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貴族になんかなりたくない!  作者: 斉藤加奈子


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第40話

 休診日。ミリアが部屋の掃除をしていると、ソファの下から一枚の書類が出てきた。


「これ、ジルの仕事の書類…」


ジルベスターは昨夜、ミリアの部屋へ仕事の書類を持ち込み、難しい顔をして書類とにらめっこをしていた。

その時の書類だった。


ジルベスターは今日から二週間の予定で地方視察へ出掛けたはずで、この書類がないことで困ったりはしないだろうか。と少しは心配するが、たった一枚だけである。しかもジルベスターは一番偉い人である。書類が一枚足りないくらいで誰かに怒られることはないだろうと、ミリアはローテーブルの上にそれを置き、届けるという選択肢を早速放棄した。


 掃除を終えた後は、市場へ買い物へ行く。

しばらくはジルベスターは来れないだろうから、食材は自分の分だけでいい。今日の夕食は残り物野菜と特売だった鶏の手羽元を放り込んだごった煮スープでも作ろうと決めた。

一人分の食材ということで買い物はあっという間に終わってしまい、どこかつまらないと思うミリアだった。


市場からの帰路、小さな子供のきゃっきゃとした甲高い笑い声が聞こえた。ミリアの前方で、三才くらいの男の子を間に挟み、父親と母親が片方ずつ手を取って楽しそうに歩いていくのが見えた。

ツキンと胸に小さなトゲが刺さる。


ジルベスターがいる生活はとても幸せで、満ち足りた気持ちにさせてくれる。もう、ジルベスターのいない生活は考えられないくらいだ。

一応子供はできないようにしているが、心の奥底では子供が欲しい、私の家族が欲しい。そのような願望を抱くようになってしまった。


「これ以上欲張ってはダメよ」


とミリアは自分を戒める。

身分という大きな壁のせいでジルベスターとは結婚できないが、他の女性と結婚したりしないと約束してくれている。今のところその約束も守られていて、数多く舞い込んでくる縁談話も全て断わっているようだった。


このままではいけないことも分かっていた。ジルベスターをこんな平民の女に縛り続けることも、後継ぎがいないこの状況も。いつかははっきりとさせなければならないだろう。

そうミリアは考えていた。


アパートへ到着すると外階段を駆け上がり、自分の部屋へ向かう。

するとミリアの部屋の前には、思いもよらない人物が待ち受けており、ミリアは思わず息を呑んだ。


──ヘンドリックス・グスターク


頬に傷跡を残し左腕を失くした男。

過去にジルベスターの仮初の妻だったミリアを一ヶ月間監禁した男だ。


ヘンドリックスはミリアの姿を認めると、残った腕で腰に佩いた剣を抜いた。


「貴様、どういうつもりだ」


ヘンドリックスに切っ先を向けられて、ミリアは「ひ」と小さな悲鳴を上げた。


───この人、本気だ!


このジルベスターの狂信者は、ジルベスターのためだと思えば罪のない相手でもその手にかけることに戸惑いはない。


それに加えこの男は貴族であり、平民のミリアを『処罰』だと言って切り捨てても罪に問われることがないのだ。


「毛色の変わった猫を飼う程度ならいざ知らず、貴様のせいで閣下が然るべき令嬢を娶ることもできず、後継ぎをもうけることもできぬではないか!

貴様ごときで!」


怖い。喉がカラカラに渇き、背中にじっとりと嫌な汗が流れる。ミリアを切り捨てることに何の躊躇いない男に刃物を突きつけられ、恐怖で言葉に詰まる。


「この毒婦め」


ヘンドリックスが剣を持つ手を振り上げた。


───こ、殺される!


ミリアは思わず後退しながら頭をかばうように両腕を上げた。

空いた腹部が袈裟斬りに切られる。

激しい痛みを感じながらミリアは後ろへ倒れた。

場所が階段だったためにそのまま転がるように階段を落ちて行った。


「ミリア!!」


そこへ現れたのはジルベスターだった。ジルベスターのかざした手の先から魔法が放たれる。バチバチという音と共に閃光が走りヘンドリックスに命中して動きを止めた。


ジルベスターはミリアの元へ駆けつけ、彼女を宝物のように大切に抱き上げると、近くにいる護衛の名を呼ぶ。


「サミュエル!」


「は!」


優秀な護衛は主人の意を汲んで、ヘンドリックスの剣を撥ね上げるように一撃を食らわし手から放させると、一つしかない腕を後ろへ押さえつけ跪かせた。


───いないはずのあの人の声が聞こえる。


「ミリア!しっかりしろ!自分を治癒するんだ!」


───治癒、自分に治癒…。


ミリアは朦朧とする意識の中、自分に治癒魔法をかける。

そして切られた腹部だけは治癒した後、意識を手放した。


「か、閣下、この女は生かしておいてはいけません。私は閣下とヴェルサス領の未来のためにこの毒婦を…」


ヘンドリックスは謝ろうともせず、ジルベスターのためにしたことであると訴え続ける。しかしジルベスターはヘンドリックスを無視してサミュエルにだけ声をかけた。


「サミュエル、こいつを城の地下牢へ放り込んでおけ。私はもうしばらくミリアに付き添う」


「了解しました」


ジルベスターは怒りに任せてこの男を殺してしまいそうな自分の心を抑えていた。今はこの男よりもミリアが優先だ。

ジルベスターはミリアのスカートのポケットから部屋の鍵を取り出すと、彼女を抱え直し、寝室へと運んだ。







 ミリアの意識が浮上し、うっすらと目を開けると見慣れた天井が目に入った。窓の外は僅かにオレンジが残る藍色で、夕刻であることがわかった。


「う…」


体のあちこちが痛い。ズキリと頭部に痛みが走り、ヘンドリックスに切られながら階段を転げ落ちたことを思い出した。


「ミリア、気が付いたか…」


「ジル…出張は」


「一日遅らす。私のことは気にするな。まずは自分に治癒魔法をかけなさい」


「はい…」


ミリアは自分の内にある魔力に集中して頭部の傷や全身にある打ち身を治す。

ようやく痛みから解放され、自分が寝間着姿で、頭部に包帯が巻かれていることに気が付いた。


「具合はどうだ。フェルナンドと奥方に助けを求めたのだが」


頭部の包帯はフェルナンドが処置してくれたもので、寝間着はユリアが着替えさせてくれたようだ。


「ええ、もう大丈夫。ありがとう」


「フェルナンドの奥方がスープを持ってきてくれた。パン粥くらいは私でも作れる。そのまま寝て待っていろ」


高貴な生まれのジルベスターも、ミリアと付き合うようになってからキッチンに立つようになった。

とはいえ料理と言うほどのではなく、「私にもやらせてみろ」とミリアのやっていることに興味を持ち、ちょっかいをかける程度のものなのだが。


「ありがとう」


ちゃんと作れるのか心配だったが甘えることにし、ミリアは寝たまま礼を言うとジルベスターは寝室を出て行った。


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