12.知らないふりはもう嫌だ
カーテンの隙間から、やさしい冬の朝日が差し込む。それがちょっとだけ眩しくて、俺はこするように瞼に触れながら、起き上がった。
あ、やっぱり、少し腫れてる。瞼にちょっとした違和感があった。
「ユキちゃん……目が」
先に起きていた颯先輩の、小さく息を呑んだような声が俺の耳を打った。
先輩の方を見たら、また泣きそうな顔をしている。
「……俺のせいだね。ほんと、なにしてんだろ。ごめんね」
颯先輩はそう言って、迷いながらもそっと俺の瞼に触れてくる。その指はまた、震えていた。
昨日の颯先輩の呟きがあったから、余計にこの人は本当に俺のことが好きなんだなって……実感した。好きって言わせてもらえないけど。それでも、この優しい指先から感じる熱は本物だから、俺は「食べ過ぎて、むくんでるんですよ」って嘘をつく。
「むくんで……る? これ、むくんでる……?」
「むくんでるんです。俺が言うんだから、間違いありません。16年間もこの顔で生きてるんですから。俺の言うことは絶対正しいです」
颯先輩は俺の顔をじっと見てくる。そして、少し気が抜けたように、ふっと笑った。
「じゃあ、むくんでるってことで……。むくみとるための朝ごはん、食べにいこっか」
「ぬいパにそんなごはんありますか?」
「んー? あるでしょ。ぬいたちももこもこだし、むくみとってるだろうから」
「たしかにもこもこですもんね。ケア大変そう」
「じゃあ、行こう。……ほら、フルーツにはカリウムが多く含まれてるって言うじゃん。むくみにいいし、フルーツたくさん食べよ」
柔らかく笑ってくれる颯先輩を見て、ホッとする。いつも通りの会話ができるだけで、昨日の夜の重さが少しだけ遠くなった気がした。
それから俺たちは朝の身支度をしてから、朝食会場へと向かった。颯先輩から「ほら、フルーツ食べなよね?」と言われながら、しっかりビュッフェを堪能して──今はもう、帰りの新幹線の中で、俺たちの住む県に向けて走り出している。
ただ、行きとは違う光景が俺の前には広がっていた。颯先輩が新幹線に乗る前に、大量の弁当を買い込んだのだ。
「先輩……さっき、ビュッフェ食べてましたよね?」
俺は座席テーブルに積まれた駅弁を見ながら、ぼそりと呟く。
「うん、まあ……あれは前菜?」
颯先輩は1つ目の駅弁のフタを開けながら、首をかしげる。
「じゃあ……今のそれは、メインディッシュですか?」
「うーん……スープ的な立ち位置?」
勉強に疲れて頭が働いていないのか。颯先輩は意味がわからないことを言い出す。
「スープ? え? 弁当ですけど?」
「ほら、俺……フランスの血が入ってるって言ったでしょ? あれが前菜なら、これはスープ。それで、こっちがサラダで、次が魚料理。で……これはソルベ、こっちは肉料理。最後はデザートでフィニッシュ」
先輩は積み重なっている弁当を次々と指さして、謎の“駅弁フレンチ理論”を繰り広げた。
「いやいや、どれだけ食べるんですか」
「まぁ……食べてないと自分に嫌気がさして、やってらんないというか。懺悔の気持ちというか」
「……じゃあ、俺にも1つください。サラダがいいです」
俺がそう言うと、颯先輩は「ユキちゃんも?」と言いながらも、その中から1番小さくて食べやすそうなサンドイッチの包みを手渡してくれた。
俺があまり食べられないことも、先輩はよく知っている。
そんな先輩の優しさが垣間見えて、なおさら俺は、この人が好きだなって思った。
新幹線が駅に着くと、高架ホームから見下ろす外の景色は、すっかり雪化粧をしていた。
「ユキちゃんはこのあと……おばあちゃんの家? それとも、実家に帰る?」
先輩は食べ終えた弁当の容器を入れた袋をゴミ箱に捨てながら、俺を見た。
「父さんと母さんが車で迎えに来るって言ってました。あっち、雪がもう結構積もってるみたいで、さっきスマホ見たら、連絡来てて」
「そっか。この雪だし、ユキちゃんの家の方はすごそうだね」
「颯先輩は……?」
「あー……俺は、叔父さんが迎えに来るっぽい」
颯先輩はちょっとだけ言い淀む。先輩があまりご両親と仲良くないと言っていたので、少しだけ引っかかった。
「そうなんですね」
「うん。……それじゃあ、帰ろっか」
颯先輩は促して、改札に向けて歩き出す。俺もその背を追うように、少し小走りで隣まで行った。
行きとは違う、ほんのちょっとだけ離れた距離感。
でも、その寂しさを悲しいとは思わない。俺の中には、寝たふりをしていたときに先輩が伝えてくれた『好き』の言葉がちゃんとあるから。今は大丈夫。近過ぎたら、思わずこぼれちゃうからこれくらいが良いんだ。きっと。
そう思いながら、あっという間に俺たちは駅の外に出ていた。
駅前の雪は、思っていたよりも深く積もっていた。辺りは底冷えする寒さに包まれていて、思わずぶるりと震える。
「ユキちゃん。寒いからあったかい恰好して過ごすんだよ。……良いお年を。一緒に、ユキちゃんの誕生日過ごせて、幸せだった」
颯先輩は俺のマフラーをそっと直してくれながら、微笑んだ。
言いたいことはいくつもあったけれど、また『好き』って言いたくなるから、俺は一瞬だけ、ぐっと唇を噛んだ。
「ありがとうございます。……先輩こそ、良いお年を。受験勉強頑張ってくださいね。応援してます」
「うん。ありがと。……それじゃあ、俺は行くね。叔父さん、たぶん、今日も店開けなきゃだから、早くしてくれよーとか思ってそう。今、スマホめっちゃ震えてる」
颯先輩はそう言って、俺にスマホの画面を見せてくる。そこには、『おじさん』と表示されていて、俺は「分かりました。早くいってください」と声をかけた。
「それじゃあ、またね!」
颯先輩は手を振ってから、俺から背を向けた。ロータリーのところにある赤い車に乗り込む先輩の姿を見送りながら、年が明けたらまた笑って話せますようにと願った。
颯先輩の乗った車が去ってから、俺はようやく自分のスマホをコートから取り出す。
父さんから『雪路、父さんは今、駅の中の本屋に居ます。雪路も何か読む?』なんてメッセージが来ていて、ふふっと笑ってしまった。俺の足は、再び駅の方を向く。
きっと父さんは母さんと一緒に、年末年始は何を読もうかなぁ~なんて本を選んでいるのだろう。
早く父さんと母さんに会いたくて、温かな駅構内へと、俺は急いだ。
駅構内の本屋前には、壁と一体型になったような休憩スペースがある。そこになぜかキャリーケースを持った姉さんが座っていることに、俺は気がついた。
「姉さん……?」
俺が声を掛けると、久々に会った姉さんは「ユキ、お帰り~」なんて、自分の方が帰ってきたはずなのに手を振ってくる。
駅に入る前にコートの雪を払っていたけれど、もう一度だけ払って、隣に座った。
「今日帰って来たんだ?」
「うん。私は一本早い新幹線でこっちに帰ってきてたの。ユキが東京まで出てきてたなら、私も一緒に帰ってくればよかったかな~。久々に、西野くんにも会いたかったのに」
姉さんから出たワードに、俺は言葉を詰まらせる。
そうだった。姉さんと颯先輩は……付き合ってた。俺の好きな人は、姉さんの元カレだ。
いつも、忘れそうになってしまう。
でも、颯先輩は昨夜、俺に「好きにならないなんて、俺にはできなかったんだよ」と言っていた。どういうことなのだろう。
もしかして、俺が姉さんと颯先輩の仲を壊してしまったってこと……?
胸のあたりがざわざわしはじめたとき、俺の視界の端に、姉さんのスマホの画面が映っていることに気づいた。
メッセージアプリの画面だ。相手は『西野颯』と書いてある。
《ユキにちゃんと言った?》
俺のことに対する姉さんの、颯先輩への問いかけ。それに対して、先輩は3つも返信していた。
《ごめん、まだ》
《むしろ、誕生日だったのに、ユキちゃん泣かせました》
《今度、会ったときにでも、雪音さん話、聞いてください》
二人のやりとりは、キツネのスタンプを交えながら行われていて、颯先輩からのメッセージで終わっていた。
颯先輩は、俺のことを好きでいてくれている。でも、俺の見えないところで、こうして今もなお、二人は繋がっている。
なんで……? 考えちゃいけないのに、変な方に思考が傾きそうになる。
そんな俺の視線に気づいたように、姉さんはスマホをそっと伏せた。でも、何も触れてこない。
勝手に二人のやりとりを見てしまったことへの罪悪感と、何とも言えない焦燥感。その二つが胸の中をめぐり始める。でも、すぐに姉さんに謝ることができなくて、俺もそっと視線を逸らした。
そんな俺に、姉さんは「お父さんとお母さん、あっちにいるけど、呼んでこようか?」と声をかけてくる。
「……ううん。自分で行くから、大丈夫。ちょっとだけ、この荷物だけ見ててもらってもいい?」
「いいよ。持っててあげる。かして」
姉さんにぬいパークのショップ袋を託す。その中には、颯先輩が用意してくれた名前のないあの子もいた。
胸の奥では何かが詰まったまま、俺は父さんと母さんを探して、再び立ち上がった。
***
ぬいぐるみパークから帰ってきてから、数日が経った。
今年も残るところ、今日だけとなった朝。大掃除の終わった実家のリビングには、みかんとコタツ、それから穏やかな家族の空気が漂っている。
父さんの方のおじいちゃんおばあちゃんはもう数年前に亡くなっているので、俺の実家では総菜屋を営んでいる母さんの方のおばあちゃんを、俺たちの家に連れてくるのが毎年の恒例だ。
「ユキちゃん、そのぬいぐるみも可愛いわね。なんて名前なの?」
ソファに座るおばあちゃんが、コタツで俺の腕に抱かれた新入りの白くまを見る。
「『ワタユキさん』だよ。……ほら、シラユキさんと同じシリーズなんだ。でも、ちょっとこの子の方が大きくて、雪だるまみたいだから。雪だるまを作りやすい、わた雪からワタユキさん」
「ユキちゃんらしいネーミングね。シラユキさんも元気?」
「うん。元気。……ほら、ここにいるよ。あと、ハヤカゼさんも連れてきた」
俺はおばあちゃんに、ぞろぞろと連れてきた子たちを見せる。
「あらあら、颯くんがくれた子も、ユキちゃんのお気に入りなのね」
「……うん」
「そうだわ。ユキちゃん、こっちのお部屋にもまだたくさんいるんでしょ? あっちのお部屋にも連れて帰る子はいない? ここの子たち、ユキちゃんがいなくて、寂しがってないかしら?」
俺はほんの少しだけ黙って、部屋のぬいぐるみたちを思い返す。俺がいない間、母さんがあの子たちの面倒を見てくれている。けど、俺がいない時間の方が多いから、たしかに何人か連れて行ってあげないと、かわいそうかもしれない。
「……そうだね。ちょっとだけ泣いてる子もいるかもしれない。じゃあ、特に寂しがりやな子だけでも、おばあちゃんの家に連れて行こうかな。どの子がいいか、ちょっとだけ見てくるね」
俺はワタユキさんを抱いたままリビングの扉を開けて、二階に向かう階段をのぼり始めた。
雪深い地域に建てられた俺の家は、一階の半分をガレージが占める。そのため、二階には俺の部屋と姉さんの部屋。父さんたちの寝室と客間。それからトイレと、サンルームもある広々とした造りだ。
階段の踊り場に上がったところで、すぐ近くの客間の扉が少しだけ開いているのに気付いた。
中に誰かいるのかな? と思ったら、「西野くん……だから」と、颯先輩の名前を呼ぶ姉さんの声が俺の耳に届く。
「あの日のこと……ユキにはちゃんと伝えないとだめだと思う。じゃないと、きっとあの子……自分を責めるよ。私たちが、ユキを傷つけてしまうと思う」
一階からテレビの音と、家族の笑い声がかすかに混ざって聞こえる。でも、俺の耳にひっかかるのは、それとは違う真剣な姉さんの声。
俺の何を守ろうとしているのか。
俺には言えないたくさんのことを、二人は共有している。
年下だから、守られてばかりなのだろうか。そんなに俺は、頼りないんだろうか。
ふたりの目に映る俺って……何?
俺の中には疑問ばかりが浮かんでいて、つい踊り場で立ち尽くしてしまう。けれど、俺に気づかない姉さんの声は、そのまま扉の向こうで続く。
「それと……いい加減、ユキに志望大学のことは話しなよね。遠距離になるって、分かってる? あの子と離れるのに、何を悠長なことを言ってるの。ウチの大学受かってからじゃないと言えないって思ってるのは知ってるけど、そのときはもうユキの隣に居られないんだよ? ユキをまた泣かせるつもり?」
姉さんの心配する言葉を聞いたら、それ以上ここにはいられなくて。俺はワタユキさんを抱く腕に力を入れながらも、音を立てずに自分の部屋に向かった。
見ないふり。聞かないふり。知らないふり。一体、いつまで続けたらいいのだろう。
颯先輩はまだ、俺にどこを目指すかも教えてくれない。将来が決まっている姉さんには話せるのに、俺には話そうとしてくれない。
俺が頼りないから?
俺がまだ先輩みたいに将来の道を考えていないから?
やりたいことも、なりたいものもわかんないから?
素直に待っていたら、姉さんの言う通り、俺はもう先輩のそばにいられなくなる。話して欲しい。俺も、知りたい。
俺の友達がたくさんいる部屋に入った瞬間、涙をせき止めていたダムは決壊した。
ぬいぐるみたちが俺の部屋に溢れているのは、遠巻きにされがちで学校で友達を上手く作れない俺に、父さんと母さんが「私たちのせいでごめんね」なんて言って、たくさん買い与えてくれたから。
そんなみんなが昔と同じように『雪路、大丈夫?』と言っているかのように、出迎えてくれている。
腕の中の新入りさんも、俺を心配そうに見上げていた。
「ねえ、ワタユキさん……みんなも……俺、どうしたらいいと思う?」
ぬいぐるみたちは何も言ってくれない。ただいつも、俺を見守っているだけ。
だけど、やっぱり彼らがいるだけで、俺はほんの少しだけ、呼吸がしやすくなった気がした。
「先輩……聞いたら、話してくれるかな。それとも、また逃げちゃうかな」
そう呟きながらも、受験を邪魔したくないという気持ちは半分ずつある。俺の心は、やっぱりすぐには決まらなかった。
その日の夜、姉さんは俺のことをとにかく気にかけてくれていた。電話を聞いてしまったことがばれていたのか。それとも、俺が単に元気がないように見えたのか。年越しそばのえびの天ぷらまで分けてくれる。
「姉さん、大丈夫だってば」
「いいのいいの。ユキはもっと大きくならないといけないから」
「……じゃあ、姉さんの好きなこれいる?」
「いるいる!」
俺はお返しに、姉さんの好物のしいたけの天ぷらを分けてあげる。
だけど、そしたら「ユキ。お姉ちゃんは、ユキの味方だからね」なんて意味深な言葉までかけられるものだから、「うん、わかったよ、分かったから」って返事するのが精いっぱいだった。
ベッドに入り、十二時をまわって、俺のスマホが振動する。画面を見たら、柳川や三輪さん、香川さんといったクラスメイトたちからのあけおめスタンプが送られてきた。
みんなが元気にしているのは嬉しいんだけど、どうもすっきりしない。たぶん、俺が待っているのは、あの人からの連絡。
だけど、実は最後にぬいぐるみパークから帰ってから、颯先輩とは連絡をとっていない。近づき過ぎたら、好きって言ってしまう。その気持ちが俺にブレーキをかけていたから。受験生だからって、遠慮していた。
でも、素直に待ち続けるのは、俺にとっても颯先輩にとってもよくない気がした。
あけおめスタンプの通知を全部閉じてから、俺は颯先輩とのトーク画面を開いた。
《あの、今……少しだけ話しても大丈夫ですか?》
何度か打ち直して、あえて、あけましておめでとうなんて打たずに、俺は送信ボタンを押していた。