13.電話越しの、本当の言葉
颯先輩に送ったメッセージは、ものの数秒も経たないうちに、すぐに既読がついた。それだけではなく、トーク履歴は『西野颯』と、着信画面に切り替わる。
俺は深呼吸を一つして、颯先輩からの電話をとった。
『もしもし、ユキちゃん……? こんな時間まで起きてたの?』
どこか疲れているような颯先輩の声がする。受験生だから、大晦日も正月もそっちのけで勉強に励んでいるのが分かった。
「あ……えっと、はい。今……大丈夫でしたか?」
『大丈夫。ユキちゃん、寝てるかなって思ったから、朝に連絡しようかと思ってた。あけましておめでとう』
「あ、えと……はい、あけましておめでとうございます」
自分から話してもいいですかと言ったくせに、いざ電話がかかってくると、緊張して言葉が上手く出ない。
『それで……何か、あった?』
早速、颯先輩から本題を切り出されて、俺の喉が「ぐっ」と鳴る。
でも、言わないと。待ってばかりで、知ろうとしないなんて、教えてもらえなくて当たり前だ。
知りたいことは、自分から聞かないと。
何を思っているのかなんて、いくらこちらが考えたところで、想像でしかないのだから。
「……あの、先輩。もう……進路、決まってますか?」
『進路……』
「……はい」
しばらく無言が続いて、先輩が電話の向こうで悩んでいるのが分かった。
「俺は年下だし……頼りないけど……颯先輩がどの道を選んでも、大丈夫ですよ。近くに居られなくても……たとえ、離れてしまっても……あなた以外、俺の心を揺さぶれる人はいないから。だから、頑張れます」
俺がそう伝えたら、電話の向こうで先輩が「すぅ」と呼吸する音が一度だけ聞こえた。
「あ……えと、ごめんなさい。急に変なこと言って……“好き”って言っちゃだめって言われたからって、違う言葉で言っちゃって──……って、あ……だめだ、俺、何を言ってるんだろ。今のはなかったことにしてください。頭から今すぐ、消してください。俺は今、“好き”とは言ってません……」
何を言っているのか頭がこんがらがってくる。だけど、その様子を面白いと思ってくれたのか。電話越しに、少しだけ笑う颯先輩の声がして、俺はホッとした。
『……ねぇ、ユキちゃん。それ、ちゃんと“好き”って言ってるよ』
「あ、だから、今のは違う意味です! 言ってません、大丈夫です」
俺は慌てて否定をする。
『否定されても……もう聞いちゃったから。悪い子だね、ユキちゃん。……でも俺、今すごく嬉しかった。俺ね……ユキちゃんにそう言ってもらえる存在じゃ、ほんとはないんだ』
「……何か、あるんですか?」
颯先輩の深いところまで踏み込んでいいのか分からないけれど、今なら心の中を少しでも見せてくれるような気がした。
『あるよ。俺は……何もかも計算して、君に近づいたんだから。でも……そうだね、ユキちゃんに何も言わないのは、ダメだったよね』
颯先輩の口から「何もかも計算して近づいた」と言われて、急に怖くなった。
だけど、自分の誕生日のあの日、俺は何もかもを飲み込んだ。寝たふりをして、先輩から逃げた。
でも、この日の俺は違う。逃げてばかりじゃだめだと思った。
自分だけ優しく守られ続けるなんて、もう嫌だったから。
傷つくかもしれなくても、知らないことが多い方が怖かったから。
「じゃあ……ぬいぐるみパークに誘ってくれたのも、計算のうちだったんですか?」
そこは、知っておきたかった。颯先輩にとって、どこまでが計算なのか。
もしも計算だったのだとしたら、あの時間も嘘になるような気がして、胸の奥が少しだけ冷えた。
でも、答えを聞くのは、怖くはない。ただ、知りたかったから。
『そこは違うよ。ただ単に、ユキちゃんに喜んで欲しかったから』
「じゃあ……何を、計算?」
『うーん……計算って言うと語弊があるけど、俺……どうしたらユキちゃんと距離を縮められるか、考えてたんだ』
「……えっと、その何かの罰ゲームで……距離を縮めようとかじゃないんですよね……?」
言葉の意味が分かっても、気持ちがすぐには追いついてこない。俺はぱちぱちと瞬きを繰り返す。驚いて、声も変になった。
もし、颯先輩が罰ゲームとかそんな意味で近づいたと言っているなら、俺は……どうしたら……と、俺はワタユキさんをきゅっと抱きしめた。
背中に冷や汗が出てくる。でも、すぐに杞憂だと分かった。
『もちろん、違うよ。絶対に。ごめんね、そんな言い方になっちゃって。……でも、ユキちゃんにはちゃんと話しておきたかった。俺ね……ゲイなんだ。女の子、好きになれない人間なの』
颯先輩から『ゲイ』という単語が出てきて、それはそれで戸惑った。
浅川先輩に、問いかけられたあの日のことを思い出す。
言葉の意味は分かるのに、俺の感情はやっぱりあの頃と変わらなくて、うまくついてこない。好きになったのが先輩だけだから、俺が颯先輩と“同じ”なのかなんて、はっきりとよく分からなかった。
そんな俺が、うまく言葉を返してあげられそうにない。
でも……先輩が、自分のことを隠さずに話してくれたことだけは、ちゃんと嬉しいと感じる。
「えっと……その……俺、先輩のことは大好きで……でも、実は……そこらへん、俺よく分かってなくて……」
自分の無知さ加減に呆れながらの、しどろもどろな俺の返答。それに対して、先輩は『だろうね。ユキちゃんはほんと、今までよくこんな誰からも手垢もつけられずにきたなぁって感心するくらい純粋だから』と、とにかく温かい声で言う。
「えっと……それは……ほめてくれて……?」
『ほめてるよ。ほめてる。だから、ユキちゃん、俺なんかに捕まっちゃうんだよ』
顔を見ることはできないけれど、颯先輩は笑っているような気がした。
俺の曖昧な状態で一歩踏み込んでしまうことに、怖さがないかと言われると、嘘になる。
でも、颯先輩は俺にそんなことを言うけれど、今まで怖がらせてきたことなんてない。
いつだって、俺のことを考えてくれていた。むしろ、自分のことを分かっていない俺の方が、颯先輩を傷つけてしまうかもしれない。
だから……俺は、俺の気持ちを颯先輩に届けたかった。何度でも伝えたい。あなたはひとりじゃないって気持ちを。あなたになら、俺のすべてを差し出してあげたい気持ちを。
俺はあなたが好きだって。
「……別に、颯先輩なら捕まってもいいです」
静かに言うと、颯先輩は『ユキちゃん。俺のことちゃんと知っても、それ言える?』と、返してきた。
俺は颯先輩に対して、知らないことがたくさんある。俺だけ知らなくて悲しんだこともたくさんあった。
だからこそ、俺は、どこまで颯先輩のことを知ったら、怖くなるんだろう。どこまでなら、好きなままでいられるんだろう──そんな問いを胸の奥に浮かべながら、「どういうことですか?」と、先輩の答えを待った。
『ユキちゃんが“ぬいぐるみが好き”っていうのも、『 “ぬいぐるみとお喋りする”っていうのも全部、知ったうえで、俺は君に近づいたんだよ』
「……もしかして、七月に俺に話しかけてきたのは……わざと?」
颯先輩と深く関わるようになったのは、七月からだった。
あの日のことは、未だ鮮明に覚えている。シラユキさんと話しているところを後ろから見られて、からかわれると思ったら、まさかの受け入れられて。颯先輩のことを、この人、案外悪い人じゃないのかも? って思うようになったのだから。
でも、わざとであったとしても、それが全部『本気の気持ち』だったのなら、俺は──たぶん、その事実を知ったところで、変わらない。むしろ、嬉しくなると思う。
『うん。わざと。俺ね……ずっとユキちゃんに“好きになってもらえる方法”ばっか考えてたんだよ。ぬいぐるみに話すユキちゃんの声、俺だけが聞けたらいいのにって……だから、俺、卑怯な手を使って、あの日から距離を詰めようとした』
颯先輩の声のトーンが、自分を責めるように、少しだけ下がったような気がした。
「卑怯な手って……?」
『家族以外で、初めてユキちゃんのことを受け入れる人になったら、ユキちゃんに俺を見てもらえるかもって……考えたんだよ。だから、欲が出た。ユキちゃんに、好きになってもらいたかったし、俺のこと特別に思ってもらいたくて……俺は、そうでもしないと君に見てもらえないと思ってた』
颯先輩はきっと今、隠しておきたかったことを話しているのだと思う。俺に嫌われるのが怖いかのように声を震わせていて、今すぐ抱きしめてあげたくなった。
俺のことをそんな風に考えるくらい、見ていてくれたのだと思ったら、愛おしさが込み上げてくる。
ぬいぐるみに話しかける俺を「変だ」とか「気持ち悪い」とか言い放った人もいるのに。
家族以外、誰にも見せられなかった世界だったのに。
その扉の向こうに、ずっと前から……俺が気づく前から、颯先輩は中を伺うようにして、立ってくれていた。
そんな人を愛さずに、いられるはずがない。
颯先輩が頑張って一歩を踏み出してくれたから、恋を知らなかった俺が、こんなに素敵な人のことを好きになれた。
「どこが卑怯なんですか。……全然、卑怯じゃないです。だって、俺のことを丸ごと受け止めてくれていないと、そんなことできないじゃないですか」
颯先輩は俺の言葉を噛みしめるように少し沈黙してから『……そう言ってくれるなら、俺の全部、話してもいい気がしてきた』と言った。
「……先輩の全部なら、きっと俺はそのぜんぶを好きだと思います。大丈夫です」
『本当に? まだまだいっぱいあるけど……じゃあ、今、一つだけ話してもいい?』
「いいですよ。どーんと来てください」
俺は何を言われても、受け入れようと思った。
『まだ確定じゃないけど、実は、俺……雪音さんと同じ医大を志望してる。あの大学なら、自分さえ卒業後頑張ったら、学費の面をなんとかできるから……それが、理由のひとつ』
颯先輩は今日、俺が電話をかけた理由を、ようやくここで話してくれた。
きっと、先輩のことだから、このまま電話を切ってはいけないって思ったんだろう。
でも、やっぱり、直接聞いてしまうと、まだ確定事項ではないのに離れてしまう──その事実に不安がよぎる。
だけど、颯先輩は、そのまま次の言葉を続けた。
『俺……親とはもう色々あって……。妹とは仲は良いけど、もう両親とは最悪でさ。大学の学費ね、このままだと、払ってもらえそうにはないんだよね。行きたいなら、自力で行けって。だから……せめて、学費は全額工面できて、ちゃんとした“肩書き”も得られる道を選ばないとって思ってるんだよ。そうすれば、俺が親と不仲でも、いつかユキちゃんの家族に、胸を張って挨拶できるかなって……』
秋に初めて颯先輩の志望大学が姉さんと同じだと知ったときは、ぎゅっと胸が掴まれる想いがした。そして、つい数秒前も、離れ離れになる未来が脳裏には浮かんで、不安を覚えた。
だけど、たった今まで切なかったのに、こうして先輩の口から深く聞けたことで、すべてが『俺のため』って知った。胸の奥どころか、全身がぽかぽかになってくる。
一緒にいられなくなることで、不安や寂しさはある。でもそれ以上に──俺は、颯先輩をどんなときも応援してあげたいと思った。
「姉さんの大学ってことは……颯先輩が凄くまじめで優秀な人って伝わります。それに、父さんも同じ大学ですから。後輩だって……むしろ、喜ぶかも。ううん。先輩のことだから、喜ぶどころか、ものすごーく気に入られますね。俺、応援してます」
俺なりの言葉で、先輩に伝える。うまく伝わるかは自信がないけど、それでも、先輩の背中を少しでも押せたらいいなって。
『……ありがとう、ユキちゃん。俺、ほんとに……ずっと先の未来も、君のそばにいたい。だから……頑張るね』
「はい。でも……次に颯先輩のことを教えてくれるときは、今日みたいに電話じゃなくて、顔を見て教えてください。いっぱい、颯先輩の顔を見ながら、知りたいです」
俺の小言に、颯先輩は「ふふっ」と笑う。
『うん……次はもっとちゃんと、ユキちゃんの顔を見て話すね。はやく……会いたいな。ユキちゃん、大好きだよ』
「……お、俺もです」
『さっきまでは“好き”って言ってくれてたのにな』
「そうですけど……“大好き”はハードルが……」
『言ってる、言ってる』
颯先輩はそう言って、いつもの調子で笑っていた。
電話が終わったあとも、そんな颯先輩の声が耳の奥から離れなかった。言葉よりもずっと温かい先輩の笑い声が、始まったばかりの新年の夜を優しく包んでいるような気がした。
俺は先輩との会話を反芻するように、胸元にスマホを置いて、天井を見上げた。
言葉を交わすたびに、少しずつ近づいていく。
見ないふり、知らないふり、聞かないふり……そうやって言葉を飲み込んできた自分がばかみたいに思えてくる。
もしも、この夜から、颯先輩のぜんぶを知っていけるのなら。
俺も、ちゃんと向き合いたいと思った。
颯先輩の隣に、居られるように。