第20話 月下の対話
夜が更け、野営地はすっかり静まり返っていた。
焚き火の残り火が時折パチリと音を立て、テントの布越しに影が揺れる。
草むらの奥からは、静かな虫の声がかすかに響いていた。
それ以外には、人の声も、動物の足音さえも聞こえなかった。
荷台の中では、ミラがすやすやと眠っていた。
ブランケットにくるまって丸まるようにして眠るその姿は、いつもの元気な彼女とはまた違って、少し子どもっぽくも見えた。
他の旅人たちも、すでに深い眠りの中にいた。
唯一、あのフードの女だけがいなかった。
フードの女が昼間に言った、あのひと言がどうしても引っかかっていた。
「……気をつけることだね」
ただの警告だったのか、それとも本当に何かを知っているのか──それを、今夜のうちに確かめたくなった。
俺はそっとブランケットをめくり、音を立てないように荷台から身体をずらした。
ミラを起こさないように、そして他の誰の目にもつかぬように。
夜気は思った以上に冷たく、足を下ろすと地面のひんやりとした感触が伝わってくる。
空には満月に近い月が浮かんでいた。
その月明かりの下、野営地からやや離れた岩の上に、ひとつの人影が座っているのが見えた。
銀の髪が風に揺れ、月光を受けてほのかに光っている。
その時、背後から声がかかった。
「──いつも、ああして1人でいるのさ。変わった奴だ」
振り返ると、夕食の時に少しだけ話したあのボーダーの男が、焚き火の明かりを背に座っていた。
夕飯時に手にしていた酒瓶はなく、すでに見張りとしての役目に入っているようだった。
「……散歩か?」
「……ちょっと寝つけなくて」
男はちらりと俺を見て、あとはまた焚き火の方に目を戻した。
「妙なことは起こさないでくれよ。こっちは見張りの番なんでな」
俺は視線を遠くのフードの女に向けた。
「どんな人なんですか?」
「さあな。前の宿営地から合流してきたが、あの辺には女の旅人が1人で入るような場所はなかったはずだけどな」
「……じゃあ、何者か分からない?」
「他人とはほとんど関わろうとしない。名前すら口にしちゃいない。もしかしたら名簿の名も偽名かもしれないな。だが──強い目をしてる。人を見下すような目じゃないが、妙に遠くを見てる。そんな目だ」
俺は黙ってうなずいた。
だが、視線の先にいる彼女からは、何か言葉以上の気配が感じられた。
あの一言には、俺の知らない“何か”が隠れている──そんな直感だけが、妙に胸に残っていた。
「……揉め事だけは起こさないようにな」
男の言葉には、どこか牽制のようなものを感じた。
予期していたのか、ただの警戒か──その目は変わらず静かだった。
俺は何も言わず、小さくうなずいて、月明かりの下を歩き出した。
風が草をかすめ、さらりと音を立てる。石の上に座る女は、俺が近づいても動かず、ただ夜空を見上げていた。
「……何か用かい?」
背を向けたまま、彼女は言った。
今はフードを外していて、肩までの銀色の髪がさらさらと揺れている。
月光に照らされて、髪の端がうっすらと淡く光っているようにも見えた。
「いや……その、少し気になって」
声が震えそうになるのを抑えながら、言葉を選んだ。
先手を打たれたせいか、うまく話が切り出せない。
「昼間、俺に言ったこと……あれって、この剣のことですよね?」
女は答えず、しばし沈黙したまま月を見ていた。
「気をつけろって……どういう意味だったんですか?」
俺が重ねて尋ねると、女はわずかに笑ったように見えた。
「──知らずに店で買ったってわけでもないだろうにね」
その声は、どこか皮肉めいていたが、嫌味ではなかった。
「やっぱり、この剣……ラグナブレードが普通じゃないって、分かるんですね」
「見れば分かる。それは“力”を帯びている」
女は静かに言った。
「フラグメントは、この世界との結びつきが強い。ときに、持ち主の意思を呑み込み、取り込んでしまうこともある。……昔、そうやって自分を見失った奴を見たことがある」
「……魔物も、そうだったんですか?」
「さあね。でも、“その可能性はある”と思っていたほうがいい」
俺は何も言えず、ただラグナブレードの柄に手を置いた。
重みはいつもと変わらない。
けれど、言われてみれば、初めて手にしたあの時から、どこか不思議な一体感を感じていた。
「脅かしてしまったみたいで、すまないね」
彼女はふっと息を吐いた。
声の調子に、ほんのわずかな温もりが混じっていた。
やがて彼女は立ち上がり、こちらを振り返った。
鋭く澄んだ紫の瞳が、月明かりの下できらりと光った。
女の視線が、そっと俺の腰──ラグナブレードへと向けられた。
「……その剣は、あんたによく馴染んでる。心配はいらないよ」
月が雲の切れ間から顔を出し、再び辺りを淡く照らしはじめた。
「ただ……フラグメントを狙う輩は多い。油断はしないことだね」
それだけを告げると、女は再び宿営地の方へと向かって歩き出した。
その背は、冷たい夜風の中に溶け込むように、静かに闇へと消えていった。
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