水脈
階段を駆け下りたところで、蒼兄がふと顔を上げ、頬を真っ赤にして固まっている。
「蒼兄、さっきの人は?」
息を切らせた私の声に、蒼兄は視線を逸らして、落ち着かない手つきで目を泳がせる。
「あ、あー、帰ったよ」
「え?もう帰ったん?」
私の後ろから肩越しに頭を出した咲。
「ああ、簡単にこの時村家の説明をして、あとは資料を借りたいって」
「なーんだ」
私はがっくりと肩を落とす。
「なんだ?」
まだ顔の赤い蒼兄は、ちらちらと私を見る。
なんだろう?
「ああ、聞いてみたいことがあったんよ」
「ふむ。じゃあ連絡してみたら」
蒼兄はポケットから名刺を取り出した。
「ナイスやな蒼兄」
咲はサッと蒼兄の手から名刺を取り上げると、私の手を引いて仏壇のある大きな居間へと引っ張り込んだ。
「なあなあ、かけてみよ」
名刺を顔の横でひらりと振る咲。
私は一瞬ためらってから頷く。
「私がかけるの?」
「うちより、澪のが知りたそうやんか」
確かに、揚羽踊りや、神隠しの場所のことは気になる。
立て続けにあんな奇妙なことが起こればなおさら。
咲はさっきまでの怯えた様子はどこ吹く風といった様子。
「……分かったよ」
少し口を尖らせて、私は咲から名刺を貰い受けると、その場に膝を立てて座った。
咲は私の隣にちょこんと腰を下ろし、私の腕を取る。
何が嬉しいのか、ニコニコしながらまじまじと覗き込んでくる。
名刺に印刷されている電話番号を打ち込んで、通話をタップする。
プルル……プルル……
「はい、三宅です」
高く透き通る、耳障りのいい声。
「あの……」
「ただいま、電話に出ることができないため、お急ぎであればメッセージを残してください……」
「あちゃー」
なんだかんだ、咲のが残念そうな気がする。
私は声を平静に整えて録音メッセージを残した。
「あの、時村の家でお会いした白沢澪です。お聞きしたいことがあるので、折り返し電話もらえますか」
通話を切ると、力が抜けて大きな欠伸が出た。
「なんや、やっぱりあんま寝れんかった?」
「そうかも……」
私は正直に答えた。
眠りは浅い。
頭の中で、昨日と今日のことが小さな輪になって回っていた。
私は畳の上にごろんと寝そべる。
息を吸い込んだら、イグサの匂いが鼻の奥をくすぐった。
それが、妙に子供の頃の記憶を呼び覚ます。
ざらざらとつるつるが混ざった感触が手から伝わる。
窓越しに差す陽射しが、床に障子の淡い格子を描き、部屋の空気はほんのりと温かい。
ぽたっ――。
障子の奥で、何かが落ちたような気がした。
「こんなとこで寝たら風邪ひくよ」
咲が心配そうに私を覗き込む。
その前髪が私の鼻先にかかってくすぐったい。
「寝ないけど」
私はくすりと笑う。
「小さい頃はよくここでお昼寝したな、一緒に」
「うん、そうだね」
咲がぽん、と私の肩を軽く叩いた瞬間、畳の上に置いたスマホが小さく震えた。
画面に浮かぶ「三宅」の文字。
咲が目を丸くし、私より先に手を伸ばしかけて、あわてて引っ込める。
「ほらほら、澪、早よ出ぇ」
催促されて、私は一呼吸置いて画面をタップする。
通話がつながると、先ほどと同じ、高く優しい声が耳に落ちてきた。
「白沢さん? 先ほどはすみません、急ぎで戻らなければならなくて」
背筋が自然と伸びる。
「いえ……あの、少しお聞きしたいことがあって」
私の横で咲は膝を抱えて、興味津々に耳を傾けている。
蒼兄は廊下の向こうからこちらを覗き、何やら探るような眼差しを向けていた。
障子の外から入り込む夏の匂いと、風鈴のかすかな音が、妙に遠くで響いていた。
「なんでしょう?」
「あ、その電話じゃ説明しづらいので、出来ればお会いしてお話を聞きたいんです。揚羽踊りのことなんですけど」
「ああ、揚羽踊りの……分かりました。ただ、原稿を仕上げないといけないので、外には出られないんです」
「はい」
「お急ぎですか?」
隣で咲はうんうんと頷いている。
「……できれば」
「そうですか……僕は『サンセットホテル夕凪』に泊まっているんですけど、こちらまで、お越しいただけますか?」
咲はまた、うんうんと頷いている。
「はい」
「そこのロビーで、14時にいかがでしょうか?」
咲が、私の肩をちょん叩く。
顔の前に両手でオーケーマークを作っている。
「……はい、わかりました、お願いします」
「じゃあ、のちほど、失礼します」
「はい、失礼します」
通話を終えて、
「はあっー」
と長い息をはいた。
「14時やったら、13時過ぎのバスで行けるな」
嬉しそうな咲は肩を揺らしてそわそわしている。
「バスなの?」
「さすがにチャリは無理やな、丘の上にあるホテルやもん」
「ふーん」
夕凪島は観光地でホテルが幾つかあるみたいだけど、この家にしか泊まったことがないから、さっぱり分からない。
「なあなあ、ちょっとさ、おしゃれして行こ」
私の腕を取り、揺すりながら咲は左右に首を傾げる。
「咲のが、三宅さんに会いたかったんじゃない?」
「ん?そんなことないよ、うちは澪の付き添いだから」
何でと言わんばかりに、咲は眉を上げる。
「じゃあ、僕も行こう」
柱に寄りかかっていた、蒼兄が声を挟む。
「蒼兄はやることあるんやろ」
「あ、まあ、確かに……でも」
蒼兄の視線は優しく私を捉えていた。
興味と私への心配かな。
きっと、一緒に行きたかったのだろう。
「うちがおるから任しとき」
胸に手を当てながら、咲は大きく頷く。
「どれだけ、私って駄目な感じなの?」
少し拗ねて見せる。
なんか心配されてるのか、それとも一人じゃ危なっかしいと思われてるのか。
「そういうんちゃうって」
パンと咲は私の二の腕を叩いた。
「もう!」
私も負けじとやり返す。
ぽたっ――。
何かが、そう、水が落ちるような音。
障子の向こうに、ぼんやりとした小さな人影が、浮かんで消えた。
ほんの僅かな時間だったから、幻のように思えたけど。
もうこの時から―――
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