第10話 静けさの終わり
宿に戻ると、村の夜は静まり返っていた。
窓から外を見下ろすと、灯りの消えた家々が寄り添うように並び、虫の声だけが静かに響いている。
空には、大きな──青い月。
見慣れた月とは違う。
どこか幻想的で、星の並びも、現実とは思えないほど美しかった。
遥か彼方、地平線の向こう側で、わずかに光が明滅している。
稲妻のような、空の裂け目のような──。
あれも、境界というやつなのかもしれない。
「そろそろ、寝ましょう」
振り向くと、ミラが部屋の隅から出てきた。
ポニーテールを解いた髪はまだ少し湿っているが、きちんと整えられて肩に流れている。
昼間に見た元気な雰囲気とは違い、どこか落ち着いた、大人びた印象を受けた。
(この村の宿にしては、お風呂もしっかりしてたな)
男女別になっていて、簡素ながら清潔に保たれていた浴室を思い出しながら、俺は軽く頷く。
「ああ」
そう返して、ベッドに身を横たえた。
ぎしりと軋む音がする。
それでも、硬さのある寝台は悪くない。
しっかりと体を支えてくれる感触に、妙な安心感を覚えた。
天井をぼんやりと見上げる。
──今日一日で、本当にいろいろなことがあった。
初めての戦い。
ミラとの出会い。
自分がどこから来たのかも分からない、この世界での一歩。
不安は、もちろんある。
けれど、立ち止まる理由も、ない。
──なんとか、やっていくしかない。
ぼんやりと天井を見上げていると、隣のベッドからかすかな声が聞こえた。
「……アッシュ、眠れそう?」
「たぶん、な」
返した俺の声は、自分でも驚くほど小さかった。
「……いろいろあったし、疲れてると思うけど」
ミラの声は、昼間よりも少しだけ柔らかかった。
まるで、何かを気遣うように。
「記憶のことは……その、焦らなくていいと思うよ。思い出せなくても、今こうしてここにいるってだけで、きっと十分なんじゃないかな」
ふと、胸の奥に何かが溶けるような感覚が広がった。
「……ありがとな」
「ううん」
その一言に込められた優しさが、静かな夜にふわりと溶けていく。
「おやすみ、アッシュ」
「……おやすみ」
ゆっくりと、まぶたが重くなっていった。
---
窓ガラスに、自分の姿が映る。
──電車の中だった。
吊り革を握ったまま、ぼんやりと揺られている。
目は、虚ろ。
何も見ていないようで、見つめているような──そんな目。
照明の光は、どこか黄ばんで鈍く、疲れた車内を淡く照らしていた。
ああ、そうだ。
何日も寝てない。
そんな気がする。
空気が、妙に重たい。
携帯のバイブ音が遠くから鳴っていた気もするが、指一本動かす気にもならない。
窓の外は、夜。
ビルの明かりが点々と流れていく。
ガタン……ガタン……という振動音が、どこか他人事のように耳を打つ。
──じわり、と。
右手に、熱。
思わず目を落とすと、手の甲が黒く焼け焦げていた。
皮膚の表面がひび割れ、焦げ臭さが鼻を突く。
それは一瞬にして、指先から肩口まで、全身を包むように広がっていく。
焦げた肉の匂い。服の焦げるパチパチという音。
そして、かすかに聞こえるサイレンのような警告音。
煙のような幻覚。
何が起きているのか、理解が追いつかない。
呼吸ができない。
息苦しさだけが、はっきりとそこにあった。
その瞬間、景色が崩れた。
---
──はっ、と目を覚ました。
息が荒い。
目の前がかすみ、天井の輪郭がぼやけて見えた。
ここがどこなのか、一瞬だけわからなくなる。
だが、聞こえてくる虫の声と、ほのかな草の匂いが、現実の感覚を少しずつ取り戻させてくれた。
全身、汗で濡れていた。
喉がひどく渇いている。
「……なんだ、今のは……」
胸に手を当てたまま、俺はベッドに腰を下ろした。
夢。
だけど、妙に──リアルだった。
夢で見たあの光景。
焼け焦げた手の痛み。
焦げ臭さが、まだ鼻の奥に残っている気がした。
現実と切り離されたはずなのに、確かな感触として残っている。
俺は立ち上がって、ふらつく足取りのまま窓に近づいた。
夢の余韻がまだ体のどこかに残っているようで、現実の空気を求めるように手を伸ばす。
ゆっくりと窓を開けると、夜風がひんやりと頬を撫でてきた。
肌を冷やす感触が、火照った身体に心地よい。
大きく息を吸い込む。草の匂いが微かに混じっていて、肺の奥まで澄んだ空気が満ちていく。
それだけで、少し現実に戻ってこられた気がした。
目の前に広がるのは、静かな夜。
灯りの消えた村の家々が並び、虫の声が遠くで鳴いている。
そして、空には青い月。
どこまでも平穏な──何事もない、はずの風景だった。
……虫の声が、一瞬だけ止まった気がした。
その時。
──カン、カン、カン……!
鐘の音が、闇を切り裂くように響いた。
耳を打つような、けたたましい警報。
血が一気に逆流するような感覚。心臓が、強く打った。
村を包んでいた夜の静けさが、一気に崩れ去る。
それは、村の「非常事態」を告げる音だった。
「……!」
胸の奥が跳ね、意識が一気に覚醒する。
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