浮気されたので、公爵令嬢と手を結びました
恋人が浮気していた。しかも本命は私じゃなくて、もう一人の方らしい。
正直舐めてんのかと思った。
詳しく話を聞いてみると、実は彼はこの国の王子だったらしい。しかもその本命相手は、私が尊敬する公爵令嬢だということだ。
「……すまないが、そういうことだから。俺のことはこれきりで忘れてほしい」
「は?」
独りよがりにそういった目の前の男に、私は怒りと虚しさと悔しさでグチャグチャになっていた。
なに言ってんの? それじゃあ、まるで私だけが好きだったみたいじゃん! バカみたいじゃん!
平民から努力して這い上がって、ようやく学校に通えることになり、浮かれすぎていたのかもしれない。
この男は、骨の髄までクズだったみたいだ。それなのに私は、好きだと言われて、特別だと言われて、勝手にはしゃいでしまった。
「俺はレイシェルと結婚しなくてはいけないし、君も王子と結婚するなんて、いくら成績が良くても無理だと分かるだろう?」
「……」
その言葉を聞いて、最初からこの男は私と真剣に付き合う気などなかったんだと分かった。
「……そうですか。身分違いだとしても、私は好きでしたよ」
今さっきまではな! こんのクソ王子が!!
私が怒りを出さずになんとか言えたのは、それだけだった。
一年半の恋にしてはあっけなく散っていった。
馴れ初めは王子からで、広い学校の中で迷っていた私を助けてくれた。そこからたまに顔を合わせるようになり、しだいに仲良くなっていった。
レイシェル様の方はクラスが同じで、眉目秀麗、成績優秀、まさにみんなの憧れの人だった。私も彼女の凛とした佇まいに感化されて、尊敬の念を抱いていた。
今思えば、確かにお似合いの二人だ。二人ともブロンドのきれいな髪で、高貴な青い瞳をしている。
私は自室で枕を濡らしながら物思いにふける。
「私がいなければ、レイシェル様もこんな思いしなかったのかなぁ」
ポツリと言葉が漏れた。
私がこれだけ辛いのだ。幼少期からの婚約者であったレイシェル様はもっと辛いだろう。
そして正直なところ、レイシェル様にはあんな王子とは結婚してほしくない。
レイシェル様には王妃になってほしいけど、王子には国王になってほしくないんだよなぁ。なった折にはこの国が滅びるよ、きっと。
一度は惚れた相手だけど、今はもう怒りと失望しか残っていない。女の愛は冷めるのが早いのだ。
だって平民には顔も知られてないような箱入り王子だよ? ちょっとくらい視察に来たり、下町に降りてパレードでもしてくれてたら、こんな事になってなかったのに!
私は投げやりになった怒りを、全て王子に向けた。
王子だと知ってさえいれば、身分違いの恋なんてしなかったのに! 何が「俺の身分? ひ・み・つ♡」だよ!! 隠すな、言え!
大体あの王子、思い返せば四六時中、私に付きまとっていた。絶対、レイシェル様を大切になんてしてない。
「……なんか、だんだん呆れてきちゃった。私、なんであんな人のことが好きだったんだろう!」
今じゃ、どこに惚れたのかさえ分からない。
口を開けば自慢ばかりで、誰かを褒めるのも中身のない上っ面の言葉だけだし。顔だって別にもっとかっこいい人なんてザラに居る。
そんなことを考えていると、突然扉が叩かれた。私は慌てて目をこすってベッドから起き上がる。
こんな夜に誰だろうと思って扉を開けると、そこにいたのは予想外の人物だった。
「こんな遅くにごめんなさい。でも、あなたとは話しておきたい事があったの」
「……レイシェル様?!」
夜闇に輝く星のような金髪と、自信に満ちた青い瞳を持ち合わせたその人は、驚く私の横をスルリと抜けて、部屋の中に入ってきた。
「え、あ、ちょっと!」
私は慌てて扉から手を離す。部屋の中には散乱した教科書や、脱ぎ散らかした服が散乱している。そして何より、さっきの涙で濡らした枕を見られたくない。
だけど、レイシェル様は私の部屋をじっくりと隅から隅まで興味深そうに見ている。
うわあぁぁぁぁぁ! そんなにじっくり見ないで!!
「ふぅん、平民の部屋はこうなってるの。狭いわね」
「あの、すみません。狭いし汚いし」
「まぁいいわ。誰かに聞かれるよりいいもの」
そう言ってレイシェル様は勉強用の硬い椅子に腰掛ける。そこはさっきまで、私の洗い忘れた寝間着が掛けられていたところだ。私は心のなかで悲鳴を上げながら、レイシェル様に促されてベッドに座った。
……なんでよりによって今日来たの?!
内心冷や汗ダラダラである。少なくとも、尊敬している人に見せたい部屋ではない。
それを知ってか知らずか、レイシェル様は静かに話しだした。
「あなたは知らなかったみたいだけど、わたくしは六歳の頃から殿下の婚約者だったわ。……まさか浮気されるなんてね」
彼女はクスクスと上品に笑いながら冷たい目でそう言った。
ひいぃぃぃ、これに関してはほとんど王子のせいだけど、本当にごめんなさい!
「わたくし、絶対に殿下を許しません。だからあなたに協力してほしいの」
「へ?」
勝手にこの後、怒られてお肉のミンチにされるところまで想像していたが、どうやら違ったらしい。
「あら? もしかしてわたくしに協力するのは嫌?」
私があまりにもアホ面を晒して固まっていたせいで、レイシェル様は急に不安そうな顔をして聞いてきた。私は慌てて否定する。
「いえ、あの、『この泥棒猫が!』くらいは言われると思っていたので、驚いて……」
「ふふっ! なにそれ」
私の言葉にレイシェル様は、声を出して笑った。
思ってたより、怒ってないっぽい? 私のことも憎んでないみたいだし、もしかしてそんなに王子のこと好きじゃなかった?
「そうね、好きではなかったわね」
「そっか、じゃあなんで許さないなんて……ん?」
違和感を覚えてふと口を押さえる。目の前にはニコリと笑うレイシェル様の顔。
あれ、もしかして言葉にでてた?
さぁーっと顔から血の気が引いていく。レイシェル様の気持ちを勝手に想像して、なんて不躾なことを言ってしまったんだろうか。
「あ、えっと、あの、ご、ごめんなさ……」
「いいわよ。別に元よりわたくしに、殿下を許さないなんて言う資格はないわ。ただ、レイシェル・アーレンスの名に泥を塗るわけにはいかないというだけだから」
レイシェル様は私の目を真っ直ぐに見つめていた。その瞳は真剣で、どれだけこの人が家を大切にしていて、また王子に怒りを抱いているのかが分かってしまう。
それはきっと、私なんかのちっぽけな恨みつらみより、もっと膨大で高尚な感情だ。
そんなものを正面から受けてしまえば、私の答えは一つに決まっている。
「分かりました。レイシェル様に協力します」
「……本当にいいの?」
あっさりと頷いた私に、レイシェル様は驚いた顔をした。だが、私にはその反応の理由が分からない。
え? 協力してほしいんじゃないの?
不思議に思って私は素直に聞く。
「どういう意味ですか?」
「どういうって……わたくしに協力するということは、王子に反逆することになるのよ?」
レイシェル様は心配そうな顔をして、私を覗き込むようにそう言った。
だが、私はその言葉を聞いてもなお、別に何がそこまで渋る原因になるのか、分からなかった。
何となくレイシェル様が何を心配しているのかは分かったので、あっけらかんと笑い飛ばす。
「なぁんだ。そんなことですか」
王子への不敬だとか、そんなことを言ってしまったら、私は王子にビンタの一つもできなくなる。そんなの絶対嫌だ。一発くらい殴らせろ。
不敬罪とか、牢屋行きとか、正直逃げれば何とかなると思ってるから怖くない。
「だって許せないって気持ち、すごく分かりますよ。私も一生かけても許せないですから。私を傷つけたこともそうだし、レイシェル様を蔑ろにしたことも許せません」
「わたくし?」
「はい。レイシェル様みたいに素敵な人すら大切にできない人が、国一つを大切にできると思いますか? それなのに、あんな人がこの国を作っていくと思うと反吐が出ます。もういっそ王子じゃなくて、レイシェル様が王様になってくれればいいのに」
冗談交じりに言ったその言葉に、レイシェル様はピクリと反応した。
「あなたもそう思う?」
「え?」
「あなたも、わたくしが王になればいいと思う?」
その声は、怒っているようにも喜んでいるようにも見えた。ただ、変わらないのは自信に満ちた目だけだ。
思っていたのと違う反応に、私は戸惑う。
「えっと、なれるんですか?」
「なれないことはないわよ。わたくしは公爵家の子ですもの」
「……?」
私がイマイチピンと来ていないという顔をしていると、レイシェル様は分かりやすく説明してくれた。
公爵家は王家の血を引く貴族で、その家に生まれた子息令嬢には等しく王位継承権というものが与えられるらしい。公爵家当主になったり、他の家に嫁ぐとその権利は失効するようだ。
「ということは、レイシェル様は次の王になれるってことですか?」
「ええ。今のところ公爵家は我が家ともう一つだけれど、その家は最近一人息子が継いだから、王になる資格を持つものはいない。実質的に王位継承権を持つのは、わたくしと殿下だけね」
レイシェル様はニッコリと笑って私に手を伸ばす。部屋は狭いので、椅子に座ったままでも十分に届いた。サラリと、大きくて長い指が頬を撫でる。
え?
「今までは、家の都合で諦めて殿下の下に回るしかなかった。本当に欲しいものも、手に入れることができなかった。でも、今回の件のおかげで殿下を廃嫡できるかもしれない」
そこで一度区切って、レイシェル様は妖艶に微笑んだ。
「ねぇ、わたくしと一緒に殿下を破滅させない?」
その誘いは、私の人生の中で最も恐ろしく、最も魅力的なものだった。
◆
あの後、ひと月ほどかけてレイシェル様と計画を立てた。今日はその実行の日だ。
王宮で開かれているパーティー。私は平民であることを隠して、カツラと化粧で変装していた。
「本当に成功しますかね?」
「あら、わたくしが信じられないの?」
私の隣では、綺麗なブルーのドレスを着たレイシェル様がグラスを傾けている。デザインは珍しいが、とても似合っている。
今日、私のメイクやドレスアップをしてくれたのは、他ならぬ彼女自身だ。バレるわけにはいかないから、と念入りに体のあちこちをいじられた。そのせいで胸がちょっとだけいつもより重い。
「レイシェル様を信じられないんじゃなくて、私がヘマしそうで怖いんですよ」
「何を心配する必要があるのよ。わたくしが準備したんだから……ほら、重心を意識して、顔は真っすぐ、顎は引いて」
私はレイシェル様の言葉で姿勢を正し、王子の姿を探した。
今日の予定としては、まずは私が王子に接近してファーストダンスを踊ってもらう。そしてその間にレイシェル様には浮気の証拠の運び込み、断罪の準備をしてもらう。
要するに、私の役割は引きつけ役の囮である。
この国のファーストダンスは、女性から男性に申し込んでペアになる。二回目以降はそれぞれ婚約者や親しい人へ、男性から女性に申し込んで踊るらしい。
つまりは、最初の一回しかチャンスがないってことなんだよね。
王子は腐っても王子。それなりに人気があるから気をつけなさい、とレイシェル様に念を押された。
「じゃあ、行ってきます」
「えぇ、後のことは任せてちょうだい」
私はレイシェル様に目配せをして、王子の下へと向かった。
すでに沢山の女性が近くで牽制しあっており、少し苦戦しながら王子の方へと進んでいく。
今日の私は、自分で言うのもなんだが、とても可愛い。
ふわふわのシルク生地で作られたアイボリーのドレスに、小さな花を散らせた髪飾り。胸元はレース素材で透けさせながらも、首元まで覆った上品なデザインをしている。どれも王子の好みを狙って着せられたものだ。
髪は明るいピンクのストレートから、緩くウェーブがかかった落ち着いた薄茶色に変わっているので、バレることはないだろう。
大丈夫、レイシェル様も可愛いって言ってくれた。
少しだけ自信を持って、王子の視界に入ろうと移動する。だが、その時誰かとぶつかり、私はバランスを崩してしまった。
「ひゃ!」
なれないヒールではバランスを取り直すのも難しい。私はどうにか転ばないように、何かに捕まろうとした。
だがその時、誰かの腕が私の体を支えるように伸ばされた。
「え?」
「大丈夫、お嬢さん?」
ポスンと私が収まった腕の持ち主は、よく見知った顔だった。
「王子……さま?」
「君はおっちょこちょいなお姫様だな。見ない顔だけど、夜会は初めてか?」
「……はい」
優しい顔で笑ってキザにくさいセリフを言う彼は、何も知らなければ恋してしまいそうなほどかっこよかった。
あぁ、そうだ。そうだった。ちょっとカッコつけたがりで、優しくて、初めて会ったあの日もこうやって、転けそうになった私を助けてくれたんだ。……数日後に再会した時に忘れられてて、ちょっとショックを受けたんだっけ。
心臓の奥のほうがぎゅっと締め付けられる。懐かしさと、かつての恋心が一気に押し寄せてきた。
けれど、私が姿勢を整えると王子の視線はすぐに遠のいていく。私は慌てて引き止めるように声を掛けた。
「あ、あの!」
「なんだ?」
「その、……私とダンスを踊っていただけませんか?」
私は一度深呼吸をして心を落ち着かせてから、そう申し出た。少し目を伏せがちに、左手は胸元の前に置き、右手で髪を耳にかける仕草をする。
目的を間違えてはいけない。今日の私は王子に一泡吹かせるために準備してきたんだ。
大丈夫、この人は最低な王子さま。もう恋なんてしてない。
再び芽生えそうになった感情を摘み取って、心の奥底に投げ捨て蓋をする。
私の精一杯のかわい子ぶりに、王子は息を呑んで見惚れてくれた。
結局王子の本質は単純で迂闊だし、浮気な性分なのは変わってないようだ。
「……! あ、ああ。もちろん」
「わぁ、ありがとうございます! 王子さまと踊れるなんて、夢のようです」
周りの令嬢方から刺さる視線は痛いが、知らんぷりをして上辺だけの言葉で王子をおだてる。あくまで初めてあったはずである私に、こんな表情をするのかと言う程に、彼の相好は崩れている。
心にチクリと刺さった痛みには、気づかないふりをした。
曲が流れ始め、王子と手を重ねて足を踏み出す。
ここ数日間はレイシェル様が相手になってダンスを教えてくれた。そのおかげで、王子相手でも少しはさまになっている。
だけど身長が違うからか、それとも服が違うからか、少しだけ踊りにくい。王子の歩幅に合わせて、なんとか曲についていくのが精一杯だ。
ちょっと待って、足がこんがらがっちゃう!!
私は何度も心のなかで悲鳴をあげながら、ヒヤヒヤしつつなんとか一曲を踊り終えた。
表情を取り繕って王子にお礼を申し上げていると、ちょうど準備を終えたらしいレイシェル様と目が合った。
私はレイシェル様が一つ頷いたのを確認して、作戦の次の段階を始める。
ダンスを踊ったら私の正体を明かして、王子から言質を取って浮気を自白させる。そうしたらあとはレイシェル様の独壇場だ。
私はニコリと王子に笑いかけて口を開いた。
「今日は、久しぶりに会えてとても嬉しかったです」
私の言葉に王子はきょとんとした顔のままなので、私はカツラに手をかけてズルリと頭からずらす。
その下から現れたのは、紛うことなきピンクブロンドのストレートヘア。この国では珍しいその色は、王子にはよく見慣れたものだろう。
私の姿を見た途端、王子は驚愕に顔を染めて目を見開いた。
「き、君、なぜ……」
口をハクハクと動かして弱々しく呟く王子の様子は幽霊でも見ているみたいだった。
さっきのダンスの件もあって、私たちはとても注目を集めているようだった。尋常ではない王子の様子を誰もが見ている。
「なぜって、元恋人が会いに来るのはやっぱり都合が悪いですか? 冷たいですね」
「何を言って……まさか、俺を追ってきたのか?」
「レイシェル様とご結婚なさると聞いて、お祝いに来たんです。申しわけありませんが、あなたのためじゃありません」
相変わらず自分が第一の言葉に、私は先ほどまで抱いていた懐かしさや愛しさが一気に霧散していく心地がした。
多分、今の会話で私と何らかの関わりがあった事を認めたとは、微塵も気付いていないのだろう。どこまでいっても愚かな男だ。
「……ねぇ、あの女」
「まさか、平民の娘じゃなくって?」
「なぜここにいるのかしら、汚らしい平民が」
もちろん、ここには学校に通う子息令嬢もたくさんいる。彼らの中には、王子と近い距離にいた私のことを知っている者もいるだろう。
疑いは確信へと変わっていき、周りのざわめきはだんだんと大きくなっていった。いつもは煩わしい陰口が、今は皮肉にもありがたい。
だけど、まだ足りない。王子の方からも好意があったのだと知らしめなければ、私が言い寄っただけだと言われてしまう。それでは断罪もできない。
「あなたはいいましたよね。いくら成績が良くても平民は王子とは結婚できないと。……それなら、なぜあの時私に好きだと、愛しているとおっしゃったのですか?」
「いや、俺は、君のことなど知らない。何と勘違いしているのかは分からないが、やめてくれ」
平然と嘘を付く王子に、私はさらに畳み掛ける。
「証拠ならありますよ。あなたが私にくれたアクセサリーも、手紙も、全て大切に取ってありますから……」
それは、王子を貶めるために用意したセリフだった。だけど、私の声は僅かに揺れる。大切にしていたのも本当で、今の今まで捨てられていないのも本当だった。
忘れようと思っていたのに、何度も捨てようとしたのに、結局思い出として残してしまったのは、何故だろうか。本当に嫌いなら、貰ったものなんてすぐさま捨てたくなるだろうに。
……あぁ、やっぱり嫌いだし、うざいし、呆れるほど考えなしだし、もう恋心だってないはずなのに、憎らしいほどに好きなんだ。
そのことを実感するとともに、私の涙腺は力なく崩壊した。今さらながら、あの時の王子の言葉が胸にポッカリと空いた穴に、深く突き刺さって重くのしかかる。
どんなに頑張っても、私はこの場にふさわしい人間にはなれない。頭が良くても、運動ができても、性格が良くても、大切な何かが足りない。
「……お慕いしておりました」
そう呟くとともに、粒になった涙は頬を伝って床に落ちる。一度零れ落ちてしまえば、後はせきを切ったように溢れ、止めようがなかった。
私がどうしようもなくなってしまったその時、ふわりと私の目元をいい香りが包みこんだ。
「淑女がそのように涙を見せてはいけないわ」
「レ、シェル、さま……」
まだ、断罪の準備は整っていないのに、レイシェル様が来てしまった。私は、焦りと激情の狭間で、どうしたらよいか分からず嗚咽混じりの声をあげることしかできない。
「……本当はあとが大変だから、なるべく控えたかったけれど……」
ボソリとレイシェル様は何かを呟くと、私の前に進み出て王子と対面した。
「殿下、よくもわたくしのものを泣かせてくれましたね」
「は? ……知り合いなのか?」
「知り合いも何もありませんよ。それよりも、殿下は今回の件についてどう落とし前を付けてくださるんですか? まさか、浮気などしていないとはおっしゃいませんよね」
表情は見えないが、レイシェル様の声は怒っているようで冷たかった。こちらからは王子の顔がよく見えて、彼はレイシェル様の様子にひどく怯えていた。
レイシェル様はそれに構うこともなく、従者に持たせていた封筒から紙束を取り出し、おもむろに宙へと投げ捨てた。
「えっ?」
「なんだ?」
「……これって」
紙は貴族たちの足元にひらりひらりと舞い落ち、その一枚を見た王子の顔が、段々と青ざめていくのが見えた。
なに? 何を投げたの?
私は、作戦にはなかった突然の行動に驚き、目を白黒させながら話の行方をうかがった。
「殿下と、この平民の娘の浮気の証拠です。まぁ、この子の方は、あなたが王子だとは知らなかったようですけれど」
レイシェル様は私をちらりと見ながらそう言った。その言葉にざわざわと話し出す周りの貴族たちに、王子の方は顔を真っ赤にして、嘘だ! と叫んでいる。
突然のことに頭が追いつかないでいると、私の目の前にも紙が一枚落ちてきた。そこに写っているのは、私と王子が中庭のベンチで昼食を食べながら談笑している写真だった。
「こんなものはでっち上げに決まっている! レイシェル、図ったな?!」
「図ったも何も、事実ではありませんか。それに、わたくし今回の件を事前にお父様と陛下夫妻に相談しましたの。そうしたら、婚約の解消を許されましたわ」
「嘘だ! そんなものは俺は認めないぞ!」
婚約解消の言葉が出た途端、王子は目に見えて焦りを顔に出した。レイシェル様はそれを見て楽しそうに笑うと、首元のリボンに手をかけてスルリと解いた。
「それは、私が男だとしても、か?」
シンと静まり返ったパーティー会場に低く響くテノールの声。皆の目は驚愕の色に染まった。
「お前が生まれてから、私は準王族の身分を奪われ公爵家に戻ることになった。そして出来の悪いお前を立てるため、六歳の頃からお前の仮の婚約者となり、女として過ごすことを強要された」
レイシェル様は壮絶な過去を、淡々と冷たい声で語っていく。先ほどまでの柔らかく芯のある女性の声から打って変わって、低く耳の奥に直接響くような声は明らかに男性のものだった。何より、喉元にくっきりと現れている出っ張りはその性別をはっきりと表していた。
「……どうして……」
みんなが息を潜めて話を聞く中、私はポツリと溢してしまった。もし、はじめに会ったときからレイシェル様が男だったのなら、私は彼にとんでもなく恥ずかしいところを見られていることになる。
ダンスの練習で転けて足をさらけ出したことや、教えられたことを達成した時に感極まって抱きついたこともある。いくら平民とは言え、そんなことをするのは家族か限りなく親しい人だけだ。
まって、それよりも、今日の着替えの時に……!!
私はそのことを思い出して、ボボボボボッと顔を赤面させた。
「なんで、」
「今までは、我が家が王家に借りがあって下手に出るしかなかった。だが、今回のことで精算は済んだ。婚約者がいながらの浮気は、たとえ王子だとしても言い逃れできない事態だ。こちらも全力で潰させてもらう。……好きな女に手を出されて、じっとしている訳にはいかないからな」
「え?」
レイシェル様はちらりと私の方を見てから、ドレスの肩部分を掴んでバッと引き剥がした。一瞬目を見張ったが、その下から現れたのは男物の正装を着たレイシェル様の姿だった。
ざわりと一気にうるさくなる声の中には、特に女性の黄色い悲鳴が含まれていた。
「な、え?」
私は顔を赤くしたまま目を白黒させ、オーバーヒートしそうな頭でレイシェル様を見る。珍しいデザインのドレスだと思ったけれど、まさかこんなことのために作られていたとは思いもしなかった。
「行くぞ、ここにはもう用はない」
「いや、はい、えっと、あれ? ん?」
すっかり涙のことや、王子への感情が驚きに塗り替えられてしまった私は、言われるがままにレイシェル様に手を引かれて広間を出る。
後ろからは何やら叫んでいる王子の声が聞こえるが、そんなことは気にせずに扉を抜ける。静まり返った廊下に出たところで、ようやくレイシェル様は私の手を離した。
「驚いたか?」
ニヤリと笑ったレイシェル様は私にそう問う。私はぷるぷると震えながら、頬を膨らませてレイシェル様を見た。
「こんな事するなんて、聞いてません!」
「言ってないからな」
全く悪びれる気もなくそう言い切ったレイシェル様に、私はムッとさらに頬を膨らませる。
「大体、男なら男だと最初から言ってくれてもよかったじゃないですか!」
「言ったらお前は面倒くさいだろう。何より、せっかく転んだところを助けてやったのに殿下と勘違いしたお前に、素直に教えるのはしゃくに触った」
レイシェル様は長い髪を一つにまとめながら、私の頬に手を伸ばしてぎゅっと引っ張った。
「いひゃいれふ! ……って、え? 助けてやった?」
「まだ気づかないのか? お前が中庭でマヌケに転けたところを助けたのは王子じゃなくて私だ。勘違いしてその後に王子に激突していったお前は見ものだったな」
クッと笑ったレイシェル様に、私はようやく合点がいった。確かに王子とレイシェル様は、髪の色も目の色も同じで、初めて会うのであれば間違えてしまいそうだ。まさか、でも、と頭はそれを否定するけれど、本人に言われた手前、事実なのだろう。
初恋を人違いした上に、別の相手を好きになるなんて恥ずかしすぎる!
私は頭を抱えた。まさに間抜けの所業だ。
……あれ、でも待って?
「あの、好きな女に手を出されてって、もしかして……」
ふと広間で先ほどレイシェル様が口にした言葉が引っかかった。王子と付き合っていたはずなのは私で、そしたら王子が手を出した女というのは私で……。自惚れでなければ、レイシェル様は私のことを好きだということになる。
「さあな」
口角を上げて意地悪くそう言ったレイシェル様は、私の髪を一束掬って口づけをすると、さっさと歩いて馬車へと向かってしまった。
私はしばらくボカンとしながら髪を見ていたが、ハッと慌てて彼を追いかけた。
「待ってください!」
その時には、王子への未練はもう残っていなかった。代わりに、私の心には新しい恋心が芽吹き始めていた。