14.恋人未満、でも心は隣にある
冬休みの間にすっかり雪が降り積もって、除雪車が走った後の道路には、歩道にたくさんの雪が積まれていた。始業式の今日は、颯先輩から『一緒に学校に行きたい』なんてメッセージが届いたものだから、朝から二人で登校している。
「ユキちゃん、元気だった?」
「はい」
そう返事しながらも、少しぎこちない。新年の夜に通話したときは心の深いところまで話をしたというのに、久しぶりに並んで歩くと、初めて一緒に歩くような緊張感がある。
あのときは顔が見えなかったからこそ、言えた言葉が多かったみたいだ。
いざ、颯先輩の表情を見てしまうと反応が気になって、言葉がなかなか口から出てこない。
勉強は順調ですか? 体調はどうですか? そんな簡単な言葉すらも、喉の奥につっかかってしまう。雪道はいつもよりも慎重に歩かなきゃいのもあるけど、会話もままならない今、颯先輩と歩く学校までの道のりが少しだけ長く感じられた。
俯いていると、颯先輩から「ユキちゃん。下向いてばっかだと、可愛い顔が見れないんだけど?」なんて軽口が飛んでくる。
「かっ……可愛いわけがないです! 俺は男ですよ!」
俺は慌てて顔を上げて、颯先輩を見た。柔らかな目が俺を見ていて、颯先輩はゆっくりと手を伸ばしてくる。
俺の頬に優しく触れながら「ユキちゃんは可愛いよ」と、甘い言葉を吐く先輩は、やっぱり恋人ができたら甘々タイプらしい。
……って、あれ? 俺たち付き合ってるのかな? 好きって言ったのに、まだそれは聞いていない──だなんて、肝心なことを思い出す。
「ユキちゃん、どうした? 不安なことでもある?」
颯先輩は、俺の感情の機微がすぐ分かるらしい。心配そうに聞いてくれる。
言うか、言わないか。少しだけ迷う。でも、ここははっきりさせておかないと、なあなあにされちゃったら、困る。
「あの……俺たちって、付き合ってるんですか?」
俺はのちに不安になることを見越して、ストレートに颯先輩に聞いていた。すると先輩はしまった、忘れてた! みたいな顔をしている。そんな表情をされたら、嫌でも自分たちはまだ『先輩後輩以上の関係だけど、ちゃんと恋人未満』ということを突きつけられているようだった。
「俺はユキちゃんと付き合いたいと思ってるけど、きちんとかっこよく告白したい……とも思ってて」
颯先輩はちょっと俺と視線から視線を逸らして、話しづらそうに言う。
「じゃあ、まだ俺たちは付き合ってないんですね」
「そ、そうなるけど……でも、俺はユキちゃんが好きで」
「……付き合うのはいつなんですか? 姉さんとは大々的に付き合ってたくせに」
つい、拗ねたみたいな口調になってしまう。
でも、すぐにあれ? と違和を覚える。颯先輩、この前の電話で「俺はゲイなんだよね。女の子好きになれないんだ」って、言っていた。
じゃあ、姉さんとの関係はなんだったんだろう……?
数日経って、落ち着いて考えられるようになった今、疑問が生まれた。
「ユキちゃん、告白はもう少し落ち着いてからさせてほしい。だめかな……? 本当は俺だって、今すぐユキちゃんの彼氏になりたい。でも……ちゃんとユキちゃんのこと、大事にしたいからこそ、今はまだ、守る側でいさせてほしい」
颯先輩は今度はまっすぐ、俺を見た。
「守る側……?」
颯先輩が何を考えているのかはさっぱり分からなくて、その言葉だけを繰り返す。
でも、俺が颯先輩を好きになるよりもずっと前から、先輩は俺のことを好きでいてくれた。先輩が今すぐ俺の彼氏になりたいと思ってくれているのに、そうできない事情があるなら、もう少しだけ待ってあげてもいいような気がする。
颯先輩のこれまでの話から察するに、たぶん、先輩のご両親とも何かありそうだから。
「颯先輩……そんなうるうるした顔しないでくださいよ、俺が悪者みたいです」
「ごめんごめん。ユキちゃんはぜんっぜん、悪くないから。悪いのは俺だからね?」
「じゃあ……姉さんとのこと、教えてください。もし……俺がその話、深く聞かない方がよかったなら教えてくれなくても大丈夫ですけど」
颯先輩のペースで話してもらう方がいいと思ったけど、一つでもいいからもやもやしそうなことは消しておきたくて、俺は先輩に聞いていた。
よほど、知られてはいけないことなのだろうか。先輩はきょろきょろと辺りを見回す。
俺たちは少し早めに家を出ていたので、住宅街を抜けて学校が近づいても、周囲に同じ制服を着た学生の姿はない。だけど、颯先輩は何かを見つけたように「あっ……あった」と、ぽつりと呟く。
颯先輩の視線の先には、少し離れた場所にぽつんと佇む雪に埋もれかけた自販機がある。先輩は「ユキちゃん、あっち行こ」と、俺の手を軽く引いて、雪道を丁寧に歩きながらそこへ向かう。
「ユキちゃんは何が好き? 俺はね、この中ならコーンスープ」
颯先輩は俺の方をちらっと見て、自販機に500円玉を投入した。そして「ほら、好きなの押して」って、俺を甘やかすような声で促してくる。
「俺もこの中なら、コーンスープが好きですよ」
「そう? じゃあ、一緒にコーンスープ飲みながら、お話ししよっかな」
颯先輩はコーンスープのボタンを2回押した。ガン、と重みのある缶の落下音が二度続けてする。颯先輩は先におつりを取ってから、大きな身体をかがめて、コーンスープの缶を取り出す。そして、先輩はその缶を上下に転倒混和させた。
「はい、ユキちゃん」
優しく差し出された缶はなかなかに熱々だったけれど、「ありがとうございます」と、受け取った指先から、颯先輩の俺への気持ちも一緒に伝わってくる気がした。
先輩はとにかく、優しい。
俺が最後まで中のコーンを飲み干せるように、さりげなく缶を振ってくれる。その小さな気遣いを見るだけで、俺は颯先輩が好きだなって実感した。
缶を開けたら、コーンスープの少し甘い香りが湯気とともにふっと立ちのぼる。
「雪音先輩とのこと、話すね。……ちょっと変な話になるけど、聞いてくれる?」
そう呟いた颯先輩の声は震えていたけれど、きちんと俺の方に向けられていて。俺は「颯先輩のことなら、なんだって聞きます」と答えた。
「俺ね……昔から男が好きなんだろうなーとはなんとなく、思ってたんだ。で、高校入ったときに、バレまして。父さんからは激怒されて、母さんには泣かれてさ……まぁ、今もいろいろゴタゴタしてんだけど、そんな感じでね。親に……まともに見せるための恋人役として、雪音先輩とは演技というか、そういう関係だった」
颯先輩はマスクを下げて、缶を少しだけ傾けて飲んだ後に「……あったかいね」って呟いて、優しい顔をして俺を見る。
その口元には少しだけ、切れたような傷あとがある気がして──でも、俺はそれを指摘することができなかった。そこにはまだ、触れてはいけないような気がしたから。
「それにね、ユキちゃんに言ったら心配させるからって、ずっと言ってなかったんだけど……雪音先輩は高三のとき、ストーカーに遭ってたんだ。塾の帰り、いつもその相手を騙すために俺が駆り出されてた。だから……お互い利害が一致したというか、そういう感じで……。別に雪音先輩が俺のこと好きだったわけでも、俺が先輩を好きだったわけでもない。だから、安心して。ユキちゃんのお姉さんだったから、ただ……助けてあげたかっただけ」
颯先輩の言葉を聞きながら、俺はあの冬の日の姉さんが「彼女の私に」と強調したり、後ろを気にしたりしていたことに合点がついた。そんなことも知らずに、俺は……。
颯先輩は俺が知らないところで、俺の家族まで守ろうとしてくれていたのに。
「俺……そんなことも知らなくて、颯先輩を好きになってからずっと……勝手に嫉妬してました」
包むように缶を持つ俺の両手に、きゅっと力が入る。
「嫉妬してくれてたの? それ……ちょっと嬉しいかも」
「え? 嬉しいんですか?」
「うん。だって、俺なんかに嫉妬してくれるくらい……ユキちゃん、俺のこと好きってことでしょ?」
颯先輩からそうストレートに言われると、ちょっと恥ずかしい。でも、本当のことだ。視線を少し彷徨わせてから、覚悟したように先輩を見る。
「……はい。好きです。颯先輩のこと……大好きです」
「……可愛すぎて食べたくなる」
颯先輩は無意識で言ったのか分からないけど、すぐにハッとしたような顔をして、慌ててコーンスープを飲み始めた。俺も、恥ずかしさを誤魔化すように飲む。しばらくの間、何も言葉を発していなかったけれど、俺たちはまた一歩、近づけたような気がして、この時間が愛おしかった。
でも、その穏やかな沈黙を破るように、颯先輩が「うわ……」と声を漏らした。
どうしたのかと思ったら、颯先輩は制服の上に羽織ったコートからスマホを取り出す。画面を見て「……朝からもうこれで何回目だよ」と、嫌そうに呟いた。
その言葉だけで、俺は察した。たぶん、颯先輩のお父さんか、お母さん。きっと颯先輩の口元のその傷も……そういうことなのだと思う。
「妹のことは大事だけど……あの家にいても、俺のメンタルが削られるだけでね。正月にちょっとだけ顔出しただけで、ユキちゃんとの誕生日デート以来、ずっと叔父さんのとこに泊まってるんだ。あの人……母さんの弟なんだけど、ほんと俺のこと気にかけてくれて、ありがたいことに……」
颯先輩は少しだけ笑って、また俺に秘密をひとつ、教えてくれる。颯先輩の心の傷がどんどん露わになってくるのを感じながら、俺は何をしてあげたら、この人を守ってあげられるのか。助けてあげられるのか。考える。だけど、今の自分は力も何もなくて、むしろ守られてばかりで、あまりに不甲斐なさ過ぎて。どうしたらいいか、分からない。
「……颯先輩。俺も、そばにいるから。離れないからね」
ただ、言葉を伝えることしかできなくて、ありきたりなことしか言えなかった。
でも、先輩は「ユキちゃん。ほんと……ありがとね」と言って、俺の頬を優しく撫でてくれる。
そのとき、どこかの木から雪が落ちる音がして、颯先輩が学校に向かう道の方を見た。
「そろそろ学校、いこっか。たぶんもうみんな、来ちゃうし……もう少し、ユキちゃんと二人だけの時間を満喫したい。受験勉強、頑張れるから」
颯先輩にそう言われて、俺はこくりと頷いた。
コーンスープの缶をゴミ箱に捨てて、学校の方へ歩き出す。さっきは手を引いてくれたけれど、人目を気にして、今度は手を離していた。でも、指先が少しだけ触れる。
この距離感も幸せだった。