5.本当は、もっと話したかった
始業式の日に西野先輩と俺との間に何かしらの関わりがあると、クラスで知られて以来、瞬く間に学校中に二人の仲が良いと、噂が広まった。先輩はもちろん、俺も目立つ方らしく、柳川から「大変だな」と肩を叩かれた。
一方、西野先輩は、この状況を楽しんでいるように見える。
「ユキちゃん、俺と仲良しだってバレてるんだし、一緒に帰っても問題ないよねー?」
なんてけらけら笑いながら、俺の教室に現れるようになった。
それから、一ヶ月。俺はたぶん、これまで知らなかった先輩のことをたくさん知ることができたと思う。
たとえば、先輩の好きな食べ物は、からあげと甘い物だとか。高校は部活に入ってないけど、中学時代はバスケ部でセンターをしていたとか。年の離れた小学生の妹がいるとか。
他にも、帰り道の信号待ちでも色んな話をした。
「皆、俺のこと髪染めてるって思ってるけど、これ地毛なんだよ。俺ねー、ばあちゃんがフランス人でさー」
なんて冗談まじりに話してくれたし、絵が下手過ぎて妹に泣かれたオムライス事件も、苦笑いしながら聞かせてくれた。
自分の気持ちをはっきりと認めてからというものの、こうして先輩と距離が近くなればなるほど嬉しい。けど、その分だけ、いつ気持ちがばれてしまわないか不安にもなった。
だから、他の人が知らない一面をひとつずつ、先輩が教えてくれるたびに、どうしても俺の顔が緩んでしまいそうで、ついツンツンしてしまう。
十月上旬──文化祭の準備が始まるこの日も、そうだ。
「ユキちゃーん、迎えに来たよ~」
七限目の授業が終わり、教科書をリュックにしまっていると、西野先輩は教室のドアから顔を出して、いつもの軽い口調で俺のことを呼んだ。
どうやら、今日から先輩は、冬服に着替えていたらしい。
いつの間にか冬服になっていた颯先輩を見たとき、俺は息が止まりそうになった。身長の高い颯先輩は、ダークグレーのブレザーがよく似合う。三年の深緑のネクタイはダサいと思ってたけど、颯先輩がしたらそれすらもよく見える。春には何も思わなかったのに、今はまるで、雑誌から抜け出してきたモデルみたいで、視線が吸い寄せられてしまった。
クラスの女子たちも、先輩が教室に来ることに慣れたようだったのに、すっかり虜だ。うっとりした顔をして見つめていた。
そんな先輩の冬服姿を独り占めすることなんて、できない。けど、せめて少しだけ、他の人から見られる時間を少なくしたかった。我ながら性格が悪いなって思いながらも、俺は机の上に置くリュックのチャックを締めて、先輩の元へと向かう。
ドアの向こうにいる先輩の腕を掴んで、皆の視線が届かない廊下の端へ引っぱった。少し歩いてから振り向くと、先輩と目が合う。
「……先輩、今日はLHRがあるんで無理です」
「そうなの? 全然、ユキちゃんのこと待ってるよ?」
「文化祭の準備が始まるんです。帰りが何時になるか分からないし、たぶん、これからも難しそうです。……だから、先に帰ってください」
そう伝えた声は、俺が思っているよりも単調になった。
好きだって思ったら、先輩と会える放課後が何よりも特別になった。だから、本当は俺自身、先輩と帰りたいのもあって、残念という気持ちが声に滲みだしてしまったのかもしれない。
でも、仕方がないのだ。学生生活も大事にしないといけないし、何より、先輩は受験生だ。……俺に、合せてもらうわけにはいかない。
「へぇ~、そっか。じゃあ、俺、廊下から見学しておこうかな~。ユキちゃんのクラスが何の模擬店やるのかも気になるし」
「いや、見学されても困りますよ……。先輩がいたら、たぶん、みんな気が気じゃないです」
「えー、だめ?」
「だめです。……だめですよ?」
俺が念を押すと、ようやく先輩は「そっか」と納得してくれたみたいだ。
ただ、「あーあ、残念」と、苦笑する先輩を見たら、なんだか悪いことをしたな……と罪悪感が湧く。
「あの」と、言いかけたとき、先輩が突然「あっ! そうだった!」と制服のポケットに手を入れた。何かを俺の前へ差し出してくる。
先輩の手のひらには、いちごミルクの飴。
「今、糖分になりそうなの、これしかないんだけどさ。よかったら食べて。案を出し合うとき、頭、使うだろうし」
「……あ、ありがとうございます」
お礼を言いながら飴をとろうとしたとき、指先がふと、先輩の手のひらに触れた。ほんの一瞬。ただ、ほんの少しの接触。
それなのに、先端からじわじわと熱が広がっていく。この熱の理由を、先輩に気づかれたらどうしよう。そう思ったら、顔を上げられなくなった。
意識したら、俺はすぐこんな風に固まってしまう。
「篠宮ー、LHR始まるぞー」
遠くから唐突に、柳川の声がして、俺はびくりと身体が跳ねた。
柳川の声で、ふっと現実に引き戻される。さっきまであった指先の熱も、すっと冷めていった。
「呼ばれてるね。ユキちゃん、行っておいで。頑張ってね」
先輩のやわらかな声が降ってきて、俺は「そうですね、行ってきます」と、顔も見ずに言葉を発した。
先輩の前だと、自分が自分じゃなくなるような気がしてくる。貰った飴をきゅっと握りしめて、俺は背を向けて、教室に戻った。
***
文化祭準備の初日は、誰が何を担当するかの話し合いが長引いて、一般生徒の最終下校時刻ギリギリまでかかった。準備期間中は、延長申請をすることで最大で午後八時まで残れるらしい。今日は午後六時半までだったけれど、きっとこれからもっと長引くんだろう。
「颯先輩には一緒に帰れないと言っておいてよかった……」
帰る前にトイレに寄っていた俺は、ハンカチで手を拭きながら、ため息混じりの声を上げる。だけど、とぼとぼと靴箱に向かって廊下を歩いていると、一年の昇降口のガラス扉に人影が見えた。
「誰だろ」
自分の靴箱から靴を取り出し、目を凝らしながら近づく。背を向けているから確証はないけれど、その人の身長は高くて、俺は少しだけ、期待してしまった。
「……西野先輩?」
恐る恐る、声をかける。すると、その人は「あっ」と言いながら、ガラス戸から背を離して、こちらを見た。
やっぱり、西野先輩だった。だいぶ暗くなっていたというのに、ここで勉強していたのか。颯先輩の手元にあるスマホには、英単語アプリが映っているのが見えた。
「先輩……俺を待ってくれていたんですか?」
「ほら、なんかあんな顔してるユキちゃん見たら、気になるじゃん。……って、でも、別にユキちゃんは俺のこと、気にしなくていいからね? さっきまで図書館に居たし。先生から『早く帰れ』って追い出されたけど」
先輩はそう言いながら、スマホをブレザーのポケットにしまった。
「先輩……」
「あー、もう。そんな顔しないのー。泣かせたくて待ってたわけじゃないよ?」
ちょっと鼻がツンとしただけで、泣いていたわけではない。けれど、西野先輩から見た俺はもう涙を流していたように見えたのだろうか。先輩は俺の目尻に人差し指を伸ばしてきた。
先輩の指が俺に触れた瞬間、息が出来なくなる。緊張のあまり、心臓が今にも口から出てきそうだ。
何も言えなくて、俺は目を逸らしてしまった。
「……ほら。やっぱ泣いてた」
先輩は冗談っぽく、口にした。
だけど、すぐにこのしんみりとした雰囲気を変えようとしてくれたらしい。
「ユキちゃん。そういえば、ユキちゃんのクラスは何すんの? 文化祭」
「…………言わなきゃ、だめですか?」
「えっ、何。言えないようなものするの? メイド服着るとか? えー、どうしよ!」
颯先輩のほんの少し期待するような反応に少しだけ、俺は何むっとしてしまう。
「絶対、言わない」
「え?」
「言わないです!」
「まじか。ユキちゃんがそこまで秘密にしたいなんて……じゃあ、当日は全力で探すしかないな~」
なんか期待をさせてしまったかもしれない。先輩はにやりと笑っている。
本当は言ってもよかった。でも、コスプレ写真館なんて……絶対、からかわれる。クラスの写真部の子が「篠宮くんと一緒に写真撮るブースを作ったら、うちのクラスは売上かなり良いと思います」なんて言い出すから。
なんか、俺だけコスプレさせられてしまうらしい。
俺が押し黙っていると、先輩は「楽しみにしてるね」とさらっと言った。
でも、そういえば、うちの学校は文化祭当日、毎年三年生は全国模試を受けるって、姉さんが言っていた気がする。だから、三年生は文化祭の準備がないって。
「三年生は模試ですよね」
「ん? あぁ、うん。模試が二日間に分けてあるよ」
じゃあ、見られなくても済む。そう安堵したのに、颯先輩は「あははっ!」と笑い出す。
「な、なんですか」
「ユキちゃんってば、そーんなに俺にきてほしくないんだ? あからさまにホッとされちゃったから」
「うっ」
「残念でしたー。実はねー……二日目は午前中だけ受けて、午後に自己採点終わった人から、文化祭に参加していいんだよねぇ」
颯先輩はにやつきながら、そう言った。
「……こ、来ないでください」
思わず、焦ったような声が出てしまう。
先輩に午後、時間が空いたとしたら。もし、俺のクラスに来たら。絶対、俺よりも先輩が人気になってしまう。
クラスの女子は接客よりも先輩ばっかり気になるだろうし、お店に来たお客さんだって……。咄嗟にそんなことを考えてしまう自分に、なおさら恥ずかしさを覚えた。
「来ないでってことは……やっぱりメイド服だ?」
「ち、違います! ……でも、もっと恥ずかしいので、来ないでくれると助かります」
「何その反応。……ユキちゃん、俺にだけは見られたくないってこと? 他の子は見るのに?」
「だって……先輩」
ついその先の言葉を言ってしまいそうになって、俺は口を閉じた。きゅっと唇を噛んで、顔を俯ける。
「あー、ごめんごめん。ほんと俺はユキちゃんに意地悪ばっかしちゃうなぁ。……ユキちゃんが嫌がることしたくないのに」
「……ふん」
どういう反応したらいいか分かんないから、とりあえず俺は、拗ねたふりをした。
「よしよし、もう帰ろっか。遅くなったし、近道通ろっかな〜」
颯先輩はそう言いながら、俺の頭を撫でてくる。
きっと、俺が拗ねたふりをしていることもわかっているだろうに、颯先輩合わせてくれる。
相変わらず、やさしい、手つきだった。