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3.好きって知られてた

 あっという間に、夏休みに入った。ただ、一緒に夕飯を食べた日以来、西野(にしの)先輩は何かと家に遊びに来ていて、長期休みになったというのに、俺は先輩とよく顔を合わせている。おばあちゃんなんて、先輩がお気に入りらしい。すっかり推理ドラマ談義に花を咲かせているくらいだ。

 ただ、西野先輩は受験生だ。


「ほぼ毎日、俺の家にごはん食べに来てますけど、大丈夫なんですか?」

 

 ある日の夜、いつものように二人で皿を洗いながら隣に立つ先輩に聞いてみた。


「ちゃーんと勉強もしてるからだいじょーぶ。息抜き息抜き」

「そうなんですか?」

「うん。そう。それにユキちゃんは知らないだろうけど、俺、こんな見た目だけど意外と出来る子だからねー?」


 なんて先輩は言って、けらけらと笑い飛ばしていた。

 律儀に夕飯代も渡してくれるし、手土産を持ってきてくれることもあるし、別に先輩が家に来ることには全く困ってはいない。

 だけど……先輩のことが、ちょっと心配になる。


 ただ、七月末のこの日。朝起きたら、西野先輩から連絡が来ていた。


《今日はユキちゃんのとこ、行けないかも。土日じゃないけど、バイト入ることになって》


 スマホに表示された文面をベッドの上で眺めながら、俺は少しだけ固まった。

 ここ毎日、ほんの1~2時間くらいだけだけど、一緒にいた。だから、いざ全く顔を見ない日があるというのは、ちょっとだけ変な気分だ。なんか少し、もやっとする。


「ぬいカフェ行こうかな……。あそこに行ったら少し気持ち、落ち着くかも」


 今日はちょうど、おばあちゃんの店も定休日。俺はおばあちゃんには夕方までには帰ると伝えて、急遽、行きつけのぬいぐるみカフェに癒されに行くことにした。




「うー、あっつい……」


 まだ午前中だというのに、クーラーで冷えていた俺の身体は、商店街のアスファルトが弾いた日差しによって、じんわりと熱をため込んでいく。照りつける日差しに目を細めながら、俺は街中を自転車で駆けて、田畑の広がる郊外へと向かった。

 おばあちゃんの家からは、自転車で約20分。周りはほとんど田んぼというエリアに、ポツンと佇む小さなレンガ造り一軒家のような可愛い建物。それが、お目当てのぬいぐるみカフェだ。


 カフェの外壁には植物の蔦がゆるやかに這っていて、庭には色とりどりの季節の花が風に揺られながら咲いている。玄関前のベンチには、大きなクマと小さなフクロウのぬいぐるみが並び、まるでふたりは俺に『いらっしゃい』と、言ってくれているように見える。

 いつもここは素敵な場所だなって、俺は来るたびに思う。


 自転車を店の前に停めた俺は、タオル生地のハンカチで滝のような汗を拭った。くんくんと身体をちょっとかいで、臭くないかな? と確認する。よし、大丈夫そう。


「こんにちは」


 入り口のふたりにそっと挨拶して、夢の国のようなカフェのドアを開ける。

 店内に入ると、ひんやりとした涼しさに乗っかるように、コーヒーのビターな香りが俺の鼻をくすぐった。この瞬間だけは、行きつけの店なのに、ちょっと苦手だ。大人の世界に迷い込んだような気がして、ちょっと、背筋が伸びる。

 でも、入ってすぐの棚にいるな浴衣姿のぬいぐるみたちを目にしたら、落ち着かない気持ちなんて、すぐに消えた。


「ぬいぐるみパワー、恐るべし」

 

 俺はボソッと誰にも聞こえない声で呟く。


 そんなぬいぐるみカフェは、カウンターが六席、四人掛けと二人掛けテーブル席がそれぞれ三つ、ソファ席が二つある。テーブルごとに担当の動物がいて、ちょこんと椅子に座っていたり、テーブルの上でお出迎えしてくれたりする。


 俺のお気に入りは、壁に沿うように作られたカウンターの右端の席。そこには、オレンジ色のキツネのぬいぐるみがいる。

 なかなかキツネのぬいぐるみはお目にかかれないから、俺はこの店に来るたび、シラユキさんと彼のツーショットを撮るのが好きだ。期間限定メニューと一緒に、毎月必ず写真に残している。

 だけど、店内を見回すと、いつも座る席には先客がいた。

 今日はあの子に会えないんだな。そう、ほんの少しだけ落胆しかけた、その時だった。


「いらっしゃいませ。今、席にご案内します──……って、ユキちゃんだ!」


 突然、西野先輩の声がして、俺は「えっ」と戸惑った。

 段差のあるキッチンの入り口から、白シャツに茶色のエプロンをかけた、先輩が現れる。

 先輩は喜びを隠しきれないような笑顔で、俺のもとに向かってきた。でも、耳元には、学校では見ないピアスがいくつも光っていて、なぜか知らない人のようにも見えてしまう。


 先輩がこんなところにいるなんて。しかも、アルバイト先がこのカフェだなんて。

 ここは俺の行きつけの店なのに、全く知らなかった。

 俺の知っていたはずの世界も、先輩との距離も、少しだけ遠くなってしまったような気がして、何とも言えない感情が胸に広がっていく。

 あれ? なんでこんな気持ちになるんだろう。自分の変化に戸惑った俺は、いつの間にかTシャツの胸元をきゅっと掴んでいた。


「……ユキちゃん?」


 先輩に呼びかけられて、俺は「あっ……えっと」と言葉を詰まらせた。


「ごめんね。いつもユキちゃんが座ってる席、今日は埋まってるんだ。よかったら、ユキちゃんっぽいなーって思う、俺のおすすめの席があるんだけど、そっちでもいい?」


 西野先輩は俺がここに来ていたことを前から知っているように、いつものカウンター席とは違う、窓際のソファ席の方に視線を送る。

 その視線を辿った先には、数体のぬいぐるみたちがまるで仲良くお昼寝しているようにゆったりと腰をかけていた。


「あ、はい。えっと……お願いします」

「はい。かしこまりました。こちらへどうぞ」


 西野先輩はちょっと余所行きのような、いつもとは違う口調で、俺をその場所へと誘なう。いつもとは異なる背中に戸惑いを覚えながら、俺はソファに向かった。

 そこには、ウサギとリス、モモンガとインコのぬいぐるみがいた。まさに、小動物のオンパレード。先輩は俺っぽいと言うけど、俺がどんな風に見えているのか分からない。

 俺はそこそこの身長があるし、姉さんみたいな守りたくなるような女の子でもない。

 もしかして、先輩はそれだけではない何かを、俺の中に見つけてる?

 なんて、ふと考えてしまって、急に胸がざわざわした。


 ソファに腰を下ろすと、先輩は「すぐにお冷をお持ちしますね」と言って、ほほ笑んだ。

 なんでか、その笑顔を見るだけでドキドキしてしまって、落ち着くカフェのはずなのに、居心地が悪くなる。

 そんな西野先輩の背中が遠ざかったとき、後ろの席から、先輩に関する女性客の声が耳に届いた。


「やっぱりあの店員さん、めっちゃかっこいいよね。笑顔が素敵~」

「あとで連絡先聞く?」

「でも年下だったらどうしよ〜、結構若そうじゃない?」

「年下よくない? ミチが聞かないなら、私が声かけちゃお」


 聞き耳を立ててはいけないのに、意識が後ろに行ってしまう。

 なんでこんなことしているのか分からない。けど、俺は顔も知らない女性に西野先輩を奪われてしまいそうな気がして、怖かった。

 俺は次第に、不安と焦りを覚えていく。

 無意識のうちに、俺はポケットに手を伸ばしていた。そこには、相変わらず小さな身体で寄り添ってくれるシラユキさんの感触がある。


「シラユキさん……どうしよう。俺、変だ……」


 俺はシラユキさんを取り出して、小声で話しかける。愛らしいシロクマを前にすると、胸の内で暴れていたざわめきが、少しずつ静まっていくような気がした。

 だけど、もしかしたら、シラユキさんの効力は俺の中で弱まってきているのかもしれない。

 先輩が、トレイにお冷とホットタオルを載せて現れた途端、抑えられていた焦燥感が一気にぶり返した。


「お水とおしぼり、お持ちしました。メニューが決まったら、いつでも声を掛けてくださいね」

「あ……あの」


 すぐに西野先輩が席を離れようとするから、まだメニューは決まっていないのに、俺は呼び止めていた。でも、口は俺の意思に反して「コーヒーを」と、言ってしまっていた。

 ただ、この店はコーヒーの匂いで溢れているのに、俺は一度も頼んだことがない。これまで言ったことないフレーズに、自分でも戸惑って目をぱちくりさせる。なんで、コーヒーを頼んでいるのか、不思議で仕方がなかった。


 俺は、期間限定メニューが好き。

 それを先輩も知っているのだろうか。はたまた、シラユキさんを持つ手に力が入っているのが見えたのか。俺の様子を見て、いつもと違うと思ったらしい。


「ユキちゃん。どうした? コーヒー飲めないよね? 何かあった?」


 西野先輩が少し身をかがめるようにして、俺の元に戻ってくる。

 距離が近づいたそのとき、ふいに先輩からシトラスの匂いがした。

 香水じゃない。たぶん、シャンプーの匂い。これまでもずっとしていたはずなのに、今さら先輩のこの香りに気づく。店を包むコーヒーの香りとはまるで違う匂いに、俺の心臓は一段と強く脈を打った。


「……な、なんでもないです」

 

 慌てて、俺は西野先輩から距離をとった。だめだ、心臓が痛い。近くにいたら、だめだ。


「ほんとに? じゃあ、ホットとアイスどっちがいい?」

「どっち……」

 

 コーヒーって、ホットとアイスどっちの方が苦くないんだろう? なんて、つい考えてシラユキさんを見る。でも、分からないから、心臓の音がうるさいけど、助けを求めるように西野先輩を見上げた。


「ユキちゃん。飲めないなら、無理しないで。どっちを選んだところで、苦いのは変わんないよ。メニューは、いくらでも変えていいから。ゆっくり選んで。期間限定のメニュー、好きだよね?」


 そう言われると、なんだか俺は子ども扱いされているような気がした。

 この人に、年下扱いされるのは……なんか嫌だった。年下だから、されて当たり前なんだけど。たぶん、後ろのお客さんにちょっとだけ、張り合ってしまったんだと思う。

 その人たちに目が行かないでほしいって。

 ちょっとだけ、背伸びしたくなった。先輩に子どもに見られたくなかった。


「…………じゃあ、アイスにします」


 ただ、俺の声は自分で思っていたよりも、随分と小さかった。

 だけど、先輩は「了解」と言って、少しだけ笑う。温かな眼差しを向けてくれながら、大きな手を伸ばしてきて「無理だけはしないでね」と、俺の頭を軽く撫でてくる。

 その優しい手つきに、胸がいっぱいになった。


「うわっ、いいな」

「シーッ、聞こえちゃうよ」

「でもー! めっちゃ甘い顔してた。うらやましい……私もされたい」


 そんな声がまた背後から聞こえてきた。でも、なんでかな。もう先ほどまでのような不安はなかった。


「シラユキさん……気づいたんだけどさ、西野先輩って、もしかして第二のシラユキさんなのかもよ?」


 手元の友達に話しかけても、返答はない。けれど、西野先輩が触れたあの瞬間に、俺の中にあったちょっと苦い気持ちは溶けていったような気がした。


 しばらくして、先輩が運んできてくれたアイスコーヒーは、シロップとミルク、お砂糖まで加えても、全然甘くはならなかった。うげっと顔をしかめてしまうくらい、苦い。美味しくなかった。

 しかも、その顔を運悪く、先輩に見られてしまった。

 そのせいで、接客中の先輩が時々、俺の方に向ける目がどこか不安げだ。ストローに口をつけるたび、今すぐにでも助けに来そうな変な動きをする。

 でも、俺は必死に「来ないでください!」と目で訴えて、飲み続けた。


 このアイスコーヒーは、先輩の前でちゃんと選んだ味だし、大人になったら美味しく思えるって聞く。いつかはこのコーヒーの苦さも誰かと「美味しいね」って、笑い合える味になるかもしれない。

 そんな風に思ったら、苦すぎるけど、全部飲み干せそうな気がした。

 ただ、一緒に笑いながら飲む相手を想像したとき、俺の頭の中にふっと浮かんだのは、紛れもなく先輩の姿で。俺は苦いコーヒーを噴き出しそうになるのを、必死に堪えた。



***



 ぬいぐるみカフェに行ったその夜、午後八時を過ぎた頃。おばあちゃんと居間でテレビを見ていると、テーブルの上にある俺のスマホが震えた。画面を見ると、西野先輩からの着信が入っている。

 俺はすぐに応答ボタンを押して、スマホを耳にあてた。


「もしもし」

『もしもし、ユキちゃん? 今、電話してもだいじょーぶ?』


 西野先輩は外にでもいるのだろうか。先輩の声と共に、電話の向こうから車が通る音が聞こえてくる。


「はい。大丈夫です。……先輩は今、外ですか?」

『よかった。……うん、外だよ。今、ぬいカフェのバイト終わって帰ってるところ。それで……さ。ユキちゃん、今から会える?』

「え……?」

『いや、昼に会っといて、あれなんだけどさ……ユキちゃんに渡したい物あって』


 先輩は少し照れくさそうな声をあげた。


「でも……ぬいカフェから俺の家まで、結構距離ありますよね?」

『平気。てか、もう結構近くに来てる』

「どこらへんですか……? 俺、今からそっち行きます」

 

 西野先輩の家がどの辺りかは分からないけど、先輩は受験生だ。俺なんかのために、大事な時間は使わせられない。時間が惜しくて、すぐに立ち上がる。


『でも、暗いから。ユキちゃんは家に──』

「俺は男ですよ。身長だって、西野先輩からしたら小さいけど、平均身長よりも高いんです。だから、心配する必要なんかありません」


 先輩の答えを聞く前に、俺は語気を強めて言っていた。


『……じゃあ、来てもらおうかな。えっと……俺は今、商店街の近くにある橋を渡り終えたところ』

「わかりました。すぐ行きます」


 俺はそう言うと、座椅子に座るおばあちゃんの方を向いた。


「おばあちゃん、ちょっと出かけてくる」

「あらあら。こんな時間に出かけるなんて、ユキちゃんったら青春ね」

「青春って……ちがうよ、別に」

「ふふっ。そうね。ユキちゃんが違うっていうなら、違うのかもしれないわね。……ユキちゃん、気を付けていってらっしゃい」


 おばあちゃんからのOKをもらった俺は「うん、行ってきます!」と言って、すぐに玄関へと向かった。

 

 夜の商店街は昼間や夕方と違って、全く違う顔を見せる。昼は子どもからお年寄りまで幅広い年齢層が歩いているけれど、今はどこもシャッターが下りていて、しんと静まり返っていた。

 でも俺は、じっとりと汗が滲む夏の空気を切るように、先輩のもとに向けて駆けていく。はっはっと、吐き出す息は辛い。

 でも、なぜか今、俺は心地良かった。


 商店街の入り口にあるアーチ看板を通ったとき、自転車を押しながら歩いてくる人影を見つけた。

 俺は呼吸を整えようと、深呼吸を少しする。


「先輩っ! 西野先輩っ!」


 俺の声に気づいた西野先輩は、ゆっくりと顔を上げた。街灯の明かりに照らされて、先輩は少しだけ眩しそうに目を細める。

 でも、俺のことを視界にとらえてくれたのだろう。先輩も俺に気づいて「ユキちゃん!」と、いつものように呼んでくれた。


「先輩、大丈夫ですか? 疲れてますよね?」


 自転車を押している姿を見たら、俺は西野先輩に駆け寄っていた。

 すると、なぜか先輩から「あははっ」と笑われてしまった。そして先輩は、手を俺の方に伸ばしてくる。

 すっかり汗をかいて、俺の髪は額に張り付いたらしい。普通なら、汗で濡れた人の髪なんて触りたくないだろうに、髪の毛をもとの位置に戻してくれる。


「俺が来たくてきたの。疲れなんか、ユキちゃん見ただけで吹き飛ぶよ。俺こそ、ユキちゃんを走らせてごめんね。こんなに汗もかいてる」

「俺は別に、近いし。それに……そんな走ってないです」

 

 そう言ったら、先輩はくくっと肩を震わせた。


「俺のために一生懸命、走ってきてくれたの知ってるよ。電話、つながったままだから。ユキちゃん、息切らしながら来てくれたの聞いてた」


 西野先輩はなぜか嬉しそうに、どこか噛みしめるように言葉を紡ぐ。

 俺はすぐに自分の右手のスマホ画面を見て、未だ通話中になっていることに気がついた。

 必死に走ってきたことがバレたのと、先輩の声音があまりに優しいものだから、全身がカッと熱くなった。先輩の顔が急に見られなくなって、俺は明後日の方を向く。


「ユキちゃん。……こっち見てよ」

「嫌です」


 恥ずかしすぎて、俺は即答した。


「なんで?」

「恥ずかしいから……」

「恥ずかしがる必要なくない? 俺、すごーく嬉しかったのに」

「先輩はそうかもしれないけど。……俺は恥ずかしいんです!」

「そっか。じゃあ……これ、あげられないな。ユキちゃんが喜びそうなもの、持って来たのに」


 先輩は、拗ねるような声をあげる。

 そうだった。俺は、先輩が「渡したいものがある」って言ったからここに来たんだった。

 ちら、と先輩を見る。すると、先輩は「ユキちゃん、忘れてたんだ?」と、笑った。


「わ、忘れてないです! ……何ですか、俺に渡したいものって」

「ちゃんとこっち見てほしいなぁ」


 仕方なく俺は先輩を見て「これでどうですか」と言う。


「じゃあ、あげないとだね」


 西野先輩はそう言いながら、肩からかけていたボディバッグに手を伸ばして、何かを取り出す。そして、「ユキちゃん。はい。プレゼント」と、俺の前に差し出してくれた。

 俺は「ありがとうございます」と言って、先輩が手に持つ紙袋を受け取る。

 手元の袋は、ぬいカフェの公式キャラのフクロウがプリントされていた。少し膨らみはあるけれど、軽い。なんだろう?


「ユキちゃん、明日から地元戻るってこの前、言ってたでしょ? だから、今日のうちに渡したくてさ……キツネ、連れてきた」

「キツネ……?」


 俺は先輩に促されて、袋を開けた。すると、中から出てきたのは、あのオレンジ色のキツネのぬいぐるみだった。

 ううん、正確に言えば、手のひらサイズのキーホルダー。


「これ……」

「うん。ユキちゃんがよく座る席にいた、キツネのミニサイズ。ユキちゃん、いつもあの席であの子の写真を撮ってたから、好きなんだろうなーって」

「……なんでそんなこと」

「なんとなく。そういうの、黙っててもさ……見てたら、好きってわかるときあるじゃん? いつもシラユキさんと一緒に、楽しそうにあの子のとこ座ってたから」


 先輩は少し照れくさそうに、はにかんだ。


「ずっと……見てたんですか? いつから常連客って知って……」


 西野先輩にキツネのぬいぐるみをもらって嬉しい。それなのに、同時に俺だけが『知られている』という状況が嫌で、つい尋ねていた。


「あー……そうだよね。今日は驚かせてごめん。ユキちゃんが初めて店に来てくれたときから、知ってた。あのカフェ、俺の叔父さんの店だから。叔父さん、カフェしながら、ぬいぐるみ作ってんの」

「叔父さんの……? でも、俺が初めて行ったの……中2の夏ですよ?」


 記憶の奥にあるのは、あのぬいカフェの扉を開けた、最初の景色。姉さんに「ユキが好きそうなカフェあるの」って、連れられて行った、あの夏は今も覚えている。だって、あの日からあの場所は俺にとって、1番のお気に入りの場所になったから。

 だけど、その中に西野先輩がいた記憶はない。


「うん、ごめんね。……俺、高校入ってからあの店でアルバイトしてて。でも、ユキちゃんにとってあの店での俺は……たぶん、ただの店員だったよね」

「それは……」

「いいんだよ。ユキちゃんはあの店にいるぬい達に会いに来てたんだから、知らなくて仕方ない」

「……すみません」

「いや、謝る必要ないから、気にしないで。俺の方こそ、“店員じゃない俺”として、あの店でユキちゃんに声をかけるタイミング……ずっと見失ってて、ごめんね」


 西野先輩はそう言うと、俺の手にあるキツネを見つめた。

 俺だけが知らなかったけれど、先輩はずっと、ぬいぐるみが好きという俺の秘密を誰にも言わずに、見守ってくれていたのだろう。

 見られていたことも、気づかれていたことも、正直、戸惑っていて、俺の中でうまく咀嚼できない。だけど、先輩なりの優しさを知ってしまったら、胸のあたりがくすぐったくなった。この人のことをもっと、知りたいって思うようになっていた。


「俺の秘密が知られたの、西野先輩で良かったです」

「……え? ほんとに?」


 俺の言葉を聞いて、西野先輩は俯けていた顔を上げた。


「こんなに……素敵なキツネももらえましたし」

「そりゃあ、その子は叔父さんに特注で──」

 

 西野先輩はそこまで言って、口を閉じる。しまったというように、俺から視線を逸らす。


「俺のための、特別なものなんですね」


 俺のために作られた子。それを知ったら、なおさら愛おしく思えて、俺はこのキツネのぬいぐるみを優しく撫でてあげた。

 この子の名前は、西野先輩から拝借しよう。

 先輩の気持ちが込められた子なら、きっと、根っこの部分がとても優しいと思うから。




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