第2章:立花慎吾という人物
彼を知る者の多くが、同じような言葉を口にする。
「とにかく、静かな人でした。言葉を選ぶというより、“海の中”でしか生きていないような感覚でした」
これは、かつて立花と共に海中撮影に携わっていたスタッフ、井口春美の言葉である。
本章では、立花慎吾という人物がどのような思想と感性をもって「深度35M」という謎めいた地点に魅入られていったのかを、彼の過去の足取りと周囲の証言から辿る。
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1.経歴とプロフィール
•氏名:立花慎吾
•生年月日:1989年10月12日
•出身地:神奈川県横須賀市
•経歴:高校卒業後、陸上自衛隊に入隊。機動水中部隊に在籍した後、30歳で除隊。その後、海洋撮影・自然映像を専門とする制作会社へ就職。以降、独立してフリーの水中カメラマンとして活動。
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自衛隊時代、立花は“冷静すぎる男”と呼ばれていた。爆発音の中でも呼吸が乱れない、任務中に水深40mでも心拍数が平常値に保たれている。まるで水の中の方が呼吸しやすいかのように。
その頃から、彼の手帳にはしばしばこう記されている:
「陸は騒がしい。音が多すぎる。
深く潜るほど、世界は整然とする。」
彼は静けさを愛していた。あるいは、静けさにしか耐えられなかったのかもしれない。
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2. 消えた取材ノート
立花が最後に携帯していたノートは発見されていない。しかし、自宅の書斎には過去20年間にわたるダイビングの記録ノートが丁寧に保存されていた。
興味深いのは、それらのノートの背表紙すべてに共通してある数字が記されていたことだ。
「35」
最初期の記録には“35分”という記載。後には“水温35度”、“深度35m”、“35秒間の静寂”など、意味の異なる「35」という数字が繰り返し登場していた。
妹の立花由梨はこう語る。
「兄は昔から、“35って数字は境界線だ”って言ってたんです。
夢の中でも、その数字が出てくるって」
「小さい頃、兄が溺れかけたことがあるんです。
目を開けたまま沈んでて、後で『怖くなかった』って言ってました。
“むしろ、帰ってきた感じだった”って。」
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3. 海と孤独
大学に進学せず、自衛隊の特殊潜水部隊に志願した立花は、ある種の強迫的な静寂志を持っていたとされている。
自衛隊退役後、彼が語ったとされるインタビュー(2020年/某映像業界誌)では、以下のような発言が残されている。
「陸に戻ってきたくないんです。
陸っていうのは、過去が溜まる場所。
海の中には、過去がない。声も匂いも消える。
あそこには、人間じゃない何かの呼吸が感じられる。」
この発言は、当時の編集者が「哲学的で不可解だ」として掲載を見送ったと記録されている。
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4. 立花慎吾の“最後の作品”
失踪の直前、彼はあるYouTubeチャンネル用に映像を準備していた。タイトルは未定のままだったが、編集PCに残されたデータファイルには、次のような仮題が保存されていた。
『境界水域』
このファイルには、奇妙な素材がいくつか含まれていた。
それは、海中で録音された“連続するノック音”。ノイズ交じりの女性の声。白い手が一瞬だけ画面の隅に映る静止画。
この映像は公開されることはなかった。だが、この仮編集ファイルの最終保存日時は――2023年8月12日 午前5時16分。
つまり、彼が海へ向かうわずか5時間前だった。
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5. 関係者の証言
●元同僚・井口春美:
「彼って、ずっと“帰り道を探してる人”みたいだったんです。
たまにぼーっとして、海を見てる時間が異様に長くて。
なんというか誰かに呼ばれてる感じがあった。」
●大学時代の後輩(匿名希望):
「立花さん、変なこと言ってました。
“深海には、鏡みたいな場所がある”って。こっちを見てくるものがいるって……
その時、笑いながら言ってましたけど、目だけ笑ってなかった。」
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6. 手帳最後のメモ
立花の自宅から見つかった手帳の最後のページには、走り書きで以下の言葉が残されていた。
「35mで、ノックしてくる。
返さなければならない。
……この音は、どこまで届くだろうか。」
誰に宛てた言葉なのかは不明である。
だが彼は、その場所へ“答え”を届けに行ったのだと、思えてならない。
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