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16.君を好きになった、初恋の話



 

「ユキちゃん、お帰りなさい。あら? もしかして……その紙袋いっぱいに入ってるのは、チョコレートかしら?」

 

 学校を終えて帰宅したら、総菜屋のショーケース前にいたおばあちゃんが目を丸くしていた。

 今日はバレンタインだ。俺は両手の紙袋いっぱいにチョコレートをもらってしまった。

 

「あぁ、うん。これ……今日バレンタインだからって。俺ひとりじゃ食べきれないから、おばあちゃんもよかったら一緒に食べよ?」

「あらまぁ、嬉しいわ~」

「ほんと? じゃあ、これちょっと二階に持っていくね」

 

 俺はそう言いながら、二階にあがる階段に向かった。

 本当は、女の子からチョコなんてもらう予定はなかった。けど、俺も颯先輩にチョコを渡したくてたまらないから、顔を赤くしながら渡そうとしてくれる子たちのことを断れなくて。気づいたら持ってきてくれる子みんなに「ありがとう」って言いながら、受け取っていた。

 帰るころにはすっかり重くなった紙袋を見た柳川に「西野先輩よりもたちわりぃ」なんて言われてしまった。どうやら、颯先輩は「ごめーん、チョコは好きな人にあげたいから、もらえないんだ~」って毎年、断っているらしい。


 でも、今年は受験シーズン真っ只中で、今日も颯先輩は学校には来ていなかった。隣のクラスの子たちが「西野先輩、今日も来てなかった」「自由登校だから仕方ないよ~」って言ってるのを聞いたので、颯先輩に渡そうと思っていたチョコレートは今、この紙袋の奥底にまぎれている。

 皆みたいにうまく渡せそうにないけど……でも、おばあちゃんの店の手伝いが終わったら、颯先輩に連絡して、ちょっとだけ会いに行きたい。今日くらい、迷惑じゃないかもって思うから。

 自分の部屋についた俺は、もらったチョコレートをベッドの上にひとつひとつ取り出した。どれも、女の子らしい可愛い包みに入っている。

 

「みんな、手作りなのかな? かわいいな」

 

 そう呟きながら、俺は颯先輩に渡そうと思っていたチョコを取り出した。俺のは昨日、慌てて街中にあるデパートで、綺麗なおねえさんたちの中に紛れ込みながら選んだチョコレート。うさぎの形をしていて、今さらだけど、ちょっとだけ恥ずかしい。

 なんか、俺を食べてって言ってるような……。

 

「あーでも、まだ先におばあちゃんのお手伝いしないと。それから、颯先輩に渡しに行くんだ。溶けないように……そうだ、エプロンのポケットに──って……総菜のにおいついちゃうかなぁ」

 

 俺はちょっとだけ悩んで、部屋の窓をあけた。部屋の中は寒くなるけど、先輩にあげるチョコが溶けちゃう方が嫌だから、空気の入れ替えのついでに。

 

「これでよし」

 

 俺は机の上に先輩に渡すチョコレートの包みを置いてから、制服を脱いで、あったかいもこもこの白セーターに着替える。袖口をぐっと整えたあと、チョコの包みに視線を落とした。

 

「……お手伝い、ちゃんと終わらせたら、ちゃんと颯先輩に渡すからね」

 

 エプロンを手にして、俺はおばあちゃんのお手伝いに向かった。


 

 おばあちゃんのお店はバレンタインもいつも通り盛況だ。近所のおばちゃんたちも「はい、これ雪路くんに」ってスーパーのチョコを渡してくれる。最初はおばちゃんたちとの距離感に戸惑うことも多かったけど、もうすっかり仲良くなれたみたいで「貰っていいんですか?」と、ちょっとだけ嬉しくなる。

 そんな俺の前に、突然、そのときはやって来た。

 

「あらら? ユキちゃん、浮気かな~?」

 

 颯先輩の声がして、俺は「えっ」と声をあげながら声の方を見た。茶色のコートを羽織った大人っぽい颯先輩が、小さな紙袋を手にして歩道に立っている。

 

「あっ……、あの……これは、もらっただけですからね……!」

 

 慌てて俺は、エプロンにおばちゃんがくれたチョコレートを押し込んだ。すると、颯先輩は「あははっ。ごめんごめん~ちょっと言ってみたかっただけ~」なんて笑ってみせる。

 大好きな颯先輩の笑顔が、そこにあった。

 

「ところで、ユキちゃんは……好きな人に渡すチョコ、持ってたりする?」

 

 颯先輩は絶対、俺が用意していることを分かっていると思う。自分が好きな人だって知ってるから、期待するような顔をして俺を見てくる。

 

「あ……あります。でも……溶けちゃいやだから……上に置いてきちゃったんですけど」

「……じゃあ、あとで取りに行こっか。一緒に」

 

 颯先輩が優しく微笑むものだから、俺はこくこくと頷いていた。

 そんな俺たちの様子をおばあちゃんはしっかり見ていたようで。店の奥から出て来て、俺に声をかけてくれる。

 

「ユキちゃんったら、颯くんにあげるためにデパートまで行ってたのね~。なら、もう早く上で渡しちゃいなさいな。おばあちゃんがあとはしておくから」

「えっ……でも俺、今日あまり手伝えてない」

 

 後ろを振り向くと、おばあちゃんがにこにこと笑っている。

 

「いいの、いいの。ユキちゃんここずっと、頑張ってくれてたでしょ? 今日くらいのんびりしなさいな」

 

 おばあちゃんに、颯先輩に会えない間の俺のことをこっそりバラされてしまって、ちょっと恥ずかしい。でも、おばあちゃんの言葉に今日は甘えることにした。

 

 

 

 久々に颯先輩が俺の部屋にいると思うと、室内の空気が、ほんの少し張り詰めているように感じた。お互い黙ったまま座布団の上に座っているけれど、颯先輩の視線は俺の手元の包みに向けられている。

 

「……あの、颯先輩。これ……俺の気持ちです」

 

 颯先輩の前にそっと差し出した。すると颯先輩も持っていた紙袋を俺の方に「俺からもチョコレート」なんて差し出してくれる。

 二人してお互いのチョコレートを受け取ったところで、颯先輩が「ユキちゃん、話があります」と言って、正座になった。俺も

「あ……はい。聞きます」と、背筋を伸ばす。

 

「俺、大学合格したよ。さっき……合格発表があった」

 

 そう言う颯先輩の声は、とても穏やかだった。

 俺は今日が合格発表だったなんて知らなかったけれど、颯先輩なら合格しているだろうなって思っていた。


「おめでとうございます。さすが颯先輩だ。有言実行しててかっこいいです」


 と、ちゃんとお祝いの言葉を述べたつもりだ。だけど、何でかな。言い終えた瞬間、急に俺の瞳から涙がこぼれ落ちた。

 

「ご、ごめんなさい……なく、つもりなんかっ……ないのに」

 

 応援していたし、受かって欲しいって思っていた。それなのに、涙が止まらなくなる。颯先輩がいなくなるんだって、俺のそばから離れてしまうんだって思ったら、急激に寂しさが胸に襲ってきた。

 もう、たぶん俺は、颯先輩に出会う前の自分には戻れない。

 喜んであげたいのに、自分のことしか考えられていなくて、嫌になった。

 

「ユキちゃん、ごめんね。俺のせいでいつも泣かせて」

 

 颯先輩は俺の頬に手を伸ばしてきて、涙を指で拭ってくれる。俺はふるふると首を横に振って「違う。俺が弱いから。俺が悪い」って言うことしかできなかった。

 

「ごめんね。俺ね……今、こうしてユキちゃんが泣いてくれるの、ほんとは嬉しいんだ。俺と離れるのが嫌だって言ってくれてるのが、伝わってきて」

「……颯先輩がいない生活なんて、考えたくないです」

「俺も、ユキちゃんがいない生活なんて、考えられないよ。でも……ユキちゃんが俺のことをそんなに思ってくれるなら、どれだけ離れても、大丈夫だって俺は思ってる」

 

 颯先輩はそう言いながら、親指の腹で俺の目尻に触れた。

 

「ユキちゃん、俺の話……聞いてくれる? ユキちゃんにずっとしてこなかった話。……俺が、君を好きになった話」

「……俺を?」

「うん。ユキちゃんを好きになった話だよ。……俺の初恋」

 

 颯先輩は俺のことを愛おしいとでもいう顔をして、見つめてくる。


「聞かせてください」


 俺の返事に、颯先輩は目元をさらに緩めると、俺のことを好きになった話をしてくれた。

 

「俺ね……ユキちゃんが初めてぬいカフェに来てくれた二年前の夏に……君のことを好きになったんだよ」

「前にぬいパで言ってた……?」

「うん。あの日。俺さ……あのとき、親と大喧嘩してあのカフェの庭で、やさぐれて花いじっててね……クソ暑い日だったから、あ、これ死ぬな……って思ったんだ。でも、別に死んでもいいって思ってた。父親に殴られて、誰とも顔合わせらんなかったし……あの日は人生で一番どん底だった日でさ。でも、ユキちゃん、わざわざ近くにコンビニなんてないのにさ。瓶ラムネとスポドリ走って買ってきてくれたみたいでね『暑いから、スポドリ飲んで、ラムネは脇に挟んでくださいね、熱中症なりますから』って、自分の方が汗びっしょりなのに、差し出してくれてさ。天使がお迎えにきてくれたのかと思ったよね……」


 颯先輩の言葉で、俺はようやくあの日を思い出した。

 ぬいカフェの庭に麦わら帽子をかぶって庭いじりをしていた人がいた。姉さんに連れられて店に入ったけど、なんか心配になって外に出て……。ふらふらしてたから、慌てて、バスで来る時に見かけたコンビニまで走って行って、目についたものをとりあえず買って戻ってきた。

 でも、瓶ラムネもスポドリも、渡したその人はマスクまでしてたから顔は見えなかった。

 だけど……まさか、あの人が颯先輩だったなんて。


「えっと……あれ、適当に買ってきただけで……」

「うん。ユキちゃんからすれば、当たり前にしたことかもしれないけど。あのときは……俺ほんと精神的に参ってて。そこにこんなかわいい子が来てラムネとスポドリくれたらさぁ……そりゃ、一目ぼれしてしまうよ。あの日は……俺の人生の転機」


 まさか、そんな風に言われるなんて想定してなくて。

 だから、俺は「……それ以上、言わないで。そんな風に言われたら、離れるの余計嫌になるから」と言ってしまった。

 これ以上好きになったら、離れるのが怖い。


「ごめん。でも……聞いて欲しい」


 俺の頬に触れていた颯先輩の手が、離れる。

 静かに、これから大事なことを話すための距離を先輩が作ってくれた。

 俺は颯先輩が膝の上に戻した手に、視線を落とした。その指が震えているのが分かった。俺が再び先輩に視線を戻して「……はい」と返事をすると、先輩は「ありがとう」と呟いて、もう一度、続きを話してくれる。


「実はね……あの頃の俺は、自分のセクシュアリティに悩んでて、“ゲイなのかもしれない”って、ぼんやり思ってた。女の子には興味ないのに、男の身体にばっか興味あってね。でも、ユキちゃん見た瞬間、全部、確信に変わったんだ。ゲイなんだって。もうどうでもよかった。あぁ、俺……この子のこと好きだって思ったら、悩んでたの馬鹿らしくなった。でも……ユキちゃんに惚れたはいいものの……店に一ヶ月に一回くればいい方だったし……他の客は俺目当てでくるのにさ、全く、俺になんて興味なくて。俺はずーっと空気でね……。でも、たまにさ、にこって笑ってくれんの。まぁ、俺にではなくて、ぬいぐるみ相手なんだけど……。笑ってるユキちゃん見て……俺はずっとぬいぐるみになりたかった。ユキちゃんのそばに居られるのが……うらやましかった」


 颯先輩は笑顔を作ったけれど、どこか少し寂しそうにも見えた。


「でも店員としてでも、ユキちゃんを見るだけで幸せだった。好きな子ができるって初めてだったから、親との仲がどんどん悪くなっていってもさ……ユキちゃん見るだけで頑張れんの。勉強も何もかも、必死になれた。会える日が楽しみで、その日だけが励みだった。だから、雪音先輩の彼氏役することになったとき……俺はもしかしたら、ユキちゃんと接点出来るかもってすごく嬉しくて。楽しみだった。……だけど、あの冬の日、ユキちゃんが可愛すぎて、つい余計なことばっか言って、地雷踏んじゃって。俺……終わったって思った」

「……颯先輩、もしかしてあのとき、俺を本気で口説こうとしてたの?」


 俺は今でも覚えている。颯先輩が俺と姉さんを間違えて話しかけてきたことを。「こっちの方が俺好み」って言われたことを。


「……うん。一瞬だけでもいいから、ユキちゃんの彼氏になったみたいに振舞ってみたかった。だって……ユキちゃんと両想いになれるとか、思ってなかったから。せめて、少しくらい……」

「先輩が本気だったの……今さら知って恥ずかしい」


 俺はほんのりと頬が熱くなるのを感じる。どこを見ていいかわからなくて、俺はまた視線を一瞬だけ伏せた。


「……かわいいな」

「かわいくないです」


 むっとしたら、颯先輩も気が抜けたように少しだけ、柔らかく笑う。


「ごめんごめん。続き話すね?」

「はい」

「えっと……だけど、雪音さんにユキちゃんが同じ高校来るって教えられて、再会して……凄く嬉しくて。ずっと、話しかけるタイミング伺ってたんだよ。だけど、ユキちゃんモテすぎてさ……。そりゃ、優しくてこんなにきれいな子、俺なんか……絶対、だめじゃんって思ったよ。男同士なんか不毛だろって、諦めようって思ってた。だけど……我慢できなかった。告白されるたびにシラユキさんに相談してる姿みたら、俺なら君のこと全部受け止められるのにって思って……前にも言ったけど、それでユキちゃんに近づいた」


 颯先輩は「悪い男だよね、俺」なんて言う。


「そんなに……好きでいてくれたんですね」

「うん。ずっと……好きだった。でもさ、俺、怖かったんだ。ユキちゃんが俺と一緒にいることで、何か言われたり、苦しくなったりしたらって」

「そんなこと」


 俺がそう口にしたら、颯先輩は首を横に振った。


「急に、言われることあるんだよ。……俺が親と不仲になったの、俺のセクシュアリティのせいなんだよ。最初は、『女の子ひっかけるためにぬいカフェで働いてるんじゃないでしょうね? 』なんて、軽く母親に言われただけで俺、つい言っちゃったんだよね。『俺、女は好きじゃない。興味がない。たぶん、男が好きなんだと思う』って言った瞬間、全部変わった。何もかも……。父親にも殴られたことなかったんだけど、いきなりやられて。まぁ、そのおかげで、ユキちゃんに話しかけてもらえたんだけどね」


 颯先輩の言葉は静かだったけれど、その声はほんの少し震えていた。

 先輩が話しているのは、過去の話だ。でも、未だにその胸の内はじくじくと痛みを放っているようで、抱きしめてあげたくなる。だけど、今は颯先輩の心に留まっている気持ちを、吐き出せてあげることも必要なのかもしれないと思った。俺はただじっと、颯先輩の言葉を最後まで聞くことにした。


「だから……せめて卒業までは他の人にバレないようにって、ユキちゃんと付き合うことだけは避けてた。それに、ユキちゃんが俺から逃げたかったら、逃げられるように……道を残しておかないとって思ったんだ」

「俺は逃げませんよ。……怖がらなくて、大丈夫です」


 俺は腕を伸ばして、颯先輩の手を握った。すると、颯先輩の綺麗な二重の目から、一筋の涙が零れ落ちるのが分かった。


「怖いよ。……だって、ユキちゃんはゲイじゃない。でも、俺と付き合えば、ゲイって言われる。周りの目が変わる。いくら寛容な世の中になったって言われても……全員が受け入れられるわけじゃない。俺がいるうちは、俺が守ってあげられても、あとの2年間……ユキちゃんがどんな目で見られるかとか考えたら、ただの仲良しの先輩後輩みたいにいる方がいいのかなって思ったんだよ。俺、学校じゃ、へらへらしてるから。ユキちゃんに絡んでても、いつものかって流されるだけだし……。できるかぎり、君を守りたかった」


 颯先輩が前に「今はまだ、守る側でいさせてほしい」と言っていたことは、このことだったのかと、ストンと自分の中で納得できた。だから、俺も伝えないといけない。あなたはひとりじゃないんだって。俺がいつも隣にいるって。


「……俺、自分のこと“ゲイじゃない”って、思っていました。そもそも、颯先輩以外好きになったことないから、俺の性的指向が全くわからなかったです。でも、颯先輩を好きだって胸を張って言える今……俺は“先輩と同じ”がいいです。ずっと……死ぬまで、颯先輩だけ好きな自信しかないから。あなたと同じがいい」

「あぁ……もう……ほんとに、ずるいくらい、好きにさせてくるね」


 颯先輩は鼻をぐすっとさせる。


「俺はもう、颯先輩にこれ以上好きにさせないで欲しいって思ってますよ。うなぎのぼりすぎて……好きすぎて、一向に先が見えないから」

「……あーもう。ユキちゃんがそこまで言ってくれるんだから、もう俺も言うね」


 先輩は一度、姿勢を正した。そして、深呼吸をする。


「……俺、雪路が初めてあった日からずっと好きだった。もう、雪路がいない人生なんて考えられない。親のこととか色々あるけど、それでも俺と……付き合ってほしい。……もう、逃してあげられそうにないから、ごめんね。……雪路のこと、俺は一生、手離したくない」


 颯先輩の目が、真っ直ぐに俺を捉える。

 涙の滲んだその瞳は、本当に俺を望んでいるのが分かったから、俺は頷いていた。


「……はい。俺も、あなたがいない未来なんて考えられないから。何があっても、そばにいます。遠距離で物理的に離れちゃっても……こんなにまで俺のこと思ってくれる人となら、絶対大丈夫だって思えました」


 颯先輩は肩の力がすっと抜けたように、ほっとした顔をしていた。

 でも、すぐに「あのさ……」と言って、少しもごもごとする。


「えっと……すごくかっこ悪いことを言います」

「はい」

「キス……してもいい? 好きすぎて、俺……煩悩に勝てそうにない。ユキちゃんが俺の恋人だって……実感したい」


 颯先輩はちょっとだけ、奥手だと思う。なんでも手慣れていそうに見えていて、さらっとこなすのに、俺のことになると少し臆病になる。

 すごく、すごく可愛い人。


「その“煩悩”なら……俺も勝てそうにないので……」

「……じゃ、じゃあします。めちゃくちゃかっこ悪くて……ごめんね」

「颯先輩は、かっこ悪いくらいがちょうどいいです」

「何それ……」


 そう言いながら、唇の距離を縮めるために、颯先輩の手が俺の頬に再び、優しく触れた。ふたりのあいだに、ほんの少しの沈黙が流れる。

 言葉なんてもう、俺たちには必要なかった。

 触れる前のこのときが、世界でいちばん特別な時間に思えて、俺はゆっくりと目を閉じた。

 やわらかな感触が唇に落ちてくる。ほんの一瞬だけだけど、心臓が跳ねた。その音はいつまでも俺たちを祝福するように鳴り続けていて、この“煩悩”が愛おしかった。

 きっと俺は、この雪の夜を忘れない。あなたの心を知れた、この特別な日があれば。どれだけ離れていても、信じ続けられる気がしたから。


 これから来る先輩の卒業も、もう怖くなかった。





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