第4話 境界の世界
「あ、ありがとう……ほんと、助かった」
少女──まだ名前を知らない彼女が、礼を言いながらも、どこか警戒と困惑をにじませた視線を向けてきた。
無理もない。
あんな化け物を、剣一本で圧倒する人間なんて── 普通、そうそういない。
俺だってそんなやつが目の前にいたら警戒する。
……でも、本当に自分でも説明がつかない。
あのときは、ただ、迫る危機に反応しただけだ。
体が勝手に動いて、気がついたら倒していた。
なぜあんな動きができたのか──自分でも、よくわからない。
張り詰めた空気を少しでも和らげるため、俺は声をかけた。
「腕、大丈夫か?」
少女はちらりと自分の腕を見る。
血で濡れた布を見て、少しだけ顔をしかめたあと──
ふっと肩の力を抜いた。
「このくらいなら……魔法で、なんとかなる、かな」
そう言って、彼女は軽く呟くように、呪文のような言葉を紡ぎ始めた。
どの言葉も意味は理解できたのに、口に出すとまるで別の力を帯びるように聞こえた。
その瞬間、空気がわずかに震えた。
指先から淡い光が立ち上り、傷口に吸い込まれていくように流れ込む。
流れ出ていた血が、みるみるうちに収まっていく。
傷口は完璧に塞がったわけではないが、
まるで何週間も経過したかのような自然な治癒跡に変わった。
「──魔法?」
思わず、声に出ていた。
少女が、不思議そうにこちらを見る。
「……知らないの?」
知らないわけじゃない。
その言葉は、聞き覚えがあった。
だが──
俺の知っている現実には、存在していなかった"はず"だった。
どこか、記憶の底を探るような、奇妙な感覚。
知っている。
けれど、知らない。
そんな不気味な違和感が、胸の奥に広がった。
少女は、俺の戸惑いを深く追及することなく、
にこりと笑った。
「ま、まだ私のレベルじゃ、ぱぱーっと完全回復とはいかないけどね。一日ぐらい寝れば、だいぶ良くなってるはず!」
明るく、軽い口調。
でも、その言葉の裏には、 この世界では"傷を魔法で癒す"ことが特別な事ではないという前提が、確かにあった。
……やっぱり、ここは、俺の知ってる世界じゃない。
それを、改めて痛感した。
「改めて、助けてくれて、どうもありがとう!」
少女が、改まって俺に向き直った。
その顔にはまだわずかに緊張が残っていたが、それを隠すように笑顔を浮かべていた。
まるで、俺を不安にさせまいとするように。
「私は、ミレーナ・ウィルサード。……あなたは?」
俺は──
答えようとして、言葉に詰まった。
いつも名乗っていた名前が、まるで靄に包まれたように、思い出せない。
代わりに、胸の奥から浮かび上がった名前を口にする。
「アシュト」
「そう……アシュト、ね」
ミレーナが、にっこり笑いながら、手を差し出してくる。
少しだけ、ためらったあと──
俺は、その手を、そっと取った。
ミレーナが、少しだけ間を置いて口を開く。
「……ねえ、アシュト。さっきのあれ、どうやって戦ってたの?」
彼女の声には、驚きと戸惑いがまだ残っていた。
無理もない。
自分でも、あの瞬間の記憶は断片的で、全てが夢のようだった。
「正直、自分でもよくわからない。気がついたら、体が勝手に動いてて…… あれが自分の力なのかどうかも、はっきりしないんだ」
ミレーナはしばらく黙っていたが、やがてふっと笑って言った。
「……でも、助けてくれたのは事実だし。本当に、ありがとう」
俺がどういう存在かは分からない。
それでも彼女は、恐れるよりも先に、感謝の言葉を選んでくれた。
その目にはまだわずかな警戒が残っていたが、
それ以上に、俺を受け入れようとする意志がにじんでいた。
「……助けられて、よかった」
「ふふっ、本当に助かったよ」
その笑顔に、少しだけ胸の緊張がほどけていくのを感じた。
ふっと一息ついたところで、ミレーナが静かに辺りを見渡す。
「……とにかく、ここから出ないとだよね」
あたりを包んでいた緊張が解けた分だけ、神殿の空気の重さがどっとのしかかってくる。
その一言に背中を押されるように、俺たちは足元に注意しながら歩き出した。
神殿の奥と思しき空間から、いくつもの崩れた通路をたどる。
ひび割れた壁、折れた柱、誰にも踏み荒らされていない埃の絨毯。
所々に残る装飾や紋様が、この場所がかつて神聖だったことをわずかに伝えていた。
複雑に入り組んだ構造に戸惑いながらも、かすかな風の流れと光を頼りに進む。
やがて、空気が変わった。肌に触れる風が、確かに“外”のものに変わったのを感じる。
そして──外の風が肌に触れたとき、ようやくここが地上と繋がっていると実感した。
―――
──よく、こんな場所を見つけたもんだ。
神殿跡を抜けた先は、もはや外からはとても神殿とは見えない、ただの崩れた岩山だった。
むしろ、たまたま偶然迷い込んで、足を取られた者が見つけるくらいが関の山だろう。
「それ、私も同じこと思ったよ」
肩をすくめて、隣を歩く少女──ミレーナ・ウィルサードが明るく笑った。
「でも、こういう場所を探し出すのも、導き手──ナビゲーターの仕事だからね!」
その言葉には、ほんの少しだけ誇らしげな響きが混じっていた。
「ナビゲーター?」
また耳慣れない言葉だった。
一言聞くごとに、ここが本当に自分の知っている世界とは違うのだと実感させられる。
「アシュト、あなた本当に何も知らないの?」
心配そうな、どこか怪訝そうな顔でミレーナが俺を見てきた。
この世界では、その言葉を知らないことが異質に映るらしい。
知ったかぶりをしてやり過ごしても、どうせいつかはバレる。
気にしたって仕方がない。
「知らないね。正直、自分が何者で、どうしてここにいるのかも分からない」
ミラが少しだけ眉をひそめて問い返す。
「……ここに来るまでのことも?」
「悪いが、本当に何も思い出せない。気がついたら、あの場所にいて……それより前のことは、まるで霞がかかったみたいで」
口にしながら、自分の内側を探る。
神殿で目覚める前に、確かに何かがあった気がする。
誰かに呼ばれたような感覚──でも、掴みかけたその記憶は、すぐに霧の中へと消えていった。
けれど、そんな思考はすぐに霧散した。
「もしかしたら、フラグメントの影響かも──」
また知らない単語だ。
少しだけ、いらだちを覚えた俺を見て、ミレーナは慌てて手を振った。
「ううん、ごめん、ごめん、気にしないで!ちょ~っと休めば元気になるなる!」
俺を不安にさせないように、ミレーナは明るく、力強く言った。
「話してるうちに何か思い出すかもしれないしね。なんでも聞いて!」
「悪いな、なんか……」
「気にしない、気にしない!」
ミラは元気に笑うと、歩き出した。
「それで、えっと──ナビゲーターの話だよね」
二人並んで、緩やかな草原の斜面を下る。
「ナビゲーターはね、境界を渡るための案内役みたいなものなんだ。 境界には普通の人はめったに近づかないし、危ないって言われてる場所なんだけど……」
ミラは少し言葉を選ぶようにしてから、空を指さした。
「境界って、あれだよ──ほら、見える?」」
ミラが空を指さす。
視線を向けると、遠くの空の一角が、不自然に荒れているのが見えた。
黒い雲。
巻き上がる稲妻。
局所的な暴風。
まるで、世界そのものに傷が開いたような光景。
「ああいう場所を"境界"って呼んでるの。昔の戦争で、世界の均衡が壊れたせいで、あんなのがたくさんできたんだよ」
「……世界の均衡、か」
俺の知っている世界とは、あまりにも違いすぎる。
けれど、どこかでそんな話を知っているような、妙な感覚もあった。
記憶の底で、古ぼけた絵本をめくるような感覚。
「境界はいろんな場所に、いろんな形で点在してるの。街と街を隔てたり、土地を枯らしたり──
ナビゲーターは、そういった境界を渡るために、渡り手って呼ばれてる戦闘役の人たち──通称ボーダーって言った方が馴染みあるかも──と一緒に先導したり、異変そのものを調査したりするのが仕事なの」
渡り手──また新しい単語だ。
「それで、アシュトはさ──ううん?」
ミラが、突然立ち止まって急に俺を見上げる。
「アシュトって、ちょっと呼びづらいかも」
「呼びづらいって言われてもな……」
たぶん、俺がつけた名前じゃない。
文句を言われても困る。
「それじゃ、アッシュって呼ぶね!私のことはミラでいいから!」
「……アッシュ、か」
妙な感じだが、嫌ではなかった。
「ふふっ、これで決まり!」
ミラは満足げに頷いた。
「それで、アッシュはこれからどうするの?」
ふいに問われて、言葉に詰まる。
「どうするって言われても……何をすればいいのかも分からないし、行く当てもないな」
目覚めてから、手にしているものなんて何もない。
剣も、金も、食べ物も。
生き延びる手段すら、はっきりとは分からない。
……本当に、自分はこのまま生きていけるんだろうか。
答えながら、自分の置かれている状況の曖昧さと不安が、じわじわと胸にのしかかってくる。
「それじゃさ、アッシュ。とりあえず、私が今滞在してる村に来てみない?」
ミラの声は、気遣うようにやわらかかった。
「……本当に、俺なんかを連れて行っていいのか?」
思わずそう返していた。
自分が何者かも分からない、目的も記憶もない存在。
そんな不確かな人間を、村に連れて帰るなんて、普通なら避けるだろう。
だがミラは、迷うことなく笑った。
「大丈夫、大丈夫!こんな場所に置いてく方が心配だもん」
その笑顔に、少しだけ救われた気がした。
「……ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて、お邪魔させてもらうよ」
辺りを見回すと、世界は俺の知る自然とは、まるで違っていた。
空はどこまでも高く、雲は分厚く、大地にはどこか疲れたような、荒れた色が広がっている。
それでも、風は心地よかった。
ミラの口からは、自分の知らない言葉が次々と出てきた。
それなのに、不思議と怖くはなかった。
草原に咲く小さな花々も、確かに生命の息吹をたたえていた。
俺は──
この世界を、もっと知りたいと思った。
もっと、遠くへ。
もっと、この世界の真実を──。
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