しみ
背の高い書棚の隙間から、蒼兄が取り出したのは、革表紙の厚い本だった。
蔵の中に保管されていた古い記録のひとつ。
文字の擦れた背表紙には、何かの年号と、墨で殴り書きされたような寺の名前。
どことなく、近づきがたい気配を纏っている。
「めっちゃ古そうやん……それ、開けるの?」
咲が少し腰を引きながら言うと、蒼兄はふっと笑って、机の上にそれを置いた。
「昔の地誌とか、言い伝えを書き留めた記録かもしれない。名前までは書いてないけど……この蔵にあったってことは、時村家に関係があるはずだよ」
私と咲は、並んで覗き込む。
蒼兄がゆっくりと表紙を開くと、乾いた紙の匂いがふわりと立ちのぼる。
そのときだった。
ページの中央あたり。
古びた筆書きの行の途中で、ひときわ濃い、インクがにじんだような部分が目にとまった。
……濡れてる?
いや、さっきまでは何もなかった。触っても、指は乾いたまま。
なのに、そこだけが、ぽたり、と水を垂らした直後のようなにじみ方をしていた。
思わず手を伸ばしかけた瞬間——
「……あれ」
じわり、と文字が動いた。
にじみが、墨を吸い戻すみたいに形を変え、やがて、筆の流れそのままに、ひとつの文があらわれた。
「いちにち ひとりが みをとざす」
「え?」
蒼兄がこっちを見た。
それに釣られるように、咲も私を見つめる。
数え歌。
しかも、はじめの一句。
でも私が息を呑む間に、それはまたじわりと滲み、読む間もなく、線はくずれ、もとの濃い染みに戻ってしまった。
「……今、見えた……?」
私の問いに、蒼兄は眉間に皺を寄せ、ページをのぞきこむ。
「いや……ただの染みにしか見えないな」
「うちもやけど……」
咲が首をかしげる。
「見えたの、数え歌が、しみの中に……」
私が話している、そのとき――
キイッと音を立てて蔵の扉が閉まる。
「ちょ、ちょっとなんで?」
咲の声が裏返る。
焦ったように、咲は素早く扉に駆け寄った。
勢いよく取っ手に手をかけ、体ごと預けるようにして押すけれど、微動だにしない。
私と蒼兄も、咲のそばに足を運ぶ。
三人並んで、肩を押しつけるようにして力いっぱい扉を押すも——
重たい壁みたいに、びくともしない。
「……無理ですね」
扉から一歩離れ、蒼兄は息を整えている、
「ねえ? これって閉じ込められたってこと……?」
咲が、ふいに私のほうを向いた。
不安を隠そうとするみたいに、唇の端をぎこちなく持ち上げているけれど、目元は明らかに怯えていた。
「分かりません……」
蒼兄は腕組みをして、口を真一文字に結ぶ。
私は、視線だけを動かして蔵の中を見渡す。
天井に取りつけられた蛍光灯の白い光だけが、変わらず私たちの頭上を照らしていた。
「もう、おかあさん——っ!!」
ドンドンと扉を叩き、咲は叫んでいる。
すると、どこからともなく、しん、と湿った気配が蔵の中を包む。
ふっ——と、空気が冷えた。
夏の昼間のはずなのに、背筋を這うような寒さ。
咲が肩をすくめて言った。
「なにこれ、めっちゃ冷えへん……?」
私も、手を引っこめて腕を抱える。
肌の上を、冷たい指先が這うような感覚。
蒼兄も、無言で腕をさすっていた。
空気が、まるで霧雨に濡れたあとのように、じっとりと纏わりついてくる。
けれど、何一つ濡れていない。足元の板張りも、棚も、乾いたまま。
私たちは互いに黙ったまま、テーブルの周囲へと自然と集まっていく。
ただ、本の上にだけ、うっすらと湯気のような蒸気が立ちのぼっていた。
そこに、誰かの影のようなものが、いま立っていたかのように……。
——かたん。
背後で、何かが倒れる音がした。
咲が私の横で、片手をついていた。
「咲!?」
私が顔を覗きこむと、咲の目が、どこか遠くをさまよっていた。
焦点が合っていない。
——けれど、確かに何かを見つめている。
咲の瞳に映っているものは、私にも、蒼兄にも、見えなかった。
「……あかん。なんや……これ……」
低くうめくような咲の声。
私が肩に手を置くと、びくんと咲の体が揺れた。
「……知らん場所が、見えた……水の底から空が見えたみたいな……青いのに、重くて、……ぜんぶ遠かった……」
途切れ途切れの言葉の奥で、咲の顔色が、みるみるうちに青ざめていく。
呼吸は浅く、唇もうっすらと震えていた。
「……咲、しっかり!」
私は咲の手を握った。
けれど、その手は汗ばんでいて、どこか水の中に沈んだような冷たさがあった。
蒼兄が、もう一度、書物をのぞきこむ。
「……これは、いったいどういう事だ? 何かが起きてるいるんだ……」
そのとき。
私の指先に、ぴたりと冷たいものが触れた。
書物の端。
……濡れていないはずのそこに、ほんの一滴、水の感触があった。
その瞬間、視界が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬——
海か、湖のような広がり。陽を弾く水面。
その下に沈んでいく、細い手。
あれは何? なんで、あんな光景が——。
「澪……っ」
蒼兄の声が、すぐ近くで聞こえた。
「大丈夫。……ちょっと、ふらっとしただけ」
私は書物からそっと手を離した。
蔵の空気は、まだどこか冷たく湿っている。
けれど、さっきほどの鋭さはない。
咲も、少しずつ息を整えながら、私の方を見た。
「……あれ、なんやったんやろ……。空も、海も、青くて、綺麗やったのに……なんか……かなしかった……」
咲がぼそりとこぼす。
「何かの記録……じゃなくて、記憶、みたいな感じがした」
私は、ぽつりと口にした。
自分でも、何を言っているのか、よくわからなかった。
けれど、それは確かに“見た”というより、“触れた”という感覚もしれない。
「咲、大丈夫?」
「……うん、たぶん。……なんか、変な夢見たあとみたいやけど……」
眉をしかめながら、咲は胸元をおさえた。
「でもな……あれ、夢ちゃうと思う。……うち、水の底で、誰かとすれ違った気ぃする。目ぇ、合うてん」
「……誰?」
「わからん。顔は見えへんかった。でも、めっちゃ、さみしそうやった」
私は、もう一度、ページを見下ろす。
にじんだ文字は、今はただの染みになっている。
そこに、何も書かれてはいない。
けれど確かに、“いちにち ひとりが みをとざす” と、そう書かれていた。
「ふむ、揚羽踊りの数え歌と神隠し……何か関係が」
蒼兄が言葉を継いだその時——
足元に、ひた……ひた……と、水がどこからともなく染み出してきていた。
「蒼兄、水……」
私は息を呑み、思わずテーブルの上に飛び乗った。
「いやや、なんなん……」
咲も続いて跳ね上がる。
蒼兄も無言でテーブルに乗った。
「ふふふ、遊ぼうよ……」
男の子の声。
耳元ではっきりと聞こえた。
三人の視線が交錯する。
「なに?今の声?」
咲の瞳は、おろおろと大きく揺れている。
みんな——聞こえた。
私だけじゃない。
「フフフ、こっちにおいで」
蒼兄が私と咲を、強く、ぐっと腕の中に引き寄せた。
咲の足が、震えている。小刻みに。
水は、まるで生きもののように、じわじわとテーブルの縁まで迫っていた。
その時――
キイッと扉が開く音がした。
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