氷解
『サンセットホテル夕凪』は、島の中央を貫く寒霞渓への道から少し外れた、緩やかな斜面に寄り添うように建っていた。
結局、少しだけ、おしゃれしようと頑張った。
咲はトレードマークのポニーテールはそのままに、コーラルピンクのフレンチスリーブに薄いブルーデニムのサロペットショートパンツという、陽射しに映える装い。
足元の厚底サンダルが、歩くたび軽やかに音を立てる。
私はオフホワイトのサマーカーディガンに、淡いラベンダーのキャミソールを重ね、膝下丈のネイビーのフレアスカート。
白いローカットスニーカーで足元をまとめ、小さなパールのヘアピンで髪を留めてきた。
口元はお揃いの、シアーなコーラルオレンジのリップをほんのりと差し、ちょっとだけ大人びた気分で。
バスの時間の関係で、待ち合わせの15分前に着いてしまった。
私は咲と手を繋いで、きょろきょろそわそわしながら、エントランスの大きなガラス張りのドアを抜けていく。
冷房の澄んだ空気とほのかなフローラルの香りが肌に触れた。
「いらっしゃいませ」
制服姿のスタッフが丁寧にお辞儀をしてくれた。
二人で小さく頭を下げて通り過ぎる。
眩しいくらいの笑顔が返ってきた。
「なんか、すごいね」
「うん」
天井が高く壁も白いせいかとても広く感じる。
大きな全面ガラスの窓の一角から差し込む陽射しが床の白いタイルを柔らかく照らし、ロビーの中は一層明るく見える。
そこからは青く霞んだ瀬戸内海と点々と浮かぶ島々、そして斜面に広がる木々の緑が一望できた。
「うわ、きれい!」
「ほんまやな」
数段の階段を下りて、咲と窓際まで近づく。
ガラスに映る自分たちの色――コーラルとラベンダー――
その向こうに、空の青と海の青、山や島の青々とした、目に優しい景色が見渡す限り広がっている。
「なんか地球って広いんだね」
「へ?」
「ん?」
顔をしかめる咲と目が合うと、クスクスと肩を揺らせて笑う。
「なあなあ、この辺でもすわっとこ」
咲に言われるまま、すぐ傍のテーブル席に腰を掛ける。
一人掛けのソファは柔らかくて、お尻が沈む。
すぐに三宅さんは現れた。
「お待たせしちゃいました?」
そう微笑みながらソファに腰を下ろした。
「何か飲みますか?何ならケーキでもどうです?チーズケーキ美味しいですよ」
三宅さんは私と咲の顔を交互に見比べる。
「あ、大丈夫です」
私は小さく手を振りながら断った。
そんなにお金を持ち合わせてないから。
「なあなあ、せっかくだから食べよう」
キラキラとした瞳で咲が訴えかけてくる。
私は目を伏せてサインを送るも、咲の目は一向にまぶしいまま。
「いいですよ、ご馳走しますから」
両手を合わせて微笑む三宅さん。
「ほんまに」
ぴょんと体を浮かせて、咲は手を胸の前で合わせた。
「もう、咲……」
「大丈夫、遠慮しないで、僕も食べたかったから」
「はあ……」
咲はルンルンで体を揺すっている。
なんかそんな風に人の好意を素直に受け取れる咲が少しだけ羨ましく思えた。
三宅さんは、慣れた感じで手早くオーダーを済ませると、目線を合わせるように少し屈んだ。
「で、揚羽踊りについて、でしたね?」
「はい、なんで揚羽踊りというのか、それから、いつごろからあるのか?」
小さく頷きながら、三宅さんは私の口元をじっと見つめ話を聞いてくれた。
「じゃあ、まず。メモか録音をしますか?」
その声に咲がスマホを取り出して、ちょちょっと操作すると、そっとテーブルの上に置いた。
ニコッと三宅さんと私を交互に見た。
「では、揚羽踊りの由来は平安時代後期、正確には鎌倉時代初期に始まったとされています。あなた方の祖先である、温御前、砂振姫が伝えたという事です」
「踊りの形態自体は、時代により変遷があったようですが、現在の形の踊りは江戸時代後期から続くもののようです」
滑らかで、リズムのある口調。
時々口元に笑みを浮かべながら、三宅さんは楽しそうに喋る。
「そもそもは、平家の鎮魂の踊りのようだったみたいです。現に初期の頃は屋島の戦いがあった2月に催されていたのが、五穀豊穣や庶民の娯楽の一環として夏に行われるようになりました」
三宅さんの声は耳心地がよくて、聞き入ってしまう。
そこまで三宅さんが話した時に、オレンジジュースとチーズケーキが運ばれてきた。
「いただきます」
咲と声を重ねながらフォークを手に取った。
口に運んだ途端、柔らかな食感と濃厚なチーズの香りが口の中に広がる。
「おいしい!」
思わず声を出してしまう。
「めっちゃ、おいしい」
咲は既に二口目をフォークに刺していた。
「そうでしょ」
三宅さんが私と咲を交互に見ながら微笑んだ。
その笑顔は端正な顔だちとは違う人懐っこさが溢れている。
「それでは、もう一つお尋ねの、揚羽踊りの名の由来ですが、これは家紋です」
カモン?
蝶を呼ぶの?
「来るってこと……?」
私が首を傾げると、三宅さんは目が点になって、少しして優しく目尻を下げる。
「澪、家紋。ほら、うちの家の門にも飾ってあるやろ」
「ああ……」
恥ずかしさを誤魔化すために、私は汗をかいたグラスを手に取った。
三宅さんも咲も同じようにストローに口をつけてくれる。
オレンジジュースの爽やかな甘さと、ちょっぴりの酸っぱさを味わいながら、そっとグラスを置いた。
「平家の家紋が揚羽蝶なんです」
「あ、でも、咲の家の家紋は揚羽蝶じゃないよね」
咲を見ると幸せそうにチーズケーキを頬張っている。
「おそらく、揚羽蝶の紋を使うのを憚ってのことでしょう。咲さんのお兄さん……」
咲は突然名前を呼ばれ、ジュースを口に付けながら肩がビクンと跳ねた。
「蒼さんの話によると、現在の藤の家紋にしたのは明治の頃のようです。温御前の実家が藤原氏だったという事が理由で、それまでは、鷹の羽紋を使用していたみたいですよ」
「三宅さんは詳しいんですね」
「まあ、仕事柄ですかね、でも今説明した揚羽踊りに関しては、昨日取材したこちらの郷土史家の畑正信先生からの受け売りです」
さらりと自慢するでもなく言ってのけた。
「お役に立てたでしょうか?」
咲が私の袖口を引っ張る。
「ん?」
「あのことも聞いてみたら?」
「あのこと?」
「もう……三宅さん、神隠しって知ってる?この島にもあるんやけど」
ああ、その事か……
「神隠し自体は全国各地に伝説や伝承ありますよ。それがなにか?」
「あんな、うちのクラスの子が今年の五月に神隠しにあってんな」
「ほう……」
三宅さんの目が一瞬だけキラッと光りを帯びたような気がした。
私はその瞳を見つめながら、ケーキの最後のひと切れを口に運んだ。
「その、本当に神隠しってあるんやろか?」
「んーどうでしょう。実際に行方不明になった人が、いるというのは少なからず興味を惹かれますが」
三宅さんは少し身を乗り出した。
「その、失踪したクラスメートの方は実際どこで……」
咲は三宅さんに事の経緯を説明する。
自分の話を聞いてる時と同じように、三宅さんは咲の口元をみつめ、ふんふん、それからと咲が話し易いように相槌を打ちながら耳を傾けていた。
「なるほど……言葉は悪いですけど面白そうだ。僕も調べてみましょう」
「え?」
「ああ、気を悪くされたらごめんなさい。興味が湧きまして」
「はあ」
「まあ、仕事にもなりますから、なんなら記事にしてもいいと思います」
「記事に?」
「ええ、そういう都市伝説って言ったら失礼ですね、超常現象的なことを本にしてる出版社がありますから、もしかしたらそれで捜索に追い風になるかもしれない」
「追い風?」
「きっと警察は事件性がないと本格的な調査はしないですからね、記事がきっかけになって読者の目に留まって注目されれば……」
「へえー」
目をまん丸くして、咲はポカーンと口を開けたまま。
大人の人はすごいな、私なんか思いつかない事を考えてる。
「まあ、とにかく僕の方でも調べてみます」
「あの……」
私は思い切って自分達が体験したことを話してみることにした。
さすがの三宅さんも驚きが隠せないようで、今までの穏やかな表情とは違って、眉間に皺を寄せていた。
話しを聞き終わると、大きくため息をついた三宅さんはソファに体を鎮めた。
あ、そうだ、あのことも聞いてみよう。
カラン。
グラスの中の氷が光を弾いて揺れた。
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