10.好きって、言いたくなるほどのしあわせ
誕生日デートの少し前に、颯先輩はわざわざおばあちゃんに菓子折りを持って挨拶に来たり、俺に親の番号を聞いて自分から父さん母さんに電話をかけてくれたり、すごく大人な対応をしてくれた。
俺は別に男だし、恋人じゃない。だから、そこまでしなくていいのにって思うけど、颯先輩は違った。
「大事な息子さんと旅行に行くんだから、挨拶するのは当たり前でしょ」
真面目な顔してそう言ってくるから、驚いた。普段の言動や見た目とは違って、やっぱり根がしっかりしてるんだなって。その見た目とのギャップに、俺の心臓は撃ち抜かれそうになる。
俺でさえもそうなのだから、少女漫画が大好きな母さんは、きっと何かを察したのだと思う。
「ユキちゃん! 颯くん、とても良い子ね!」
なんて、颯先輩を褒めちぎる。
そうでしょ? 俺の好きな人は素敵なんだよ? って、言葉にはしないけど、俺は鼻高々だった。
ただ、姉さんと付き合ってたときは、母さんと父さんには挨拶もしてもいなければ、会ってなかったらしい。俺にここまでしてくれるのに、意外だった。
でも、姉さんとのことが父さんに知られてたら、たぶん、颯先輩は電話をかけることすら、許してもらえてなかったと思う。父さんは、あまり表には出さないけど、姉さんと俺のことを溺愛してる節があるから。
そんな颯先輩自身は、自分の親とはあまり仲良くないらしい。俺が連絡することに関しては渋られてしまって、仕方なく、ぬいカフェのオーナーさんである叔父さんにだけ、ご挨拶をさせてもらうことになった。
あれから数日が経ち、芯まで寒さがしみる誕生日当日の朝。俺は必要最低限の荷物をつめたリュックを背負って、おばあちゃんに見送られながらタクシーに乗り込んだ。
朝六時のターミナル駅の前は、冬らしいしんとした静けさに包まれていた。駅構内も日中に比べてほとんど人通りが少なく、これなら無事に颯先輩を見つけられそうで安心した。
ただ、改札口の近くは暖房が効いていないので、立ち止まっていたら少し寒い。人が少ないことをいいことに、俺はまだかな? まだかな? って思いながら、つま先立ちを繰り返して、今か今かと颯先輩が来るのを待っていた。
そんな俺は、今日は少しお洒落してみた。
少し大きめの濃紺のPコートの下には、白タートルネックとチャコールのカーディガン。黒のスラックス風パンツに、ほんとはブーツにしようか悩んだけど、歩き回るから焦げ茶のスニーカー。自分的にはほんの少しおすましモード。
颯先輩にはお洒落をしませんって言ったけど、反応がちょっと気になる。
だけど、待っても颯先輩はなかなか現れない。
俺が乗る新幹線は、六時二十分発。今は六時十分なので、まだ少し余裕はあるけれど、始発だから、ほかの乗客も早めに新幹線はホームに来る。次々に新幹線の改札口を通る人たちの姿を目にして、これは急いだ方がいいのかな? って、焦りを感じはじめたときだった。
「ユキちゃん、おはよ~。そわそわしてどうしたの?」
音もなく背後から声がしたかと思えば、颯先輩からいつも香るシトラスの匂いが俺の鼻にふわりと届く。その刹那、肩に重みを感じて、俺は固まった。たぶん、先輩は今、俺の肩に顎を乗せている。横目で見たらあまりの顔の近さに、俺は声にならない叫びをあげた。
「ひどーい。俺の顔見てそんな顔するとか。……ユキちゃんも、俺に会いたかったんじゃなかったの?」
挙動不審になる俺を見ながら、先輩はからかってくる。
「あっ……会いたかったですけど! でも、びっくりするのでやめてください!」
「ごめんごめん。ユキちゃんがお洒落して、ずーっと可愛い顔してそわそわしてるから、ついからかいたくなっちゃった。……ユキちゃん、十六歳のお誕生日、おめでとう。今日の格好、すごく似合ってるね」
颯先輩はさっと離れると、お祝いの言葉を口にしながら、俺の前に「はい」と新幹線の乗車券を差し出してくれる。
そわそわしてたのを颯先輩に見られていたのが恥ずかしいのと、誕生日をすぐに祝ってくれた嬉しさ。それからお洒落したのを褒めてもらえたことで、俺はたぶん今、すごく顔が赤いと思う。
でも、それ以上に颯先輩の私服が素敵すぎて、そっちに意識が行く。
焦茶のチェスターコートに、白ニットと茶色のパンツ。首からはベージュのマフラーを垂らしていて、足元は黒のスニーカーを履いていた。甘い顔立ちに似合う、綺麗だけど柔らかな雰囲気の服に見惚れそうになる。
「ユキちゃん?」
「あ、はい。ありがとうございます」
颯先輩にぼーっとしてたことを悟られるのは恥ずかしいので、慌てながらも、なるべく冷静を装ってチケットを受け取る。
すると、先輩は「さて、行こっか」と、何のためらいもなく俺の右手を掴んだ。くるっと方向を変えて、改札に向かおうとする。
「えっ! 颯先輩! ちょっと待ってください」
「待ちませーん」
「ほんと、ちょっと、一旦、待ってください! ほんの少しでいいから手を離してください!」
俺は歩き出す颯先輩に、必死に抵抗した。
というのも、颯先輩ったら、受験生だっていうのにマスクをしていないのだ。これから人の多くなる場所に行くのに、無防備なその姿に呆れてしまう。受験生の意識が薄すぎる。
「あ……そんなに嫌だった? ごめんね」
颯先輩はようやく、止まって手を離してくれる。
「嫌とかじゃなくて」
「……うん?」
颯先輩は俺が今から何をしようとしているのか分かっていないように、首を傾げた。
俺はリュックを下ろし、中からマスクケースを取り出す。未使用のマスクを一枚手に取って、颯先輩の口元につけてあげた。
そのとき、先輩の耳にわずかに、俺の指先が触れる。
これは、颯先輩の体調管理の意味があるんだから。風邪を引いたら大変だから。って、俺の手が先輩に触れる言い訳を心の中で繰り返した。
「先輩、マスクはちゃんとしてください。ご飯食べるときと飲み物飲むとき以外は、外しちゃだめですからね? この二日間の……俺との、約束です」
「……うん、はずさない」
そう、素直に口にする颯先輩は、子どもみたいに見えた。いつになく可愛くて、俺は「それじゃあ、行きましょう」と言いながら、自然と笑みを漏らす。
俺は今日、好きな人と初めて誕生日に遠出する。
本当はまだ、心の奥にはしっかりとは晴れきらない空模様が広がっていたけれど。颯先輩の隣にこの二日間、俺は誰よりも近くにいられる。この可愛い先輩を俺が独り占めできる。そのことが、何よりも嬉しかった。人生で一番の、誕生日プレゼントだと思った。
ぬいぐるみパークに向かうために新幹線に乗り込んでからの俺は、颯先輩との時間を楽しみたい気持ち半分、受験生を遊ばせちゃいけない背徳感が半分。結局、後者が勝った。
俺はちゃっかり持ってきていた勉強道具を見せながら「俺も勉強するから邪魔しないでくださいね」なんて言う。すると、颯先輩は「そういうとこ、ほんと……」と何かを言いかけながら、俺の頭をくしゃくしゃっとひと撫でしてきた。
颯先輩が俺に触れてくる手は、季節関係なく、いつも温かい。
たぶん、颯先輩は俺のことをかわいいとか、そんな風に思ったら、すぐ撫でてくるんだと思う。
その事実に気がついたら、俺は先輩を直視できなくて、持ってきた単語帳をひたすらじっと眺めることにした。
新幹線が走り出してしばらくしてから、ふと顔を上げて窓の外を見る。田畑にはすっかり雪が積もっていて、朝の光を反射するようにきらきらと輝いていた。
「綺麗だね」
颯先輩が優しい声で話しかけてくる。
「はい。綺麗です」
颯先輩との一日が、どうかこの景色のように綺麗で、楽しいものになりますように。
そう願いながら、俺はふたたび単語帳に視線を落とした。
でも、隣に座る颯先輩の声も、呼吸も、何もかも聞き逃さないように、このときの俺の耳は常に先輩を意識していた。
***
一歩踏み込んだゲートの向こうには、ぬいぐるみたちが暮らす美しい街が広がっていた。
中央広場に向かう道の両側に並ぶのは、赤レンガ造りのヨーロッパ風の集合住宅に見立てた建物。その窓からは色んな動物のぬいぐるみたちがクリスマス仕様の装いをして、顔を覗かせている。小さなバルコニーにはミニサイズの洗濯物が干されているけれど、そのどれもがサンタ服だ。
街角のベンチではサンタ帽のクマが新聞を読んでいて、郵便ポストの上でリスが優雅なクリスマスパーティーを楽しんでいた。園内に流れるオルゴールのジングルベルはこの場所のBGMにぴったりで、ぬいぐるみたちの街に迷い込んだような感覚に、俺は思わず「うわぁ……」と声を漏らす。
そんな俺の背後から「ユキちゃん、これつけて〜」と、楽しげな颯先輩の声がした。
え? と思いながら後ろを見たら、いつの間に買ってきたのか、颯先輩はキツネ耳のカチューシャをつけていた。すでに俺よりもノリノリだ。そして、その手にはウサ耳の白いカチューシャ。
「これ……捕食関係……?」
ボソッと呟くと、颯先輩はくつくつと肩を振るわせ始めた。でも、笑うのを我慢できなかったらしい。
「あははははっ! あー、もうっ! やば! ユキちゃんってば、ここでそういう反応する〜? もー、いつもほんとちょっとズレてるとこあって、可愛いな? …………でもまぁ、ユキちゃんの言うそれ、あながち嘘じゃないか。実際、俺に捕まってるし」
最後の颯先輩の言葉に、俺はギョッとした。そのときだけ一瞬、真顔になったから。
でも、またいつもみたいな柔らかな笑顔を浮かべたので、今のは聞き間違いかな? なんて思う。
「てか、ウサギがユキちゃんで、俺がキツネ、似合ってるよね?」
「颯先輩はキツネっぽいですけど……俺はうさぎ……なんか、違いますよね? ていうか、俺はこういうのつけるタイプの人間じゃ……」
「え……。ダメ? ユキちゃんっぽいのに? じゃあ、俺も外した方がいいかな? ユキちゃんぬいぐるみ好きだし、つけてくれるかなって思ったんだけど……」
颯先輩は、急に残念そうに眉尻を下げた。なんだか、じわじわと悪いことをしてしまったような気がしてくる。俺はしばし、先輩の顔とその手元を見比べた。
つけて、つけて、とでも言いたげに颯先輩はうるうるした目を向けてくる。
「……わかりましたよ! つけますから、そんな顔しないで下さいっ!」
俺はもう昔と違って、颯先輩を、無碍にできない。観念してカチューシャを受け取って、渋々それを頭につけた。
颯先輩はやっぱり、キツネみたいな人だ。先ほどの表情は演技だったように「うん。可愛い」なんて、満面の笑みを浮かべる。
俺は時々、カウンターを食らわすことはできても、常に颯先輩より優位に立つことはできない。いつもこの人の手のひらで、コロコロと転がされている。
むぅ、とむくれたけど、颯先輩は何食わぬ顔をして、俺の手をぎゅっと握ってきた。もう、悔しい。たったそれだけで、俺の機嫌はすぐ治ってしまう。
「ほら、行こっか。ユキちゃんの気になるとこから順番にね」
この夢の国には、俺たち以外にもたくさんの人がいる。小さな子どもを連れた家族や、カップルも。
でも、颯先輩に手を引かれながら歩く景色は、二人だけの特別なものに思える。
誰にも邪魔されないような気がしてくる。
この時間がいつまでも続いてくれますように、そっと願いながら、俺は先輩の手を握り返した。