第21話 境界の気配
夜が明け、山脈の空が淡く染まり始めた頃、野営地では再びキャラバンの準備が始まっていた。
焚き火の残り火が片付けられ、荷物が再び馬車に積み込まれていく。
ミラは眠そうに目をこすりながらも、手際よく荷の確認をしていた。
「おはよ、アッシュ」
「おはよう。よく眠れた?」
「うん……って言いたいけど、ちょっと寒くて途中で目が覚めた」
冗談めかしたミラの声に、俺は苦笑した。
キャラバンがゆっくりと動き出す。
早朝の山道はまだ冷え込んでいて、車輪の軋む音とブロロたちの足音だけが周囲に響いていた。
やがて、道の両側に広がる景色が変わってくる。
岩肌が剥き出しになり、木々はまばらになっていく。鋭い岩が突き出した山道を登るたびに、キャラバンの動きが少しずつ重くなっていくのが分かった。
「この辺り、温泉がたくさん湧いてるんだよ」
ミラが鼻をひくつかせながら言った。
確かに、あたりには硫黄のような独特の匂いが立ち込め、ところどころで白い蒸気が地面から立ち上っている。
空気は湿り気を帯びていて、どこか重たい。
そんな中、先導していた馬車が停まり、休息の合図が出された。
俺たちも荷台から降りて周囲を見渡す。
「あっち、ちょっとだけ寄ってみない?」
ミラが指差した先、小高い岩のくぼみに白い蒸気が立ちのぼっていた。
近くにいたキャラバン構成員が、「そこの岩場、足湯になってる。入りたい人は自由に使ってくれ」と軽く声をかけていた。
岩場には湯気をまとったくぼみがあり、数人の旅人が靴を脱いで足を浸けている姿が見える。
旅行者らしき中年の夫婦が、互いに笑い合いながら足を湯に浸していた。
一方で、キャラバンの周囲ではボーダーたちが岩陰や荷台の裏を確認し合い、互いに短く合図を交わしていた。
境界を目前に控え、警戒を強めているようだった。
フードの女の姿も見えたが、彼女は足湯の方には向かわず、馬車の影に寄りかかるようにして静かに目を閉じていた。
まるで内側に意識を向けているようで、誰も声をかけようとはしなかった。
「温泉じゃなくて足湯なんだな」
「うん。この辺の湯は毒混じりのもあるから、入っていい場所は限られてるんだって。ここは昔の旅人が削った湯だまりだから大丈夫なんだってさ」
ミラはそう言って靴を脱ぎ、くるぶしまで湯に浸けた。
俺もその隣に腰を下ろし、靴と靴下を脱いで足を湯に入れる。
「……気持ちいいな」
湯はぬるめだったが、山の冷気に冷えた足にはちょうどよく、じんわりと体の芯がほぐれていくような感覚があった。
「あれ? 湯の底に……何か沈んでる?」
ミラが湯の中に手を入れて、ひとつの小石を拾い上げた。
表面には薄く刻まれた文様があり、どこかの祠で見かけそうな雰囲気をまとっている。
「……何これ。旅人のお守りかな?」
「そうかもな。昔の人が残したのかもな」
ミラは笑いながら、濡れた石を少しだけ眺めたあと、自分の小さな布袋に入れた。
「一応、もらっとく。なんか縁起いい気がするし」
足を拭きながら岩場を離れると、あたりの空気がいつの間にか変わっていることに気づいた。
湯気が風に流され、遠くの山肌がぼんやりと浮かび上がる。
静けさが少しずつ広がり、旅人たちの笑い声も遠ざかっていった。
空気が妙に張り詰めていて、誰もが自然と口数を減らしていた。
ブロロたちも、鼻を鳴らして落ち着きなく足を動かしていた。
「……なんか、様子が変わったな」
風の流れがいつもと違う。
空気がひやりと肌にまとわりついて、背筋がじわりと冷える。
ミラは足湯でほんのり温まった足を軽くさすりながら、荷台の端に腰を下ろした。
「うん。もうすぐ境界が近いから、準備を始めるんだよ」
キャラバンの先頭付近では、ナビゲーターの一人が杖を掲げ、もう一人は剣の柄に手を添えて詠唱を始めていた。
剣の鍔から淡く光る刻印が浮かび上がり、詠唱の終わりと共に魔力が波紋のように広がっていく。
「ベール!」
その声と同時に、光が大気に染み出すように広がり、キャラバン全体を優しく包み込んでいった。
まるで見えないカーテンが張られたかのように、周囲の空気が一変する。
「境界付近ではマナが乱れるから、そのまま進むと体調崩したり、意識が変になったりするんだよ。だから、こうして魔法で守るの。『ベール』はナビゲーターにとって必須魔法なんだ」
光の幕に包まれたことで、周囲の白煙がわずかに遠のいたように感じられる。
空気の重たさも、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
「よし、出発だ」
ボーダーの男の声が響くと、キャラバンは再びゆっくりと動き出した。
荷車の車輪が湿った地面をきしませながら進み、ブロロたちの蹄が静かなリズムを刻んでいく。
山道はますます険しくなり、両脇の景色も変わってきた。
細い獣道のような小道がちらほらと現れ、岩肌には苔が張りついている。
足元には霧のような白煙が漂い、冷たい風が吹くたびに視界の奥がかすんでいく。
背中に感じる冷たさもじわじわと強まり、標高が上がっていることを実感させた。
やがて、山肌の間からは絶えず蒸気が吹き出し始め、空は白煙に覆われて視界が狭くなっていく。
地面から湧き出る温泉の水も、どこか濁っていて、不穏な気配が漂っていた。
そんな中、濃く立ちこめる蒸気の向こうで、何かがゆらりと揺れた気がした。
錯覚かと思った次の瞬間、周囲の空気が張りつめるように静まり返る。
ふと、隊列がぴたりと止まった。
「……何かいる……!」
誰かの叫び声に、キャラバン全体が緊張に包まれる。
荷台の中の人々が息を呑み、ブロロたちが警戒したように蹄を鳴らす。
そして、視界の端に、影が蠢いた。
湿った泥を踏みしめるような、ねっとりとした音が耳に届く。
それは形を持たない何かのように、白煙の奥でじっとこちらを見据えているような気配を放っていた。
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