たゆたう
布団の中で目を閉じても、さっきのお風呂で聞いた「声」が頭から離れなかった。
湯気の向こうから届いたような、か細い少女の声。
耳を澄ませても、聞こえるのはただの静けさ――それだけのはずなのに。
『……助けて』
その言葉が、水音のように、何度も、何度も、心の奥に染み込んでくる。
遠ざかったはずの感覚が、また静かに這い寄ってくる。
『……聞こえてるの?』
その問いかけは、間違いなく――私に向かっていた。
もう、考えたくない。
息を深く吸い、吐きながら、ばさりと布団を頭までかぶった。
「……どうしたん? 澪?」
咲の声が、くぐもって布団越しに届く。
その声音には、からかいの気配がなかった。
私は布団の端を少しだけめくり、顔を出す。
保安灯のほのかな明かりの中、すぐ目の前に咲の顔があって、思わずドキッとした。
咲は布団に肘をついてこちらを覗き込んでいた。
首をかしげた拍子に、短い髪が頬にふわりとかかる。
「なんか……お風呂上がってから、ずっと変やったんちゃう?」
いつものいたずらっぽさは控えめで、その瞳はまっすぐに私を見つめていた。
「最近、変質者が多いみたいなんよ。おまわりさんも巡回してくれてるんやけど……そりゃ、怖かったよな」
「ああ、うん……」
咲の言葉にうなずきながら、ふと、あの曇りガラス越しの人影を思い出す。
怖くて気づかないふりをしていたけど――あれは、確かに“誰か”だった気がする。
でも、あの“声”の不思議さと恐怖に気を取られて、忘れていた。
声も怖かったけど、もっと現実的な“気配”のほうが、何倍も怖いのかもしれない。
「……ねえ。昼間言ってた、クラスの女の子がいなくなったって話だけど」
「……ああ、あれな」
咲は、布団をぱふんと押しのけて、ちょこんと正座する。
私はゆっくり体を起こして、咲の正面にペタンと座った。
保安灯の淡い橙色の光が、咲の髪と影の輪郭をやさしく縁取っている。
咲はひとつ大きく息を吐き、少しだけ目を伏せながら語り始めた。
「いなくなったんは……林美那って子。うちのクラスの子で、陸上部入っとったんや。スラッとしてて、肌もよぉ焼けてて、ちょっと爽やか系な感じ。……まあかわいかったし、男子からは人気あったで」
少し軽く言いながらも、咲の声音にはどこか迷いがにじんでいた。
それが――今年の五月。
課外授業で訪れた「星見城跡」で、忽然と姿を消したという。
先生たちが慌てて捜し始め、すぐに警察や消防も動員されて、大規模な捜索が行われた。
それでも、美那は見つからなかった。
「可愛い子やったし、最初は誘拐ちゃうかって噂もあった。でもな……」
咲は視線をわずかに落とす。
「その頃から、不審者の話がぽつぽつ出始めてて。誰が見たってわけやないけど、なんとなく気味悪い話があってん」
私は、両腕で自分の体をぎゅっと抱きしめた。
さっきまで火照っていたはずの体が、内側から冷え始めている気がした。
「でな。……そのとき、うち、先生からちょっとだけ聞いたんよ。十五年前にも、行方不明になった子がおったんやって。場所はちゃうけど」
「……十五年前?」
「うん。『蛙が池』ってとこやって。あそこも……おじゅっさんが言うとったやろ、神隠しの場所やって」
私はぞくっとして、腕をさすった。
――昼間、墓地で見た女の子。
顔はよく見えなかったけど、日焼けした肌に肩先までの髪。
チェックのスカート、紺のブレザー。
あれは……あれが、美那だったのかもしれない。
「ねえ……その、美那って子の写真って、ある?」
「え?なんやの、いきなり」
「いいから……あるの? ないの?」
私の声は、少し焦っていたと思う。
咲はきょとんとした顔をして、それから「ちょっと待ってな」と枕元に手を伸ばす。
手探りでスマホを探し当てて、ロックを外す指先が、ゆっくりと動いた。
画面が灯ると、咲の顔がその淡い光に照らされる。
見慣れている咲の顔が、そのときはほんの少しだけ、知らない誰かみたい――不気味に見えた。
「あー、これやな」
咲がスマホを私の前に差し出した。
私は画面をそっと受け取って、じっと目を凝らす。
そこに写っていたのは、制服姿の女の子が三人。
肩を寄せ合い、楽しげにピースをしていた。
あの子と――同じ制服。
一人は咲。
もう一人は、腰あたりまで伸びた長い髪の子。
そして、真ん中で笑っている女の子――
似てる。
目鼻立ちが整っていて、ほんのり日焼けした肌。
お墓で見た、あの子の輪郭と重なった。
スマホを持つ手が、かすかに震える。
え? 本当にこの子なの?
でも、もしあの子が“幽霊”だったとしたら――この子、もう……。
『助けて』『聞こえてるの』
あの声は、いったい何だったの?
「ねえ、咲……ちょっと、聞いてほしいことがあるの」
スマホをそっと咲に返しながら、私は浴室での出来事を、できる限り丁寧に話した。
言葉を探しながら、それでも途中で投げ出さずに。
咲は、一言も遮らず、じっと聞いてくれていた。
「うん……」「うん……」と、時折小さくうなずきながら。
「……そしたらさ、明日、おじゅっさんのとこ行ってみよ?」
「おじゅっさんに……聞くの?」
「うん。たぶん、この村でいちばん色々知ってると思うんよ。昔のこととか、変な話とかも」
確かに。
おじゅっさんは、昔からそういう不思議な話に詳しかった。
小さいころも、よく境内で会えば、お経よりも長い昔話を聞かせてくれたっけ。
「そっか……じゃあ、蒼兄にも言っといたほうがいいのかな」
つぶやくようにそう言うと、咲は腕を組み、真顔で首を左右に倒して考え始めた。
「蒼兄か……まあ、男子一人くらいおったほうがええかもな」
納得したように一人でうんうんと頷いている咲を見て、私は首をかしげた。
「?」
「ほら、うちらかわいいやんか。もし不審者に目ぇつけられても、蒼兄がいれば盾にして逃げられるやん」
咲は両手をほっぺに当て、まるでドラマのヒロインみたいな顔でにっこり笑う。
その顔があまりに咲らしくて、思わず吹き出してしまった。
「……なるほどね」
蒼兄を“盾”にするなんて、咲らしい発想だ。
でも、さっきのお風呂のことを思えば、不審者の存在は、実際に怖い。
「じゃあ、明日、朝起きたら行ってみよ」
「ありがと、咲」
私は、ほっぺの横でピースを作って笑ってみせた。
咲もすぐに、それを真似て同じポーズを返してくれる。
その仕草が、妙に可笑しくて、少しだけ気が楽になった。
私はそのまま、そっと布団に潜り込み、まぶたを閉じた。
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