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水の声  作者: ぽんこつ
8/13

しみ

背の高い書棚の隙間から、蒼兄が取り出したのは、革表紙の厚い本だった。

蔵の中に保管されていた古い記録のひとつ。

文字の擦れた背表紙には、何かの年号と、墨で殴り書きされたような寺の名前。

どことなく、近づきがたい気配を纏っている。

「めっちゃ古そうやん……それ、開けるの?」

咲が少し腰を引きながら言うと、蒼兄はふっと笑って、机の上にそれを置いた。

「昔の地誌とか、言い伝えを書き留めた記録かもしれない。名前までは書いてないけど……この蔵にあったってことは、時村家に関係があるはずだよ」

私と咲は、並んで覗き込む。

蒼兄がゆっくりと表紙を開くと、乾いた紙の匂いがふわりと立ちのぼる。

そのときだった。

ページの中央あたり。

古びた筆書きの行の途中で、ひときわ濃い、インクがにじんだような部分が目にとまった。

……濡れてる? 

いや、さっきまでは何もなかった。触っても、指は乾いたまま。

なのに、そこだけが、ぽたり、と水を垂らした直後のようなにじみ方をしていた。

思わず手を伸ばしかけた瞬間——

「……あれ」

じわり、と文字が動いた。

にじみが、墨を吸い戻すみたいに形を変え、やがて、筆の流れそのままに、ひとつの文があらわれた。

「いちにち ひとりが みをとざす」

「え?」

蒼兄がこっちを見た。

それに釣られるように、咲も私を見つめる。

数え歌。

しかも、はじめの一句。

でも私が息を呑む間に、それはまたじわりと滲み、読む間もなく、線はくずれ、もとの濃い染みに戻ってしまった。

「……今、見えた……?」

私の問いに、蒼兄は眉間に皺を寄せ、ページをのぞきこむ。

「いや……ただの染みにしか見えないな」

「うちもやけど……」

咲が首をかしげる。

「見えたの、数え歌が、しみの中に……」

私が話している、そのとき――

キイッと音を立てて蔵の扉が閉まる。

「ちょ、ちょっとなんで?」

咲の声が裏返る。

焦ったように、咲は素早く扉に駆け寄った。

勢いよく取っ手に手をかけ、体ごと預けるようにして押すけれど、微動だにしない。

私と蒼兄も、咲のそばに足を運ぶ。

三人並んで、肩を押しつけるようにして力いっぱい扉を押すも——

重たい壁みたいに、びくともしない。

「……無理ですね」

扉から一歩離れ、蒼兄は息を整えている、

「ねえ? これって閉じ込められたってこと……?」

咲が、ふいに私のほうを向いた。

不安を隠そうとするみたいに、唇の端をぎこちなく持ち上げているけれど、目元は明らかに怯えていた。

「分かりません……」

蒼兄は腕組みをして、口を真一文字に結ぶ。

私は、視線だけを動かして蔵の中を見渡す。

天井に取りつけられた蛍光灯の白い光だけが、変わらず私たちの頭上を照らしていた。

「もう、おかあさん——っ!!」

ドンドンと扉を叩き、咲は叫んでいる。

すると、どこからともなく、しん、と湿った気配が蔵の中を包む。

ふっ——と、空気が冷えた。

夏の昼間のはずなのに、背筋を這うような寒さ。

咲が肩をすくめて言った。

「なにこれ、めっちゃ冷えへん……?」

私も、手を引っこめて腕を抱える。

肌の上を、冷たい指先が這うような感覚。

蒼兄も、無言で腕をさすっていた。

空気が、まるで霧雨に濡れたあとのように、じっとりと纏わりついてくる。

けれど、何一つ濡れていない。足元の板張りも、棚も、乾いたまま。

私たちは互いに黙ったまま、テーブルの周囲へと自然と集まっていく。

ただ、本の上にだけ、うっすらと湯気のような蒸気が立ちのぼっていた。

そこに、誰かの影のようなものが、いま立っていたかのように……。

——かたん。

背後で、何かが倒れる音がした。

咲が私の横で、片手をついていた。

「咲!?」

私が顔を覗きこむと、咲の目が、どこか遠くをさまよっていた。

焦点が合っていない。

——けれど、確かに何かを見つめている。

咲の瞳に映っているものは、私にも、蒼兄にも、見えなかった。

「……あかん。なんや……これ……」

低くうめくような咲の声。

私が肩に手を置くと、びくんと咲の体が揺れた。

「……知らん場所が、見えた……水の底から空が見えたみたいな……青いのに、重くて、……ぜんぶ遠かった……」

途切れ途切れの言葉の奥で、咲の顔色が、みるみるうちに青ざめていく。

呼吸は浅く、唇もうっすらと震えていた。

「……咲、しっかり!」

私は咲の手を握った。

けれど、その手は汗ばんでいて、どこか水の中に沈んだような冷たさがあった。

蒼兄が、もう一度、書物をのぞきこむ。

「……これは、いったいどういう事だ? 何かが起きてるいるんだ……」

そのとき。

私の指先に、ぴたりと冷たいものが触れた。

書物の端。

……濡れていないはずのそこに、ほんの一滴、水の感触があった。

その瞬間、視界が、わずかに揺れた。

ほんの一瞬——

海か、湖のような広がり。陽を弾く水面。

その下に沈んでいく、細い手。

あれは何? なんで、あんな光景が——。

「澪……っ」

蒼兄の声が、すぐ近くで聞こえた。

「大丈夫。……ちょっと、ふらっとしただけ」

私は書物からそっと手を離した。

蔵の空気は、まだどこか冷たく湿っている。

けれど、さっきほどの鋭さはない。

咲も、少しずつ息を整えながら、私の方を見た。

「……あれ、なんやったんやろ……。空も、海も、青くて、綺麗やったのに……なんか……かなしかった……」

咲がぼそりとこぼす。

「何かの記録……じゃなくて、記憶、みたいな感じがした」

私は、ぽつりと口にした。

自分でも、何を言っているのか、よくわからなかった。

けれど、それは確かに“見た”というより、“触れた”という感覚もしれない。

「咲、大丈夫?」

「……うん、たぶん。……なんか、変な夢見たあとみたいやけど……」

眉をしかめながら、咲は胸元をおさえた。

「でもな……あれ、夢ちゃうと思う。……うち、水の底で、誰かとすれ違った気ぃする。目ぇ、合うてん」

「……誰?」

「わからん。顔は見えへんかった。でも、めっちゃ、さみしそうやった」

私は、もう一度、ページを見下ろす。

にじんだ文字は、今はただの染みになっている。

そこに、何も書かれてはいない。

けれど確かに、“いちにち ひとりが みをとざす” と、そう書かれていた。

「ふむ、揚羽踊りの数え歌と神隠し……何か関係が」

蒼兄が言葉を継いだその時——

足元に、ひた……ひた……と、水がどこからともなく染み出してきていた。

「蒼兄、水……」

私は息を呑み、思わずテーブルの上に飛び乗った。

「いやや、なんなん……」

咲も続いて跳ね上がる。

蒼兄も無言でテーブルに乗った。

「ふふふ、遊ぼうよ……」

男の子の声。

耳元ではっきりと聞こえた。

三人の視線が交錯する。

「なに?今の声?」

咲の瞳は、おろおろと大きく揺れている。

みんな——聞こえた。

私だけじゃない。

「フフフ、こっちにおいで」

蒼兄が私と咲を、強く、ぐっと腕の中に引き寄せた。

咲の足が、震えている。小刻みに。

水は、まるで生きもののように、じわじわとテーブルの縁まで迫っていた。

その時――

キイッと扉が開く音がした。

お読み頂きありがとうございます_(._.)_。

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