6.触れたのは、熱じゃなくて不安だった
西野先輩に飴をもらってから、二週間が経った。文化祭まであと一週間となったこの日、俺はクラスの女子からコスプレの仮装合わせに付き合わされていた。
どうやら、うちのクラスのコスプレ写真館は、他のクラスとの差別化を図るということで、和装限定にするらしい。
衣装係を買って出た香川さんは呉服屋の娘だそうで、親に話したら、小物や反物を貸してもらえることになったという。クラスの男女数名は香川さんに着付けを教えてもらい、お客さんの着付けを行うのだそうだ。
そして、その練習台──として、俺が使われている。
コンセプトは大正ロマン風の書生スタイル。
真っ白な書生シャツの上にベージュの着物、それから焦げ茶の袴をつけた状態で立つ俺に、女子たちが羨望のような眼差しを向けてくる。
こういうの、俺はすごく苦手。だけど、みんなはかなり楽しいらしい。わいわいはしゃいでいる。
「篠宮くんなら、絶対に似合うと思った~!」
香川さんが満足げな声を上げると、周りの女子たちも「今の篠宮くん、テレビに出ても良いレベルだよ」「これ、うちのクラスが売上一番になるんじゃない?」なんて言い出す。
背景セットを作っている子たちも一旦作業を止めて俺の様子を見ていた。目が合うなり「私、篠宮くんのために頑張って撮影セット作るからね!」だなんて、やる気を出し始めて、ちょっとびっくりする。
正直、なんで俺だけ……と内心困惑状態なのだけど。柳川や他の男子に助けを求めようにも、彼らからは「文化祭の売上トップだったら、食券一週間分もらえるから頼んだぞ!」と言われてしまった。もう、俺は逃げられないらしい。
さらには「篠宮くん指名撮影枠作って、指名料とったらもっと売上いいんじゃない?」「それいいね!」なんて、声まで聞こえ始めたから、色んな意味で終わった。俺は、客寄せパンダか何かみたいだ。
「あの……俺、いつまでこの状態でいればいい感じ……?」
近くにいる香川さんに聞いたら、彼女は「えっ? これから三輪さんが写真撮影もするって言ってたよ?」と言い始めて、俺は絶句した。
「そうそう。篠宮くんの写真でポストカードも作るって~」
「セットはまだできてないから、外で写真撮ろうかって言ってたよ」
「ほら、ここから城址公園まで自転車で10分くらいだし、近くの川沿いの柳の木が映えスポットでしょ」
女子たちはもうすっかり、撮影する気らしい。彼女たちの手元には、伊達眼鏡や本などの小物が準備されていた。
ていうか、俺のポストカードって需要あるの?
それに柳の木……? 自転車……? 袴で……?
え、待って。まさかこの格好で、町の中を移動しなきゃいけないってことか?
そう思ったら、絶望感でいっぱいだった。
俺のおばあちゃんの商店街は、今から行くという城址公園のすぐそば。たぶん、商店街を通って向かうはずだ。となれば、八百屋のおじちゃんとか、魚屋のおばちゃんとか、ご近所さんにも見られることになる。おばあちゃんは「あらあら~」って言いそうだけど、皆からこんな格好を見られるなんて……最悪だ。しばらくの間は、みんなから「雪路くんは〜」って、またうんぬんかんぬん、言われることになる。
俺はすぐに、柳川を探した。クラス委員として色々周りのサポートをしているだろうけど、さすがに一人で仮装なんて嫌すぎる。爽やかな柳川なら、きっと似合うはず。だが、見回したところで、教室の中にはいないらしい。
「あのさ、ちょっと……俺、柳川に用があるから、探してくる」
近くの女子に声を掛けて、俺は柳川を巻き込もうと、教室を出た。
よく周りを見ている柳川なら、文化祭で必要な物を管理している準備室に行ってそうだ。たしか、三年の校舎の方にあるって、言ってたような。そこまで考えて、俺の頭に嫌なイメージが浮かんだ。
西野先輩にこの格好、見られるかもしれない……。見られた瞬間、いつもみたく「ユキちゃーん」って言ってきて、ほかの先輩たちからもじろじろ見られたりして……。
でも、三年生は受験を控えていて皆、勉強に集中しているはずだ。校舎に行ったからって、簡単に会うはずがない。
そう思い直して、俺は三年の校舎の方へと向かった。
渡り廊下から三年の校舎に入ると、「今日、誕生日だよね」という女子の声がした。
ふと階段のある方に視線を送れば、そこにはまさかの西野先輩が立っている。その向かいには、三年の深緑のリボンをした女子の先輩が立っていて、何かを差し出そうとしていた。
見てはいけないものを見たような気がして、俺はすぐに壁に背を向けてるようにして、隠れた。
でも、何より引っかかったのは「今日、誕生日だよね」という言葉。
「あー……うん。誕生日だけど、それは受け取れない」
しばし固まっていると、西野先輩はそう言った。瞬時に聞いてはいけない話だと思って、その場を離れようとした。でも、なぜか足が動かない。
「え? なんで? 別に付き合ってって言ってるわけじゃないよ? そりゃ、颯のことは好きだし、恋人になりたいけど……でも」
「うん。浅川の気持ち分かってるからこそ、受け取れない。俺……好きな子いるから。その子以外に、期待させたくない。ごめん」
そう言った先輩の言葉は、まっすぐ相手のことを思った誠実さがあった。
でも、相手の浅川先輩という人からすれば、納得いかないことだったのかもしれない。
「好きな人って誰? もしかして、雪音先輩?」
「は?」
「だって、最近、雪音先輩の弟と仲良くしてるでしょ? 颯……まだ、好きなの? 弟に気に入られたら、雪音先輩が自分のもとに戻ってくるって思ってる?」
浅川先輩が西野先輩に詰め寄るように問いかけた。
その言葉が、俺の中でも結構、ショックだったみたいだ。物理的に殴られたわけでもなければ、俺に向かって言われたわけでもない。なのに突然、俺の目の前の景色がゆらいで見えた。
先輩が俺に優しくしてくれていたのは、姉さんの弟だから……? そう思ったら、急に力が抜けた。よろめいて、後ろにある壁に背をつける。
「……違うよ」
先輩は静かな声で否定をした。でも、その否定には間があって、肯定のようにも聞こえる。
「その感じ……絶対そうじゃん。……私、知ってるんだからね? 颯が雪音先輩と同じ大学、行くって……。それって、雪音先輩を追いかけるってことでしょ? じゃないと普通、元カノと同じ大学選ばないじゃんか」
「ちが……いや、結果的にそうなるけど、それは……」
言い淀んだ西野先輩の反応で、俺は夏休みに会った、姉さんのことが頭に浮かんだ。
姉さんは夏休みの間、ずっと地元にいた。性格もよくて美人な姉さんのことなら、彼氏だってすぐにできるはず。それなのに、母さんが「雪音は彼氏と遊びに行かないの?」と聞いたら、姉さんは「今年は作る予定はないよ。まぁ、来年は分からないけどね~」なんて笑っていた。
もしかして、浅川先輩の言う通りなのだろうか。
俺と仲良くしてくれるのも、ぬいぐるみ好きでシラユキさんたちと話すことを受け入れてくれるのも、俺が姉さんの弟だから。
これまで俺のことを否定することなく、見守ってくれていたのは、姉さんと復縁したいから。
もしかして、姉さんは俺のことばかり心配していたから、別れてしまったけど、西野先輩に頼んでいたのかも。だから、期待に応えたかったのかな。
そもそも“結果的にそうなる”って、何なんだろう。どうして、姉さんと同じ大学に行くことを、俺に教えてくれなかったんだろう。姉さんと復縁したいなら、言ってくれていたら……俺だって、こんな気持ちにならなくて済んだのに。
西野先輩を、好きにならなかったのに。
今までの先輩との楽しかった出来事が全部、砂の城が崩れてしまうように、俺の中からなくなっていく気がした。
信じていたものが、足元から崩壊していく。
泣きたくない。泣きたくないのに。じわじわと涙が込み上げてくる。
でも、俺はすぐに、先輩から『今日が誕生日』ということすら、教えてもらっていない存在だということに気づいた。
つまり、俺は先輩にとって、そこまで大事な存在ではないんだ。
姉さんの元彼に、気持ちが傾く俺がおかしかったことを、ようやく認識した。
何を、被害者ぶってるんだろう。
「……俺、たぶん、勘違いしてたんだ。優しくしてもらえて……期待しちゃってた。もしかしたら、俺……先輩の特別なのかもって。俺なんか……好きになるわけないのに。俺……先輩と同じ男なのに……馬鹿だ。俺」
今すぐ、シラユキさんとハヤカゼさんに会いたくて。俺は、柳川を探しに来たことも忘れて、その場を後にした。
早く、ふたりのもとに行って、呼吸をしたかった。
***
結局、写真撮影は、俺一人で行われることになった。柳川を巻き込もうとしたのに、俺が教室に帰るまで抜け殻みたいに歩いていたせいで、撮影時間が押してしまったからだ。
教室に帰ってからの女子たちの「篠宮くん、それじゃあ行こうか」という呼びかけすら妙に遠くて、撮影には全く身が入らない。シラユキさんとハヤカゼさんを誰にも見られないように、そっと懐に忍ばせても、効果はなかった。
でも、そんな魂が抜けたみたいな状態だったから、俺は袴のまま街中を自転車で走るのも、平気だった。周りの目なんて気にならないくらい、頭の中を占めていたのは、先輩と姉さんのことだったから。
おかげで、撮影中の俺の顔は、愁いを帯びていたらしい。写真を撮った三輪さんのカメラを囲みながら、皆は「これこれ!」「めちゃくちゃいい!」と、俺の写真を絶賛していたので、これで良かったんだと思う。
ただ、撮影が終わって、教室で袴を脱いでも、俺の気持ちはどこか戻らなかった。
沈んだ顔があまりに長く続くものだから、柳川から「今日はもう先に帰れよ」と促されて、俺は一人、ブレザーを着直して靴箱へと向かう。
俺の学年は各々クラスで文化祭の準備に励んでいるから、靴箱に向かうまで、俺のように荷物をまとめて帰ろうとする人は見当たらない。誰もいない放課後の昇降口は、外からうっすらと夕暮れの陽が差し込んでいた。
いつもの靴箱から、自分のスニーカーを取り出す。ぼんやりとしながら、靴を地面に置く。座ってそれをはこうとした、そのとき、俺の前に人影ができた。
見上げると、西野先輩の姿があった。
「……なんで」
「ユキちゃん、ごめん。しばらく一緒に帰れないって、言われてたけど……今日だけは、一緒に帰りたくて」
先輩はいつもと変わらない柔らかな笑顔を、俺に向けてくる。
「俺なんかと?」
「え……? あ、怒ってる? ごめん。急に待ってて、ほんとごめん。でも、俺……今日、誕生日でさ」
「怒ってないですけど……先輩って、そういう大事なこと、全然言ってくれないですよね」
本当に、怒っているわけじゃない。それなのに、そう口にする自分の声が、少しだけ震えているのが分かった。
俺に、大事なことは教えてくれない、秘密ばかりの先輩。
そんな西野先輩のことを、ひとつ知って、ふたつ知って……ようやく色んな姿を知れたって喜ぶ俺を見て、どんな気持ちなんだろう。
もしかして、弟に気に入られてきたし、姉さんと復縁できるってスキップでもしたくなったかな。
初恋なんだ、俺にとっては。宝物なんだ。あなたの些細な言動で空を飛びたくなるくらい。
なのに、俺だけなんだって、考えただけで虚しくて、馬鹿みたいで。胸の奥の奥がきゅっと苦しくなってきた。先輩から、顔を背けたくなった。
でも、俺が見上げる先輩は、目を丸くしている。俺の反応に驚いたように、固まっていた。
「……ユキちゃん。俺の誕生日……知っておきたかったの?」
先輩は、俺が仲の良い先輩の誕生日も祝わない、冷血漢とでも言いたいのだろうか。
先輩からすれば、俺はただの後輩だったり、元カノの弟だったり、するのかもしれない。けど、俺にとってこの人はもう好きな人だ。仲の良い先輩だとも思っている。
知っておきたかった? って……当たり前だ。
「……誕生日って知ってたら、先輩のために何か用意してましたよ」
俺は独り言のように、小さな声で呟いていた。でも、昇降口は誰もおらず、静かだ。その声はしっかり、西野先輩の耳に届いていたらしい。
先輩は、俺の前にしゃがんで、目線を合わせてくる。大きな身体が、少しだけ小さくなる。
「だからだよ。誕生日だって言ったらさ……ユキちゃんが何かくれようとすると思って……。俺……そういうの、ユキちゃんからもらったら……どうしたらいいかわかんなくなる」
西野先輩は唇をかみしめて、泣きそうな顔をする。泣きたいのはこっちなのに、なんでそんな顔をするのかわからなくて、俺は先輩の頬に自然と手を伸ばしていた。
頬に触れた指先の下で、先輩の肌がほんのり、熱を持っている。
でも、目の前の先輩も、俺も、何かを話そうと口を開きかけては、お互い何も言えない。何度も、言葉を飲み込む。その繰り返し。
しばらくの間、昇降口に差し込む夕陽に互いの影を落としたまま、俺たちの時間は止まっていた。
ようやく沈黙を破ったのは、先輩だった。
「……ユキちゃん。じゃあ、来年の誕生日は……ユキちゃんが俺の誕生日……絶対、祝って。今日が誕生日って…………覚えてて。お願い」
西野先輩の絞り出すようなその声が、静かに耳に届く。
来年はもう先輩はこの学校にはいない。でも、そう言ってくれるということは、これからも俺と関わってくれるってことだ。
俺は「はい」とだけ、頷いた。
でも、俺からもひとつ、言っておかなければいけないことがある。再び「えっと……」と、口を開いた。
「先輩……あの……誕生日、おめでとうございます。今すぐプレゼントは渡せないんで……その、ひとつだけなら、言うこと……なんでも聞きます」
まっすぐ先輩の顔を見て言ったら、先輩は一瞬、目を大きく見開いた。でも、そのあと、少しだけ息を整えるみたいに、微笑む。
「……じゃあ、ひとつだけ。……キツネの名前、教えて。俺が夏に……あげたやつ」
西野先輩に前から「あの子には何て名前つけたの?」と聞かれていたけれど、ずっとはぐらかしてきた。
ハヤカゼさんの名前は、先輩からちょっと拝借したから。
でも、先輩の誕生日だ。今、何も渡せるものはないけど、それが願いならと、俺は言葉にした。
「……ハヤカゼ、です」
その瞬間、先輩がはっとした顔になる。
「……え、待って。ユキちゃん……それって……俺の名前に似てない?」
「ち、ちがいます」
やっぱり気づかれたので、俺は慌てて嘘をつく。
「いやいやいや、ハヤカゼの“ハヤ”って、俺の颯から……」
「違いますってば!」
俺はそう強く言った後、熱くなった頬を両手で仰ぐ。
先輩は小さく笑って、さっきより少しやわらかい目をして「ユキちゃん、ありがとう」と言った。
でも、すぐに先輩は何かに気づいたように「あのさ……」と、もごもごと口ごもる。
「なんですか?」
「俺……ユキちゃんに名前呼ばれたことない」
先輩はちょっと一瞬、拗ねたような顔をする。
「え……?」
「俺も……“颯先輩”って……ユキちゃんに呼ばれたい。ハヤカゼさんずるくない?」
その言葉に、俺は思わず噴き出した。なんでぬいぐるみと張り合おうとしているのか。
さっきまでの緊張が一気にほどけて、俺は「はいはい、颯先輩」と笑った。
颯先輩が姉さんと今、どんな関係なのか、気にならないわけがない。
けれど、それでも、この時間だけは俺だけのものだ。今だけは、俺が先輩を独り占めできているんだって、嬉しくて。
俺の心は静かに震えていた。