第3話 逃げ場のない聖域
化け物が動いた。
唸り声を上げながら、巨体が地を蹴って突進してくる。
石床を削る音とともに、その姿はまるで岩塊のように重く速い。
ただ破壊の意志だけが、まっすぐこちらへ迫っていた。
咆哮が空間を震わせ、緊張が全身に張り詰める中、その巨体が視界に迫る。
俺は剣を握り直した。
その感触は手に新しいはずなのに、なぜかしっくりときた。
まるで、初めて剣を握るという行為が、自分にとって“初めてではない”かのような奇妙な感覚があった。
恐怖はなかった。
ただ、胸の奥で何かが確かに脈打っていた。
この感覚は、目覚めたときから確かにあった。
けれど今、それはまるで暴れ出しそうな胎動へと変わっていた。
「……っ、来い──!」
化け物が距離を詰め、巨体を持ち上げる。
その動きに合わせて空気がひときわ重たくなり、空間そのものが沈み込んだように感じた。
振り上げられた爪は、まるで鉄塊。
目にも止まらぬ速さで振り下ろされるその軌道が、俺の視界に焼きつく。
俺は跳んだ。
咄嗟に体をひねり、石床を蹴って宙を滑るように回避する。
背後で響いた轟音が、身体全体を震わせた。
崩れた床の破片が飛び散り、その衝撃波に押されて、数歩先で転がるように着地する。
着地の衝撃が足元を抜け、膝にまで響いたが、痛みを感じる暇もなかった。
すぐに体勢を整えながら、咄嗟に声を張り上げる。
「離れてろ!」
その叫びは、自分でも驚くほど鋭く、迷いのないものだった。
少女がすぐに反応してくれたのが視界の端に映る。
彼女が壁際へと身を引いたのを確認しながら、俺は剣を構え、間合いを取った。
踏み込んでくる巨体。
鋭い爪の一閃を剣で受け流し、横へと捌く。
風圧と衝撃で足元が揺れるが、なぜか動きは冴えていた。
その次の一撃も、肩をかすめながら回避し、反撃に転じる。
──見えている。どこに来るか、分かる。
剣を振るい、横薙ぎに切り込む。
だが、手応えは浅い。分厚い皮膚に弾かれ、表面を裂くだけだ。
「……くそっ……」
この古びた剣では──致命傷にはならない。
岩のように硬い皮膚に刃は浅く弾かれ、かすり傷を与えるのが精一杯だった。
無力感と焦りが、じわりと胸に広がる。
歯を食いしばりながら、一度跳んで距離を取る。
剣を構え直しながら、どうすれば倒せる?と頭の中で問いかける。
化け物が咆哮を上げた。
傷口から滲んだ血を振り払うように頭を振り、こちらを睨みつける。
理性のない怒りに満ちたその反応に、ぞくりと身が強張る。
空間を震わせるその声の圧に、何か得体の知れないものが混ざっている──本能的に、そう感じた。
背筋に冷たいものが走る。
「危ない!」
少女の叫びと同時に、視界が弾けるように揺れる。
何か巨大なものに体ごと弾かれたような衝撃。
──吹き飛ばされた!?
空中で回転しながらも、辛うじて剣を離さずにいた。
だが、次の瞬間、背中が石壁に叩きつけられる。
肺から空気が一気に押し出され、息ができない。
もがく体を必死で制御しながら、視界を上げる。
一直線に、こちらへ突っ込んでくる化け物──!
まずいっ……!
爪が振りかぶられる。
巨大な前肢が空を裂き、目の前に迫る。
──速い。
反応が間に合わない──そう思った瞬間、頭の奥に走馬灯のような映像が閃いた。
砕けた石床、少女の顔、女神像の視線、剣の重み──あらゆる断片が一瞬にして駆け抜けていく。
刃のように鋭い爪が、頭上から振り下ろされる。
触れるか触れないか、紙一重の距離で迫る。
皮膚が、空気が、爪の存在を感じてざわめいた。
視界が光と影に切り裂かれる。
──その瞬間だった。
意識が弾け、世界が反転するような感覚に呑まれた。
視界の隅に閃いた光が、思考と現実の境界を断ち切る。
胸の奥に何かが入り込み、身体の内側を駆け巡る。
熱い、荒々しい。暴風のような力が俺の内側を突き破っていく。
──意識が戻った時には、俺は化け物の背後に立っていた。
自分でもどうやってそこに至ったのかわからない。
ただ、足元を吹き抜ける風と、手に握る剣の熱だけが現実だった。
「うっ……」
ずきりと鋭い頭痛が走り、体の節々が軋む。
思わず片膝をつきそうになるのを、気力だけで踏みとどまる。
手に握る剣に視線を落とす。
さっきまで古びた金属の塊にすぎなかったそれが、まるで鍛えたばかりの刃のように輝いていた。
装飾の彫りは鮮明になり、刃のきらめきは新品同然──いや、それ以上の存在感を放っている。
握った手から、剣に確かな力が宿っているのを感じた。
それは、自分が引き出した力ではない。
だが、今の自分にはそれが“応えてくれている”ように思えた。
──この剣なら、届く。
そう感じた。
だが同時に、肌の内側で警告のような違和感が疼く。
この力は、長くはもたない。
自分の身体も、この剣も──限界はすぐそこだ。
そのとき、化け物がぬるりとこちらへ顔を向けた。 赤黒い瞳が俺を射抜き、背筋がぞわりと震える。
次の一撃で決める。
──息を吸い込む。
背筋をまっすぐに伸ばし、意識を一点に絞り込む。
鼓動が耳に響く中、すべての感覚が剣先へと集中していく。
そして俺は、地を蹴った。
跳躍。
踏み込んだ足が石床を割り、剣が風を裂いて煌めく。
解き放たれた剣の気配が刃を包み、その軌道には鋭く澄んだ音が尾を引いた。
「はああああああああああッ!!」
全身の力を振り絞り、叫びと共に渾身の一撃を振るう。
化け物の腕が咄嗟に振り上がる。
だが、それはわずかに遅かった。
巨大な前肢の間をすり抜けるように、俺の体が突き進む。
刃が振るわれた瞬間、空間がひび割れたような衝撃が走る。
閃光のような一閃が、化け物の肩口から腹部へと深々と食い込んだ。
肉が裂け、骨が軋む。
血飛沫が舞い、咆哮が空間を震わせるように響き渡った。
巨体がのけぞり、もがくように足を滑らせながら、重力に引かれるようにゆっくりと崩れ落ちていく。
その直後、俺は着地の衝撃に膝をつき、喉の奥から荒い呼吸が漏れた。
剣──いや、変質していたその刃は、淡い光を残しながら、静かに元の姿へと戻っていった。
そう思った瞬間、剣身に微かなひび割れが走る。
それはまるで、最期の役目を果たしたかのように、ぱきりと音を立てて崩れ始めた。
刃が砕け、柄が砂のように崩れ落ちる。
手の中で確かに感じていた力の余韻が、消えていく。
「……はぁ、はっ……いまのは……」
俺は、自分の手を見下ろす。
そこに残っていたのは、ただの破片。
けれど、確かにその奥に──確かにあったはずの力の痕跡を、まだ感じていた。
「……すご……い……」
かすれた声に振り向くと、壁にもたれた少女が、呆然と俺を見ていた。
その目には、驚きと、わずかな恐れ。
「……あなた、一体……」
俺は、答えられなかった。
答えられるはずがなかった。
けれど、心の奥に──何かが、確かに芽生え始めていた。
──この力は、どこから来た?
俺は──何者なんだ?
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
この作品では、記憶をなくした主人公が、滅びかけた世界の中で失われた力と向き合いながら進んでいきます。
まずは1か月ほど、毎日更新を予定しています。
本日の投稿はこの話をもって終了です(計3話)。
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今後の展開もぜひお楽しみに!