紅白戦
2月最終週。
碧海シーレオンズ2軍の紅白戦が組まれた。オープン戦を前にした実戦形式の練習試合だ。1軍は別グラウンドで1軍同士の紅白戦。2軍は2軍だけで行う。それがこの球団の序列だった。
ロッカーでユニフォームに着替えていると、藤崎監督が近づいてきた。
「柊。」
「はい。」
「今日の紅白戦、スタメンで使う。紅組だ。」
隼人の手が一瞬止まる。
「6番、ショート。打順も守備位置も、お前が一番慣れているところだ。」
「……はい。」
「結果を出せ。」
それだけ言って藤崎は去っていった。励ましでも期待でもない。事務的な確認に近い口調だった。
隣のロッカーで丸山が声をかけてくる。
「おお、スタメンじゃん。よかったな。」
「ああ。」
「俺も紅組だ。7番レフト。今日はアピールしないとな。」
笑ってはいるが、目の奥は硬い。丸山にとっても、この紅白戦はただの練習ではない。
グラウンドに出る。2月の終わりとはいえ、海風はまだ冷たい。スタンドは空っぽで、ベンチ裏に球団スタッフが数人いるだけだった。
紅組と白組に分かれる。
白組の先発は田所健二。独立リーグ上がりの29歳。最速は130キロ台前半だが、低めへの制球と緩急でカウントを作る典型的な2軍用の右腕だ。球威で押すタイプではない。ゾーンの出し入れと配球で打者を崩す投手。
紅組の先発は朝倉翔。ストレートの質はいいが、制球が安定しない。隼人と同じように「2軍では通用するが、1軍では壁に当たっている」存在だ。
打てるはずだ。
少なくとも、打たなければならない相手だ。
試合が始まる。
1回表、隼人の打順は回ってこなかった。三者凡退。
その裏、守備に就く。ショート。グラブをはめると体の感覚がはっきりする。送球の距離感、打球への初動。ここだけは今でも1軍基準に近い自信があった。
朝倉は立ち上がりに四球とヒットで走者を背負ったが、ショートフライと内野ゴロで切り抜けた。隼人はゴロを処理して二塁に送る。ダブルプレーは取れなかったが、送球は正確だった。
「ナイス。」
ベンチから桐生の声が飛ぶ。
守備では評価される。だが、今欲しいのはそれではない。
2回表。
6番、柊隼人。
名前がアナウンスされる。観客はいない。それでも自分の打席だという現実だけははっきりと響いた。
バッターボックスに入る。マウンドの田所を見る。構えに無駄がない。セットに入るまでの動作が小さく、リリースポイントが安定している。球速は遅いが、タイミングは取りづらいタイプだ。
初球。
外角低めへのストレート。
思ったよりも伸びてくる。
振り出したバットの先を、ボールがわずかに追い越す。
空振り。
球速の問題ではない。フォームの再現性と、指にかかった回転数。打者の目線で見ると、表示以上に「速く見える」球だ。
二球目。
内角に沈むチェンジアップ。
見送る。ボール。
三球目。
外角へ緩いカーブ。
わかっていた配球だった。ストレートでカウントを取り、緩い球でタイミングをずらす。2軍で何度も見てきた組み立てだ。それでもトップが下がりきらないままバットが出る。
ファウル。
芯を外した乾いた音。
追い込まれた。
四球目。
真ん中低めへのストレート。
来るとわかっていた。
それでもスイングがワンテンポ遅れる。
打球はセカンドゴロ。
インパクトで押し込めず、角度もつかない。
アウト。
遅い球なのに差し込まれる。
田所のストレートは1軍では通用しない球質だ。だが、その球を2軍ですら完璧に捉えられない自分がいる。
ベンチに戻る。
村瀬は何も言わない。スコアシートに視線を落としたままだ。
なぜ合わない。
なぜ、振り遅れる。
球速ではない。
体の反応だ。初動、踏み込み、上半身と下半身の連動。わずかなズレが、そのまま凡打になる。
自分は今、技術的に下り坂に入っているのか。
そう考えたくはなかったが、バットの感触がそれを否定してくれなかった。
3回、白組の攻撃で朝倉が崩れた。四球と安打で走者を背負い、2番手の左腕・石井に交代する。だが流れは止まらず、外角の直球をライト前に運ばれて2点を失った。
0対2。
2軍の紅白戦とはいえ、点差はそのまま評価に直結する。
4回表。
再び隼人の打順が回ってきた。
田所はまだマウンドにいる。球数は多くない。テンポもいい。2軍で長く投げ続けてきた投手特有の、省エネで無駄のない投球だ。
バッターボックスに入る。
深く息を吸い、スタンスをわずかに広げる。踏み込みを早め、差し込まれないように意識する。
初球。
真ん中やや高めのストレート。
来た。
本来なら、叩くべき球だ。
だが体が反応しない。
一瞬の躊躇。その分だけバットが遅れる。
見逃し。ストライク。
2球目。
外角低めに沈むカーブ。
スピード差に対応しきれず、スイングが泳ぐ。
空振り。
3球目。
内角へのストレート。
今度は振りにいく。だが踏み込みが浅い。インパクトが体の前に来ない。
ファウル。根元に当たった鈍い音。
追い込まれた。
4球目。
外角低め、チェンジアップ。
わかっていた。決め球はこれだ。
それでも体は前に突っ込む。
ブレーキが利かない。
空振り三振。
ストレートについていけず、変化球にも対応できない。
技術の引き出しは頭にある。だが体がその通りに動かない。
ベンチに戻ると、桐生が小さく声をかけた。
「ドンマイ。」
慰めだとわかっているからこそ、胸に重く残った。
5回、白組がさらに1点を追加し、0対3。
6回表。
隼人の3度目、そしてこの試合で最後の打席。
白組は投手を交代していた。
荒木大輔。24歳。球速は145キロ前後まで出るが、制球が荒く、ゾーンにまとまらないタイプだ。
速球派。
田所とは対照的な投手。
バッターボックスに入る。
今度は差し込まれないよう、始動をさらに早める。
初球。
真ん中高めに浮いたストレート。
振る。
ファウル。
ヘッドは出ている。だが芯を外した。ミートポイントがまだ前に来ていない。
2球目。
外角へのスライダー。
見送る。ボール。
3球目。
内角高めのストレート。ボール球だが威圧感がある。
手が出かかり、止める。1ストライク2ボール。
4球目。
甘い。
真ん中やや低め。
今度こそ。
振り切った。
打球は上がる。
角度はついた。だが初速が足りない。
レフトが数歩下がって捕る。
外野フライ。
力負けではない。
だが、完璧に捉えた感触もない。
3打席、3凡退。
ベンチに戻る。
その直後だった。
7回表。
紅組が一死二塁のチャンスを作る。
「代打、水島。」
藤崎監督の声。
水島勇気。
20歳。隼人の後輩で、ショートのライバル。
荒木の初球。
甘いストレート。
水島は迷いなく振り抜いた。
インパクトの音が違った。
ヘッドが走り、打球に強烈な回転がかかる。
打球は伸びる。
レフトが下がる。
フェンス際。
そのまま、越えた。
ツーランホームラン。
3対2。
ベンチが沸く。
若い身体が、速球に正面から負けない。
隼人は立ち上がり、拍手を送る。
その手が震えていることに気づいた。
なぜ震える。
悔しさだけではない。
荒木のストレートは、今の自分にも打てる球種のはずだ。
だが、水島のような初速と角度は出せなかった。
反応速度。
スイングスピード。
踏み込みの強さ。
若さという言葉で片づけたくない差が、そこにあった。
試合後、ロッカーで藤崎監督に呼ばれる。
「今日の打撃、見た。」
「……はい。」
「田所も荒木も2軍レベルだ。それでも結果が出ない。」
事実だった。
「当分は2軍だ。上で使える内容じゃない。」
「……わかりました。」
ロッカーの鏡に映る自分の顔を見る。
28歳。
目の下に疲労の影。
バットを握る手を見つめる。
あの震えは、恐怖でも嫉妬でもない。
――この球速帯で、もう差し込まれ始めている。
プロとして、その事実を理解してしまった身体の反応だった。
寮に戻る。
弁当を前にしても、箸が進まない。
2軍では打てるはずだった。
その前提が、音を立てて崩れ始めている。
窓の外、海鳴り。
墓場と呼ばれるこの場所で、
自分はもう、埋まり始めているのかもしれない。
それでも、明日もバットを振る。
振らなければ、何も残らないから。




