第22話 守りの光、踏み出す一歩
誰かの叫びが木霊した瞬間、空気が変わった。
キャラバンの列はぴたりと止まり、旅人たちの顔から血の気が引いていく。
白煙に覆われた山道の向こう、濁った湯煙の中に──不気味な影が蠢いていた。
岩陰から、灰色の獣影が次々と姿を現す。
「バスクスラットだ!」
先頭のボーダーの男が剣を構える。
蒸気の向こうから現れたのは子豚ほどもあるずんぐりとした体躯のネズミだ。
異様に発達した前歯と体は岩と同じような保護色の毛皮に覆われており、よく見なければその姿は霧の中に紛れてしまう。
そのうえ、俊敏だった。
岩場を駆け、滑るように跳ね回る姿は、まるで周囲の地形を読み取っているかのようだった。
その動きには、単なる魔物とは思えないほどの知性がにじんでいた。
「……なんだ、この数……!」
ボーダーの男が声を絞り出す。
霧の向こうに蠢く影──前方の岩陰から続けざまに、数えきれないほどのラットたちが姿を現す。
視界の奥まで動く影が途切れることなく続き、その数の多さに、誰もが息を呑んだ。
先頭にいたボーダーの男たちがすぐさま迎撃に入る。
剣を抜き、魔法の詠唱を交えながら果敢に立ち向かう。
最初は順調だった。
鋭い斬撃がラットの毛皮を裂き、魔法の光弾が霧を貫いて着弾する。
前方に出たボーダーの一人は、跳びかかってきた一匹をすれ違いざまに切り伏せ、そのまま振り返りながら次の相手に備える。
別のナビゲータは、足元に展開した小さな魔法陣から炎の渦を吹き上げ、複数のラットを牽制した。
戦闘を行える者はブロロを守るために前へ出た者も多く、隊列はしっかりと保たれていた。
だが──数が違った。
次々と湧くように現れるラットの群れに、徐々に陣形は崩れ始めた。
「魔法が……うまく通らねえ!」
「マナが……流れてこない!?」
ボーダーの一人が呻くように叫ぶ。
その身体は汗に濡れ、呼吸も荒くなっていた。
まるで周囲の空気そのものが乱れていて、思うように力が引き出せないかのようだった。
ナビゲーターたちが展開していた『ベール』の光が、次第に薄れていく。
防御結界は機能を保ってはいるものの、あちこちに綻びが見え始めていた。
「前が……押される……!」
最前線で戦っていた一人が後退する。
その顔は土色に染まり、剣を振るう腕にも力が入っていない。
その様子を、俺たちは荷台の中から見ていた。
霧がうっすらと差し込む荷台の縁から、ミラが固唾を呑んで前方を見つめている。
その隣で、中年夫婦の旅人が身を寄せ合い、不安げに震えていた。
「お願い……早く収まって……」
小さくつぶやいた女性の手が、夫の腕を強く握る。
その向かいにいたのは、例のフードの女だった。
荷台の隅に腰掛け、微動だにしない。
その目は鋭く、戦場の先をじっと見据えている。
恐怖も焦りも──まるで無縁のように。
まさに、百戦錬磨の目だった。
その瞬間だった。
「ギィエエエエエッ!!」
ブロロの悲鳴にも似た鳴き声が、辺りに響き渡る。
その足元には、ラットが数匹まとわりついていた。
一匹が腹部に食らいつき、もう一匹は脚へと跳びつく。
車輪がぐらりと傾き、荷台が大きく揺れた。
床板がきしみ、積まれていた木箱がひとつ転がり落ちる。
夫婦がよろめき、ミラが支えに駆け寄る。
俺も急いで身体を支えながら、荷台の外を覗いた。
──キャラバンが崩れる。
ラットたちが隊列の中へと侵入し始めた。
悲鳴が上がる。
後方の荷台にいた旅人の一人が倒れ、仲間が駆け寄る姿が見える。
物資の山を崩しながら、数匹のラットが馬車の間をすり抜けて進入してくる。
ブロロが暴れ、馬具が軋む。
人々の叫び声が霧の中で錯綜し、列のあちこちに混乱の波が広がっていく。
ナビゲーターたちは動けなくなり、ベールの光も今にも途切れそうだった。
「ミラ、ベールが──!」
俺が声を上げると、ミラは目を見開き、立ち上がった。
「……っ、わかった!」
ミラは両手を胸の前で組み、深く息を吸い込む。
そして──詠唱を始めた。
「──揺らぐ境界に穏やかな波紋を……澄み渡れ、《守護の幕》──《ベール》!!」
光が弾けた。
淡く、しかし力強い魔力がミラの身体を中心に広がっていく。
周囲に浮かび上がった光紋が、静かに波紋を描きながら空間を押し返していった。
境界の乱れの中でも、その魔力は揺るがず、まるで波立つ水面の奥底にある本流を捉えているかのようだった。
ミラは乱流の中にひと筋の“通り道”を見出し、それに沿うようにして結界の膜を展開していく。
結界の膜が再びキャラバンを包み、今にも倒れそうだった人々の上に、安心という名の守りが降り注いだ。
「やった……!」
旅人の女性が涙を滲ませながらそう呟く。
ミラの額には汗が滲んでいた。
だがその目は、強く、揺るぎなかった。
──守るんだ、この場所を。
彼女の魔力が、そう語っているように見えた。
それを見ていたフードの女の目が、わずかに細められた。
周囲とは異なる魔力の揺らぎを感じ取ったのか、ミラの方へと視線をわずかに向ける。
ミラの放った光が、霧を押し返し、人々の顔を照らした。
だが、それでも前線の混乱は収まっていない。
ラットたちは、ベールの向こうでなお暴れ、キャラバンをじわじわと包囲しようとしている。
思考よりも先に、身体が動いていた。
気づけば、俺は立ち上がり、荷台の縁に手をかけていた。
ミラが繋いだこの結界を、今度は俺が支える番だ──そんな感情が、胸の奥から突き上げてくる。
そしてそのまま、迷うことなく、荷台の外へと身体を投げ出していた。
ブロロが混乱に動揺し、地面を踏み鳴らすたびに、足元から重たい振動が伝わってくる。
その振動に重なるように、霧の向こうから複数の影が現れた。
低く身をかがめながら、素早く駆ける灰色の獣影。
その動きは滑るように滑らかで、まるで獲物を狩るために地形すら利用しているかのようだった。
霧の中、赤く光る複数の目がこちらを捉えた。
ラットたちは、再びこちらへ──襲いかかろうとしていた。
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