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墓場から  作者: バスターマン
3/3

定食屋

 朝練習が終わった。


 隼人がロッカールームでユニフォームを脱いでいると、桐生が声をかけてきた。


「柊。」


「はい。」


「飯、行くか。」


 桐生の誘いは珍しかった。寡黙なベテランは普段、練習が終わるとさっさと帰る。


「はい、行きます。」


 隼人は即答した。


 練習場から徒歩10分。海沿いの商店街の一角に、昔ながらの定食屋があった。


「来来軒」


 看板の文字は色褪せ、入口の暖簾も古びている。店内に入ると魚の煮付けの匂いが漂っていた。


 桐生が奥のテーブル席に座り、隼人もその向かいに腰を下ろす。


「すみませーん。」


 桐生が厨房に声をかける。60代くらいの女性が顔を出した。


「あら、桐生さん。いらっしゃい。」


「今日もサバ定食で。」


「はい、はい。そちらの方は?」


「同じので。」


 女性が奥に引っ込む。店内には古びた時計の音だけが響いていた。


 水が運ばれてくる。桐生がコップを手に取り、一口飲んだ。


「柊、紅白戦見てたぞ。」


「……はい。」


「田所のストレート、差し込まれてたな。」


 隼人の手が止まる。


「球速130キロ台の直球に。」


「……はい。」


 否定できなかった。それが一番痛いところだった。


「俺もそうだった。」


 桐生がぽつりと言った。


「30過ぎた頃から、二軍の遅い球に差し込まれ始めた。」


 隼人は黙って聞いた。


「帝都にいた頃、二軍では打率3割近く打ってた。25、6歳の頃だ。でも28、9になると2割5分くらいに落ちた。二軍でだぞ。」


 桐生がコップを置く。


「一軍じゃもっと悲惨だった。打席に立っても、球が見えてるのに体が動かない。」


「……。」


「頭じゃわかってるんだ。外角のストレートが来るって。配球も読めてる。でも振り出しが遅れる。0.1秒だけ。それだけで終わりだ。」


 桐生の声には感情がなかった。


「北嶺に移ってもそうだった。33、34歳。もう反応速度がガタ落ちだ。二塁打を打つはずの打球が、内野ゴロになる。外野の間を抜けるはずが、正面に飛ぶ。」


「それは……筋力の問題ですか。」


 隼人が聞いた。


「いや。」


 桐生は首を横に振った。


「筋力は維持できる。ウエイトトレーニングすればいい。問題は神経だ。」


「神経。」


「初動反応。目で球を捉えてから体が動き出すまでの速度。これは鍛えようがない。年齢とともに落ちる。」


 桐生が水を一口飲む。


「お前、昨日の紅白戦で田所の初球、甘い球だったろ。真ん中高め。」


「……はい。」


「振り遅れた。」


「はい。」


「あれが全てだ。」


 桐生は隼人を見た。


「28歳で、もう始まってる。」


 サバ定食が運ばれてきた。


 焼きサバに味噌汁、ご飯、漬物。


「いただきます。」


 二人は箸を取る。


 隼人はサバの身を箸でほぐしながら、桐生の言葉を反芻していた。


 28歳で、もう始まっている。


 身体能力の衰え。


「でも、水島は打ちましたよね。荒木のストレートを。」


 隼人が言った。


「20歳だからな。」


 桐生が即答する。


「お前が20歳の時も打ててたろ。二軍なら。」


「……はい。」


「体が反応する。何も考えなくても、甘い球なら振り切れる。それが若さだ。」


 桐生が味噌汁をすする。


「お前は今、その若さを失いかけてる。」


 隼人は何も言えなかった。


「俺が帝都で戦力外になったのは30歳の時だ。でも実際は28の時点で終わってた。」


「……。」


「28で反応速度が落ちて、29で打率が下がって、30で切られた。そういう流れだ。」


 桐生がサバを口に運ぶ。


「お前、西都で7年やっただろ。一軍では打率2割そこそこ。二軍では3割。」


「はい。」


「その差が何か、考えたことあるか。」


「技術の差だと……。」


「違う。」


 桐生が遮った。


「時間だ。」


「時間?」


「一軍の投手は球が速い。140後半から150キロ台。変化球も鋭い。打者が反応できる時間が短い。」


 桐生が箸を置く。


「二軍の投手は130キロ台。反応できる時間が長い。だからお前は打てた。西都時代も、今も。」


「……。」


「でもその『時間』が、年齢とともに縮まってる。28歳のお前は、二軍の投手相手でも反応が遅れ始めてる。」


 桐生が隼人を見た。


「あと2、3年で、二軍でも打てなくなる。そうなったら終わりだ。」


 隼人の手が震えた。


「俺がそうだった。33歳で二軍でも打率2割切った。そこで北嶺を戦力外になった。」


「……。」


「碧海に拾われたのは運が良かっただけだ。捕手不足だったから。でも今年で終わりだろうな。」


 桐生がご飯を口に運ぶ。


「35歳。もう反応速度はゼロに近い。昨日の練習でも、ブルペンのストレートが見えてなかった。」


 店内の時計の秒針が、カチカチと音を立てている。


「引退するんですか。」


「たぶんな。」


 桐生は淡々と答えた。


「選択肢はない。体がついていかないんだから。」


「……。」


「でもお前はまだ28だ。」


 桐生が隼人を見る。


「俺より7年若い。7年は長い。でも7年は短い。」


「……。」


「7年後、お前は35歳だ。俺みたいに反応速度がゼロになって、何もできなくなる。それまでに何かを変えないと、同じ道を辿る。」


 隼人は箸を置いた。


「何を、変えればいいんですか。」


「わからん。」


 桐生はあっさりと言った。


「俺もわからなかった。だから何も変えられなかった。」


「……。」


「でも一つだけ言えることがある。」


 桐生がサバの骨を外す。


「反応速度は戻らない。神経の問題だから。でも、対応の仕方は変えられる。」


「対応の仕方。」


「技術だ。」


 桐生が言った。


「若い時は反応速度だけで打てる。でも年を取ったら、技術で補うしかない。」


「技術って、具体的には……。」


「配球を読む力。投手の癖を見抜く力。自分のスイングを最小限の動作に削ぎ落とす技術。」


 桐生が箸を置いた。


「一軍で長く活躍してるベテランは、みんなそうしてる。反応速度が落ちても、技術で補ってる。」


「……。」


「でもお前と俺には、その技術がない。だから二軍止まりだった。」


 桐生が味噌汁を飲み干す。


「俺はもう手遅れだ。でもお前は、まだ間に合うかもしれない。」


 その言葉に、希望はなかった。


 ただの可能性の提示。


 変わるかもしれない。変わらないかもしれない。


 食事を終えて店を出る。


 桐生が会計を済ませる。隼人も財布を出したが、桐生が手で制した。


「いいよ。」


 商店街を歩く。海風が冷たい。3月の初めだが、まだ冬の名残がある。


「柊。」


「はい。」


「お前の守備は一流だ。」


「……ありがとうございます。」


「でも守備だけじゃ使われない。それはわかってるよな。」


「はい。」


 桐生が立ち止まる。


「打てなければ、いくら守備が上手くても意味がない。プロはそういう世界だ。」


「わかってます。」


「わかってるなら、何か変えろ。」


 桐生が隼人を見た。


「技術を磨け。配球を読む力をつけろ。自分のスイングを見直せ。」


「……はい。」


「でも簡単じゃないぞ。」


 桐生が歩き出す。


「技術ってのは、一朝一夕で身につくもんじゃない。何年もかけて積み上げるもんだ。」


「……。」


「お前には7年ある。でも7年で足りるかどうかはわからない。」


 隼人も歩き出す。


「それでも、やるしかないんだろうな。」


 桐生がぽつりと言った。


「俺たちには、他に道がないから。」


 寮に戻る。


 部屋に入ると、ベッドに横になった。


 天井を見上げる。


 桐生の言葉が頭の中でリフレインする。


「28歳で、もう始まっている。」


 身体能力の衰え。


 反応速度の低下。


 それは取り戻せない。


 でも、技術で補える。


 そう桐生は言った。


 配球を読む力。


 投手の癖を見抜く力。


 スイングを最小限にする技術。


 どうすればいいのか。


 答えは出ない。


 それでも、明日もバットを振る。


 技術を磨く方法を探しながら。


 他に道がないから。


 翌朝、6時に起床。


 グラウンドに向かう。


 朝練習には桐生もいた。


「おはようございます。」


 隼人が声をかける。


「おう。」


 桐生は短く返す。昨日の会話がなかったかのように、いつも通りの態度だった。


 キャッチャーミットをはめてブルペンに向かう桐生の背中を見る。


 35歳のベテラン。


 引退を考えながら、それでもミットをはめる。


 隼人もバットを握る。


 ティーバッティングを始める前に、村瀬コーチに声をかけた。


「村瀬さん。」


「ん?」


「配球を読む練習って、どうすればいいですか。」


 村瀬が怪訝な顔をする。


「配球? お前、そんなこと考える前に打てるようになれよ。」


「でも……。」


「いいか、柊。配球読むのは一軍レベルの話だ。お前みたいな二軍専が考えることじゃない。」


 村瀬はそれだけ言うと、別の選手のところに行ってしまった。


 隼人はバットを握りしめる。


 誰も教えてくれない。


 ならば、自分で探すしかない。


 ティーバッティングを始める。


 今日からは、ただ打つだけじゃない。


 一球一球、自分のスイングを確認する。


 無駄な動きはないか。


 タイミングの取り方は正しいか。


 試行錯誤。


 それしかない。


 ボールを打つ音だけが、静かなグラウンドに響く。


 答えは出ない。


 でも、探し続ける。


 7年という時間が尽きる前に。

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