第24話 風と共に斬る
地鳴りの正体は、すぐに姿を現した。
岩陰がごそりと動き、土煙を巻き上げながら、それは這い出してきた。
全身を覆うのは灰褐色の毛並み──いや、それはまるで岩肌のようにごつごつとしており、まるで山の一部が動き出したかのようだった。
体躯はブロロよりもさらに二回りは大きく、ずんぐりとした胴体に異様なほど発達した前肢。
そこから覗くのは、岩盤すら引き裂きそうな黒い鉤爪。
そして何よりも恐ろしかったのは、その顎だった。
全身の筋肉がうねるように動き、大きく開かれた口の奥から、低く、地の底から響くような咆哮が漏れ出す。
「バスクスブルート……!」
先ほど助けたボーダーの男が、苦しげに呻いた。
「厄介なのが出てきやがった……よりによってこんな時に…!」
その言葉に、キャラバン全体の空気が一気に張り詰めた。
倒れ伏したボーダーたちは身じろぎもしない。
すでに肩で息をし、武器を支えるのがやっとの者も多い。
何人かは血を流しながら地面に膝をつき、痛みに顔を歪めながらも、それでも目だけはバスクスブルートを見つめていた。
「……無理だ……これ以上は……」
誰かのかすれた声が、風に紛れて聞こえた。
その場に立ち尽くしていた旅人の一人が腰を抜かし、荷台にしがみつくようにして後退る。
それを見て、他の者たちもまた恐怖に引き寄せられるように身を隠していった。
誰もが、わかっていた。
──もう限界なのだ、と。
ブロロが鼻を鳴らし、足踏みして不安を訴える。
荷馬車の軋む音だけが静寂に混じり、どこか不気味に感じられた。
ミラも結界の内側で、震える手を抑えるように両手を重ねる。
魔力の余裕はとうに尽きていた。
彼女の足元には汗のしずくがこぼれている。
そんな中、俺だけが──
俺の手の中の剣だけが、静かに応えていた。
ラグナブレード──いや、今は確かに違う手応えを感じるこの剣を握り締めた。
(……いける。今の俺なら)
明確な根拠なんて、どこにもなかった。
けれど、あの時──ボーダーの剣に触れた時と同じ感覚が、今ははっきりと胸の奥にある。
この剣は、まだ何かを隠している。
否、それを俺に伝えようとしている。まるで、応えてくるように──
気づけば、思考が深く沈み込み、周囲の音が遠のいていく。
剣の奥にある“何か”と、俺自身の意志が重なったような瞬間──
淡い光が、剣から漏れ出した。
そして、世界が白に包まれる。
次の瞬間、メモリアが共鳴した。
視界の端がぼやけていき、感覚が遠のいていく。
音が遠ざかり、自分の鼓動だけがはっきりと耳に届いた。
──気がつけば、俺はあの場所にいた。
―――
荘厳な神殿の中。
空気は静かで、空間全体が淡く青白く光っている。
石造りの床の先、中央には古びた祭壇。
その前に、ひとりの男が跪いていた。
──以前、剣に触れたときに見た男。
黒髪を束ねた痩身の男は深く頭を垂れ、目の前の剣に手を重ねていた。
横たわる剣。
その形状は今の俺が握っているものと同じ──ラグナブレード。
そして、その剣の向こう。
祭壇の奥にある台座には、透明な風のような揺らぎが浮かんでいた。
人の形をしているようで、していない。
確かに存在する“何か”。
それが、風の精霊──シルフ。
「……この剣よ、風の加護に包まれし力よ。我が願いを、聞き届けてくれ」
男の声は低く、けれど凛としていた。
その声に応えるように、神殿内の空気がふわりと揺れた。
風が起き、祭壇に捧げられた葉がゆっくりと宙を舞う。
そして、その風は一本の筋となって剣へと吸い込まれ──
剣の柄が、静かに光を帯びた。
その瞬間、俺の視界の中に、情報が焼き付けられる。
──メモリア、共鳴。
【対象】風精剣《ラグナ=ヴェント》
【カテゴリ】武器系フラグメント
【出典時代】第三次世界(魔法機械融合時代)
【性能】 攻撃力:120 耐久力:85 属性:風刃付与+加速風 特殊効果:高速連撃【Lv2】(連撃発生率+25%)
【貴重度】A+ランク
【評価】 精霊シルフの力に適応しつつある片手剣。まだ秘められた力の一端しか顕れていないようにも感じられる。
―――
意識が現実に引き戻される。
剣から淡い風が溢れ出し、俺の周囲を巡る。
ベールの外にいたはずの境界の気配──あの肌に纏わりつくようなざらついた感覚が、ふと風に攫われていくのを感じた。
まるで身体の重さが一枚、剥がれ落ちたかのように、息がしやすくなる。
その感触は、心を落ち着かせるようでいて、どこか背中を押されるような──
そんな不思議な力を、確かに宿していた。
バスクスブルートが吠えた。
その雄叫びに、ブロロが再び嘶き、荷台が大きく揺れる。
「くっ……!」
後方で中年夫婦の旅人が肩を寄せ合い、地面に伏せているのが見えた。
──誰も動けない。
なら、俺がやるしかない。
手の中の剣が、風を孕んで震える。
鼓動が早まるのを感じながらも、不思議と恐怖はなかった。
この力なら、届く。
俺が、こいつを倒す。
瞬間、俺は跳び出していた。
地を蹴る。
足元に風が走る。
それに気づいたバスクスブルートの全身が、ぎしりと動いた。
ぶ厚い前肢が地を穿ち、顎が大きく開かれる。
牙の並ぶ巨大な口が、咆哮とともにこちらへ向かってきた。
音もなく、視界のすべてが目の前の魔物に集中する。
その顎が俺を捉える直前、剣を一閃した。
刹那、空気が爆ぜた。
凄まじい音とともに、斬撃がほとんど視認できない速度で放たれる。
風が軌跡を描くよりも先に、斬られた結果だけが残る。
まるで“空間そのもの”が切り刻まれたかのように、周囲の空気がねじれ、振動する。
衝撃と手応えが、瞬時に俺の全身を駆け抜け──
バスクスブルートの動きが止まった。
次の瞬間、風が一閃遅れて吹き抜ける。
それに呼応するように、巨体に刻まれた“見えなかった斬撃”が姿を現す。
斜めに、縦に、横に──
三つの断面が浮かび上がり、そのまま重力に引かれるように崩れ落ちた。
血しぶきが舞い、地面に鈍く染み込む。
誰かの息を呑む音が、遠くで聞こえた。
俺はゆっくりと剣を下ろす。
──終わった。
風が吹く。
どこか優しく、背中を撫でるように。
それが、加護の風なのだと、今ならわかる気がした。
誰も声を出せないまま、ただその場に立ち尽くしていた。
けれど、俺の心は静かだった。
今なら──この剣となら、進んでいける。
先の景色はまだ見えなくても、確かに足元には、力があると感じられた。
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