第8話 静かなる備え
「じゃ、行こっか!」
ミラが軽やかに立ち上がり、小さな袋を肩にかける。
俺も腰を上げて、後を追った。
宿を出ると、村は、夜の気配をまといながらも、どこか賑やかな空気を残していた。
空には、見たこともない、透き通った青い月が浮かんでいる。
月光に照らされた家々の窓からは、暖かな灯りがこぼれ、人々の話し声や笑い声が、あちこちから微かに響いてきた。
これから夜が本格的に始まる──
そんな、どこか高揚感を孕んだ空気だった。
焚き火の煙が夜風に乗り、土と薪の香りが鼻をくすぐる。
広場では、先ほどまでいた子供たちの姿はなく、替わりに酒瓶を手にした大人たちがぽつぽつと集まり始めている。
夜が訪れ、村は新しい顔を見せようとしていた。
俺たちは、そんな村の賑わいの中を抜け、村長の家へと向かって歩き出した。
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ミラが立ち止まったのは、村の一角にある、大きな木造りの家の前だった。
他の家に比べ、しっかりとした作りで、入り口には、小さな金属製のプレートが掲げられている。
──村長宅。
ミラが扉をノックすると、すぐに、きちんとした身なりの若い女性が顔を出した。
白いエプロンをつけた、身の回りの世話をしているらしいメイドだ。
「あら、ミラさん。おかえりなさいませ」
にこやかに頭を下げた彼女は、俺にも軽く会釈をしてから、扉を開けてくれた。
「皆さま、奥でお待ちです」
俺たちは、促されるまま中へ入る。
屋内は、外観よりもさらに丁寧に整えられていた。
壁には、古びた地図や、狩猟用の槍が整然と飾られ、部屋の中央には大きなテーブルが据えられている。
その周囲には、村長と思われる年配の男と、屈強な体つきをした数人の男たちが座っていた。
おそらく、村の有力者たちだろう。
ミラが一礼すると、村長がゆっくりと席を立ち、こちらに向かって歩み寄ってきた。
白髪混じりの髪、深い皺。
だが、背筋はぴんと伸び、目には強い意志が宿っている。
「おお、ミラか。早かったな」
「うん!調査終わったから、報告に来たんだ!」
ミラが元気よく答える。
村長は、ふと俺に視線を向けた。
「……そちらは?」
「あ、今日ちょっとした縁で……アシュトっていうの。しばらく村に滞在する予定だから、よろしくね!」
俺も、軽く頭を下げた。
村長は一瞬だけ考えるように俺を見たが、
すぐに、「ミラが連れてきたなら、信用できるだろう」と、穏やかに笑った。
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俺たちはテーブルに案内される。
すでに用意されていた地図と紙資料が広げられており、ミラも手元の紙を取り出す。
そこには、簡単な地図と、マナの流れを示したであろう印が記されていた。
一瞬、場の空気が引き締まる。
この村にとって、ミラの報告は、それだけ大切なものなのだと伝わってきた。
ミラが、広げた地図の上を指でなぞりながら説明する。
「全体的には安定してるけど──南の森のあたり、少しだけマナの流れが乱れてた」
ミラの指し示す先は、まさに俺たちが通ってきた方角だった。
「今すぐ境界が広がったりする心配はないと思うけど、注意はしておいたほうがいいかも」
村長は、深く頷いた。
「……やっぱり、か」
「やっぱり?」
ミラが問いかけると、村長は少し渋い顔をして言った。
「最近、南の森の方で、魔物を見かけたって噂があってな。昼間にも……だ」
ミラと顔を見合わせる。
──シャドウハウンド。
昼間に出現するのは異常だ、とミラも言っていた。
(南の森って──あの神殿跡のある場所か。)
胸の奥に、微かなざわめきが広がる。
「すぐにどうこうってわけじゃないが、備えはしておいたほうがいいだろうな」
村長が、しわの深い手で顎をなでる。
「ギルドに正式に調査を依頼するか、本格的に考えないといかんな」
「はい、私からも報告は上げておきます!」
ミラがきっぱりと頷いた。
村にとって、 マナの異変や魔物の出現は、決して軽い問題ではないに違いない。
ナビゲーター──
ただ道を知っているだけじゃない。
世界の均衡を、少しでも支える存在。
ほんの少しだけ、この世界に対する尊敬のようなものが胸に湧いた。
そのとき、テーブルの端に座っていた、肩幅の広い壮年の男が声を発した。
「夜中の見張り、増やしたほうがいいかもしれませんな。あの辺りの林道は見通しが悪いですし、何かあったときに備えておいたほうが安心です」
「そうだな」
別の男も頷く。
「昼に魔物が動くなら、夜はなおさら警戒したほうがいい。……夜の方が、奴らの気配に気づきにくいこともある」
村長は周囲の意見に耳を傾けながら、しばらく考え込むように顎をさすり、それから小さく頷いた。
「今夜から交代で見張りを強化しよう。……万が一に備えてな」
交わされる視線の端に、不安と焦燥がかすかににじむ。
短いやり取りの中に、村人たちの、静かな緊張感がにじんでいた。
ふと、俺は思い出したように口を開いた。
「そういえば──」
「ん?」
村長がこちらを見る。
「南の森の奥に、古い神殿みたいな遺跡があったんですが……あれって、何か知ってますか?」
軽い調子で聞いたつもりだったが──
村長たちは顔を見合わせた。
そして、村長が首を横に振る。
「……神殿、か。この辺りには、そんなもんがあるなんて聞いたことがないな」
他の男たちも、首を振ったり、
「そんな場所、知らねぇな」と口々に言う。
本当に知らないのか。
それとも──
知らされていないだけか。
どちらにせよ、これ以上突っ込むべきじゃない空気を感じた。
俺は、それ以上は何も言わなかった。
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「ありがとうな、ミラ。それにアシュト君も」
村長が、柔らかな笑顔を向ける。
その眼差しに、どこか安心と信頼のような色が浮かんでいた。
「いや、俺は……」
どう返せばいいか迷っていると、
「この人、けっこう頼りになるのよ。ふふっ」
ミラが茶目っ気たっぷりに笑って、言葉を挟んだ。
思わず口元がゆるむ。
──こういう場面は、苦手だ。
けれど、不思議と肩の力が抜けていた。
苦笑しながら、俺も静かに頭を下げた。
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村長宅を後にすると、すっかり夜の帳が降りていた。
夜風がひんやりと頬を撫で、空を見上げれば、青白く輝く月が静かに村を照らしている。
家々の灯りと笑い声があちこちからにじみ出し、賑わいはまだ消えていなかった。
「ふぅ……よし、次はアレだね」
ミラが、軽く手を叩いて振り返る。
その声には、さっきまでの張りつめた空気を切り替えるような明るさがあった。
「アレ?」
「決まってるでしょ!村で一番にぎやかな場所──酒場!」
ほんのり赤らんだ頬で笑うミラの姿に、俺も思わず口元がほころぶ。
彼女の軽やかな調子に引っ張られるように、さっきまで感じていた緊張が少しだけ和らいでいく。
酒場か。
人の笑い声や、音楽のような音がかすかに聞こえてくる気がした。
きっと、そこにはまた違う村の顔があるのだろう。
──けれど。
心のどこかに、小さな棘のような違和感が、ひっそりと刺さっていた。
それは、理由もなく胸の奥に引っかかる感覚。
見えない何かが、静かに動き出している──そんな予感がした。
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