墓場の門
二月の湿った海風がグラウンドの土を撫でていく。
柊隼人はネット裏のベンチに腰を下ろしたまま、白いスパイクの紐を結び直していた。28歳の指は7年前よりも確実に太くなっている。筋肉ではなく関節の節くれ立ちだ。
碧海シーレオンズ二軍練習場。
老朽化したスタンドには人影もなく、バックネットの塗装は剥げ落ちている。外野フェンスの広告は3年前に撤退した地元スーパーのものがそのまま残っていた。誰も金を出さないのだ。この球団には。
「柊、行くぞ。」
二軍打撃コーチの村瀬が無愛想に声をかける。隼人は「はい。」と短く返事をして立ち上がった。バットケースから使い込んだメイプル材のバットを引き抜く。グリップのテープはもう何度目かの巻き直しだ。新しいバットを買う余裕は年俸400万円の生活にはない。
打席に向かう途中、ふと西都インペリアルズ時代の自分を思い出す。
入団した年。21歳。希望に満ちていた。いや、希望しかなかったと言うべきか。
ドラフト5位。決して高くない順位だったがそれでも構わなかった。プロの世界に入れたのだから。守備には自信があった。大学時代、リーグ屈指の遊撃手と呼ばれた。華麗なグラブ捌きと正確な送球。スカウトが評価したのもそこだった。
打撃はまあ、これから磨けばいい。そう思っていた。
1年目、二軍でベストナインを獲った。打率3割2分。2本塁打に28打点。盗塁も17個決めた。
「来年は一軍だな。」
チームメイトにそう言われて本気でそう思った。
2年目、一軍に昇格した。18試合に出場。打率2割4分1厘。安打はわずか7本。そのうち2本は内野安打だった。代走と守備固めがほとんど。打席に立ってもバットに当たる気がしなかった。二軍の投手とは何もかもが違った。球の速さ、変化球の切れ味、配球の巧みさ。
3年目、開幕スタメンで6番ショートに名を連ねた。これがチャンスだ。そう自分に言い聞かせた。
5月に二軍に落ちた。
一軍での成績は42試合で打率1割8分9厘。27打席連続無安打という屈辱的な記録も作った。ベンチで監督の堀内が首を振るのが見えた。コーチ陣の視線が冷たくなるのを感じた。
それからは繰り返しだった。
二軍では打てる。3割を下回ることはなかった。守備も相変わらず一流だ。ファームのベストナインに何度も選ばれた。
「ファームの帝王。」
そんな呼ばれ方をするようになった。褒め言葉ではない。皮肉だ。
一軍に上がると打てない。2割そこそこ。ホームランはゼロに近い。長打も出ない。いつしか「二軍専」という烙印を押された。
4年目も5年目も6年目も。
何も変わらなかった。
7年目のシーズン終了後、二軍の事務所に呼ばれた。監督の堀内がデスクの向こうに座っていた。
「柊、お疲れさん。」
堀内は書類から目を上げずに言った。
「今季限りで戦力外だ。」
わかっていた。それでも言葉が胸に突き刺さった。
「お前は二軍では輝ける。それは認める。でも一軍では無理だ。」
堀内は淡々と続けた。
「佐伯が入ってきた。ドラフト1位の超大型新人だ。お前の居場所はもうない。」
24歳の佐伯颯太。打撃も守備も走塁もすべてが隼人の上を行く。それは認めざるを得なかった。
「トライアウトは受けるか?」
「受けます。」
即答した。それしか道はなかった。
11月のトライアウト。5球団のスカウトが視察に来ていた。3打数1安打。内野安打だった。守備ではノーエラー。持ち味は出せた。
オファーは1つだけ。
碧海シーレオンズ。
12年連続最下位。ネットでは「墓場」「リサイクルボックス」と呼ばれる球団。年俸は400万円。前年の1200万円から3分の1になった。
それでも断れなかった。
ここしかなかったから。
「柊、何ボサッとしてんだ。」
村瀬の声で現実に引き戻される。
打席に立つ。マウンドには二軍の若手投手、朝倉翔がいた。22歳。ドラフト5位の4年目。一軍ではまだ2試合しか投げていない。防御率8点台。隼人と同じく「二軍専」の烙印を押されている。
朝倉が構える。ストレート主体の投手だ。速いが制球が甘い。
初球、真ん中高めに浮いた。
振った。バットが空を切る。
タイミングが合わない。いつものことだ。二軍の投手相手でも最近は打てなくなってきた。体が重い。反応が鈍い。28歳の体はもう若くない。
2球目、外角低め。見逃す。
3球目、またストレート。今度は内角。
当たった。打球はライト前に落ちる。
「よし。」
村瀬が短く言う。褒めているのか、ただの確認なのかわからない。
打席を外れて次の打者に譲る。ベンチに戻ると水島勇気が座っていた。20歳のショート。ドラフト6位のルーキー。隼人のライバルだ。
「お疲れっす。」
水島が軽く声をかける。馴れ馴れしい口調だ。
「ああ。」
隼人は素っ気なく返す。
「柊さんって西都時代は一軍で何本ホームラン打ったんでしたっけ?」
水島がニヤリと笑う。
「1本だ。」
「へえ、1本っすか。7年で。」
嫌味だとわかっている。それでも言い返せない。事実だから。
「まあ、俺は守備で勝負してるから。」
隼人はわざと軽い調子で返す。
「ああ、そうっすね。守備は上手いっすもんね。」
水島はバットを担いで打席に向かう。その背中に若さと自信が滲んでいた。
隼人はベンチの隅に腰を下ろす。
守備で勝負。
自分でも言い訳だとわかっている。プロ野球選手は打てなければ意味がない。守備がどれだけ上手くても打撃がゼロなら使われない。それが現実だ。
水島の打席。初球を振る。打球は外野の間を抜けた。ツーベースだ。
「ナイスバッティング!」
村瀬が声を上げる。隼人への「よし」とは明らかに温度が違う。
水島が二塁ベース上でこちらを見る。ニヤけた表情。
隼人は目を逸らした。
練習が終わり寮に戻る。
碧海シーレオンズの二軍寮は築30年以上の古いアパートだ。一人部屋だが6畳一間。風呂は共同。エアコンは古く温度調整がうまくいかない。
部屋に入ると冷蔵庫を開ける。中身はコンビニで買った弁当とペットボトルの水だけ。弁当を電子レンジで温め小さなテーブルに置く。
スマートフォンを取り出す。SNSは開かない。開けば碧海シーレオンズへの罵詈雑言が溢れている。それは知っている。
「墓場」「リサイクルボックス」「戦力外御殿」。
自分もその一員だ。
代わりにニュースアプリを開く。
『帝都タイタンズ、開幕投手は沢村に決定』
沢村健。大学時代のチームメイトだ。エースとして5年連続2桁勝利。通算127勝。防御率2点台。隼人とはまるで違う世界にいる。
去年の秋、偶然街で会った。
「隼人、久しぶりだな。」
「ああ、久しぶり。」
「碧海に決まったんだって? 頑張れよ。」
「ああ。」
「お前、もっとやれるはずだ。二軍であれだけ打ててるんだから。」
励ましの言葉。それはわかっている。でもその言葉が逆に胸に刺さった。
「ありがとう。」
それしか言えなかった。
沢村はもう一度笑って去っていった。颯爽と。隼人とは違う輝かしい世界へ。
スマートフォンを置く。弁当を口に運ぶ。味がしない。
窓の外では海鳴りが聞こえる。
碧海市は港町だ。漁業で栄えた街だったが今は衰退している。親会社のアクアネットはIT企業だが球団運営には金をかけない。低コスト運営。それが方針だ。
ファンは少ない。平均観客動員数は2800人。全球団最下位。試合中でもスタンドはガラガラだ。応援する声よりもヤジの方が大きい。
それでもここでやるしかない。
もう後がないから。
弁当を食べ終えてゴミ箱に捨てる。シャワーを浴びて布団に入る。
天井を見上げる。
二軍では打てるのに一軍では打てない。
その理由がわからない。技術の差なのか。メンタルの問題なのか。それとも才能の限界なのか。
答えは出ない。
明日も同じ練習が続く。二軍で。誰も見ていないグラウンドで。
目を閉じる。
眠れない夜がまた始まる。
翌朝。
6時に起床。簡単な朝食を済ませてグラウンドに向かう。
朝練習は任意だが隼人は毎日来る。来ないと不安になる。打てない理由を探すためにバットを振り続ける。
グラウンドにはもう何人かの選手がいた。
桐生誠一郎。35歳のベテラン捕手。帝都タイタンズから北嶺ブリザーズ、そして碧海へ。3球団目だ。
「おう、柊。」
「おはようございます。」
「早いな。」
「はい。」
「真面目だな、お前は。」
桐生はキャッチャーミットを嵌めてブルペンに向かう。黙々と練習する姿はどこか孤独に見えた。
丸山健太もいた。28歳の外野手。独立リーグ出身。一軍出場はゼロ。それでもいつも明るい。
「おっす、隼人! 今日も頑張ろうぜ!」
「ああ。」
「昨日の打撃、良かったじゃん。ライト前ヒット。」
「二軍相手だけどな。」
「いいって、いいって。積み重ねだよ。」
丸山は笑顔で肩を叩く。その前向きさが時々眩しすぎて辛くなる。
ティーバッティングを始める。ボールを打つ音だけが静かなグラウンドに響く。
何球打ってもしっくりこない。タイミングが合わない。力が入りすぎている。それはわかっている。でもどうすればいいのかわからない。
村瀬コーチが遠くから見ている。何も言わない。期待もしていない。そんな目だ。
1時間後、ティーバッティングを終える。汗が滲む。2月の寒さも体を動かせば気にならない。
休憩中、ベンチに座る。
丸山が隣に座った。
「なあ、隼人。」
「何だ。」
「俺たち、ここから這い上がれると思う?」
丸山の声にはいつもの明るさがなかった。
「さあな。」
「俺、もう3年目だけど一軍に一度も上がってないんだ。」
「知ってる。」
「このままだと来年はないかもしれない。」
「……。」
「でも諦めたくないんだよな。」
丸山は空を見上げた。
「俺、野球しかできないから。」
隼人も同じだった。野球しかできない。他に何の技術もない。大学を出てすぐにプロに入った。一般企業で働いた経験もない。
野球を辞めたら何が残るのか。
答えは何もない。
「頑張るしかないな。」
隼人はぽつりと言った。
「そうだよな。」
丸山がまた笑顔を作る。無理をしているのがわかった。
練習が再開される。
また同じ一日が始まる。
二軍の誰も見ていないグラウンドで。
墓場と呼ばれる場所で。
それでもバットを振り続ける。
他に道がないから。




