した。
「はい、これ。ハッピー・バレンタイン」
少し歪な形をした手作りのチョコレートだった。
「ありがとう。……これが、君からの最初のプレゼントか」
僕がそう言うと、真奈は首を横に振った。
「ううん。私にとっては、これが『最後』のプレゼント。四十日間、遼くんに渡すタイミングをずっと探してたの」
僕は包みを開け、一粒を口に放り込んだ。
甘い。けれど、どこか切ない味がした。
「美味しいよ」
その一言を聞いた瞬間、真奈の大きな瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「……よかった。やっと、渡せた」
彼女は泣きじゃくりながら、子供のように顔をくしゃくしゃにしている。
僕が出会ったばかりの笑顔の彼女は、実は別れの悲しみを必死に堪えていた四十日目の彼女だったのだ。
僕が「初めまして」と挨拶したその瞬間、彼女は「さようなら」の激痛に耐えていた。
真奈は震える手でスマートフォンを取り出し、ある曲を流した。
ザ・ビーチ・ボーイズの『素敵じゃないか』
軽快なイントロが、静まり返った公園に響く。
「ねえ、歌詞の意味、知ってる?」
彼女が鼻をすすりながら歌うように言う。
「『もっと大人になれたら素敵なのに』……『そうすれば、ずっと一緒にいられるのに』って」
その歌詞は、僕たちの運命そのものだった。
逆行する時間の中で生きる僕たちは、共に歳を重ねることができない。
結婚することも、同じ速度で歩むことも許されない。
「もっと大人になりたかったな、私」
彼女の言葉には、時間的な意味だけでなく、もっと深い、生物学的な悲しみが込められているように聞こえた。
彼女には、人間として大人になる未来がないのかもしれない。
十三歳以前の記憶を持たない彼女。
驚異的な身体能力と、陽だまりを愛する習性。
そして、僕がかつて江の島で助けた一匹の猫。
すべての符号が、一つの切ない真実を指し示していた。
彼女は、人間に変身してまで僕に会いに来てくれたのだ。自分の寿命という対価を支払って。
「真奈」
僕は彼女を強く抱きしめた。
チョコレートの甘い香りと、彼女の温もりが僕の胸を満たす。
「僕たちは、すれ違ってなんかいない。端と端を結んだ輪になって、ひとつに繋がっているんだ」
それは、苦し紛れの慰めだったかもしれない。
けれど、彼女の震えが少しずつ収まっていくのを感じた。
「……うん。そうだね。私たちは、ひとつだね」
彼女は僕の背中に腕を回し、耳元で囁いた。
「ありがとう、遼くん。私を見つけてくれて。私を愛してくれて。……私の九つの命を全部使っても足りないくらい、幸せだった」
日付が変わる瞬間、腕の中の重みがふっと消えた。
まるで最初から幻だったかのように、真奈の姿は跡形もなく消滅していた。
残されたのは、夜風と、変わらない工場の機械音、そしてチョコレートの匂いだけ。
世界は修正される。
彼女に関する写真も、データも、周囲の人々の記憶も、すべてが消え失せるだろう。
彼女が存在したという事実は、僕の記憶の中にしか残らない。
翌朝、僕は駅へと向かった。
町は相変わらずチョコレートの匂いに包まれている。
けれど、昨日まで感じていた不快感は消えていた。
この匂いは、彼女が生きた証だ。
彼女が愛したこの町の空気を、僕も受け入れようと思う。
改札を抜けようとしたとき、ふと視線を感じて振り返った。
駅の入り口、日当たりの良いコンクリートの上に、一匹の猫が座っていた。
毛並みの良い、美しいロシアンブルーだ。
その首には、昨日僕が食べたチョコレートの箱にかかっていた、赤いリボンが巻かれている。
猫は僕の顔をじっと見つめ、ゆっくりと瞬きをした。
「……またな」
僕は小さく手を振った。
猫は「ニャア」と短く鳴くと、軽やかな跳躍で塀の上に飛び乗り、陽だまりの中へと消えていった。
電車がホームに入ってくる。
僕は東京へ戻る。
けれど、予感があった。
彼女が言った通り、僕はいつかこの町に戻ってくるだろう。
家族と向き合い、この甘くてほろ苦い匂いと共に生きていくために。
ヘッドフォンからは、『素敵じゃないか』が流れている。
嵐のような恋は去ったけれど、その温もりは、陽だまりのように僕の胸に残り続けている。
とある映画に影響されすぎてしまったが、まあ良しとします。




