にげみず
ぱしん、と頬に鋭い痛みが走った。
弾かれたようにまばたきする。
「あれ?」
空気がひやりと肌に触れる。
まるで水から顔を出した直後のようだった。
川のせせらぎの音に、ふたつの溜息が混じる。
「もう、どないしたん?ぽけーっとして」
「なんか魂がぬけたみたいだったぞ」
咲と蒼兄が、口々に呆れたように言う。
私は、あわてて視線を川面へ戻す。
水は光を織り込みながら流れている。
今は何も聞こえないし、何も見えない。
でも、背中には冷えた汗が張り付いている。
私は、そっと息を吐く、途端に体の力がふっと抜けていく。
「ああ……」
話し出そうにも、まとまらなくて声が詰まる。
「まあ、ぼちぼち帰ろう」
蒼兄の声に頷くと、岸へと足を向けた。
咲が、いつになく無言で私の手をギュッと握ってきた。
細い指なのに、意外と強い。
ゆっくりとした足取りで歩く度に、ポニーテールがリズムを取る。
蝉の声に煽られながら、時々吹く生ぬるい風が、陽射しと共に、水に濡れた服を乾かしてくれているようだった。
アスファルトの先に揺れる逃げ水を見ながら、私はぽつりぽつりとさっきの出来事を話し出した。
「え?それって」
「ははぁ、幽霊の類ですか」
ここにいたっても、蒼兄はブレない。動揺もなく、相変わらずの調子で。
「じゃあ、美那はもう……」
繋いでいた咲の手から、力がふっと抜けていく。
私はどう返せばいいのか分からず、ただ唇を閉じたままでいた。
「澪は三人の声を聞いたんだよな。女性二人と、男性……いや、少年か」
黙って頷くと、蒼兄は優しく私の肩に手を置いた。
「まあ、怖かったろ」
そして爽やかにほほ笑む。
でも、気持ちどこか楽しそうにも見える。
「なあ、じいちゃんか、ばあちゃんなら何か知ってるんちゃう?」
咲が驚いた鳥のようにスッと首を伸ばす。
「うん、そうだね、でも咲、忘れているようだね?」
「あちゃー、旅行行ってしもうた……」
亟んと、うなだれた咲の足音まで、パタッ、パタッ、とがっかりしているようだ。
「そうなの?」
「今日からや、三泊四日で古都巡りやって言うてたわ」
「孤島?」
蒼兄は失笑している。
咲は両手を顔の前でひらひら振って吹き出した。
「ちゃうちゃう、古都。古い都やって、奈良県やって、何がおもろいんやろか」
私はうんうんと頷く。
「手がかりは潰えましたか」
言葉とは裏腹に、なぜか残念そうに見えない蒼兄。
「蒼兄、楽しんでる?」
「ん?いや、楽しんではいないけど、面白くはある」
一瞬、眉を上げて、蒼兄は目尻に皺をよせる。
「蒼兄。それよくないんちゃうん」
咲は小さく口をとがらせて、両手をうちわ代わりにヒラヒラさせている。
「ああ、言い方が悪かったか」
照れ隠しなのか、蒼兄は後頭部を掻いた。
「僕たちには二つ道がある。一つは我が家の蔵。ここには古くから伝わる文書みたいなものもある。もしかしたら、その中に神隠しに関する記述があるかもしれない」
私と咲は顔を見合わせ、揃って頷いた。
蒼兄は自信満々に、顔の前にピンと人差し指を立てる。
「もう一つは、図書館。都会の大きなところほど蔵書はないけど、地域の書物は、都会よりも地元の方が多いと耳にしたことがある」
「なるほど」
私と咲の声が、息を合わせたように重なる。
ちょうどそのとき。
道路沿いの公民館から、子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。
「いちにち ひとりが みをとざす
ににんで うたえば こゑがよぶ
さんどのよるには……」
ガラス戸の向こうでは、お面をつけた浴衣姿の子供たちが、揚羽踊りの練習をしていた。
「ああ、もうそんな時期やんな」
「もう、咲は踊らないの?」
「ああ、一応15歳までは踊れるんやけど、今年は止めたん」
「どして?」
私が顔を覗き込と、咲は苦笑いをするだけ。
「澪、それはね」
「もう、いらんこと言わんでええ」
咲が、むっとした顔で蒼兄を睨む。
「いいじゃないか別に。15歳で参加したの咲だけだったんだ。しかも他の子たちはみんな12歳以下だったから辞退したんだ。勿体ないよな、5歳から連続出場で、晴れて皆勤賞だったのに」
「もうええって」
ぷいとそっぽを向く咲の横顔が、ほんの少しだけ赤くなっていた。
「そんなの気にするんだ?」
「意外だろ、澪」
「もうなんやねん、ちぇっ」
咲はぷくっと頬をふくらませた。
その姿に、思わず笑いそうになる。
気づけば、上着も髪も、お日さまの栄養をたっぷり吸い込んで、さらさらに乾いていた。
それに代わって、体のあちこちから汗がふきでている。
家の前に陽炎が水たまりのように広がっていた。
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