第37話
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日はすでに沈み、街灯が灯る時刻。
窓の外から診療所の前で馬車が止まる音が聞こえた。
ミリアは窓から下を見下ろすと、貴族用玄関に、一台の馬車が停まっているのが見えた。
「急患かしら?」
ミリアは急ぎ黒縁メガネをかけ直し、階段を駆け下りた。
階段を下りるとそこは一般用の診察室。そこから隣の貴族用の診察室へ移動し、玄関扉を開く。
そこには一台の、装飾のない平民が使うような、言い換えれば貴族がお忍びで使うような馬車が停まっていた。
馬車の中から人が下りる様子がなく、どういうつもりなのかミリアは測りかねていた。
すると御者台から御者が降りてきた。
帽子を取り、ペコリと頭を下げる御者。
「ボブさん!」
ボブは、ミリアが高級宿で生活をしていたころ、宿から軍医隊の診察室までの通勤馬車でお世話になった御者だ。
───ボブさんが御者を務める馬車ということは…。
すると内側からゆっくりと馬車の扉が開かれた。
「やあ、ミリア。元気そうだね」
片手を軽く上げたジルベスターは、どこか気まずそうにそう言った。
「閣下、どうされたんですか。どこかお加減が優れませんか」
「あ、ああ、そうだ、ゆ、指!
指先の逆剥けが!」
「逆剥け?」
「逆剥け」
差し出しされた人差し指を見ると、確かに爪の根元の皮膚がチロッとめくれていた。そしてなぜかジルベスターはミリアと目を合わせようとしない。
それにしてもたかが逆剥けで診療時間外にこんなところまで来る必要もないだろう。領主城には主治医や治癒士もいる筈で、ジルベスターが臣籍降下しているのならその治癒士に触れられることも問題ない筈だ。
「分かりました。私でよろしければ治療します。どうぞお入り下さい」
ミリアは少し呆れながらジルベスターを診療所内へ招いた。
たかが逆剥けで治癒魔法は使わない。ミリアはピンセットで丸めたコットンをつまみ、消毒薬を染み込ませてちょいちょいと拭く。次にコットンを替えて軟膏を付けると逆剥けの上へ置き、一番細い包帯で固定した。
「はい、終了です」
「ありがとう」
そう礼を言うジルベスターは落ち込んでいるような、どこか元気がない様子だ。
「閣下、如何なさったのですか。会いに来て下さるのは大変嬉しいのですが、婚約者様がこのことを知られると哀しみますよ」
「いや、彼女は、婚約者ではない。
婚約は破談となった。
ミリア、ブリジット嬢が申し訳ないことをした」
どうやらジルベスターの元気がない様子はミリアに対する申し訳なさから来るものだったらしい。
「いえ、離婚をしたのにいつまでも閣下に甘えていた私が悪かったのです。閣下が謝る必要はありませんよ」
「私たちは友人だろう?
友人ならば少しは甘えてくれ」
ジルベスターはまだミリアのことを友人と呼んでくれるらしい。
それがミリアの心をほんのりと温かくした。
「ありがとうございます。
閣下も私にできることなら何でも言って下さいね」
ミリアが返した言葉は社交辞令のようなものだった。本気でミリアにできることなどあると思っていないし、あると言うなら臨時で治癒魔法を求められた時ぐらいだろうか。
そんな軽い気持ちで言った言葉だったが、それがよくなかった。
「ならばお茶でも馳走してくれないだろうか」
「え?」
「友人だろう?」
「…はい」
ミリアもいつかは友人を自宅へ招こうと思っていた。例えばニコルとかニコルとかニコル。今はまだニコルしか思い浮かばないが、まさか王家の血を引くお方を招くなど想像だにしなかった。
「ちょっと待って下さい!
五分!五分だけお待ち頂けますか!」
「ああ、私はただの友人だから、気遣いは───」
気遣いは不要と言い切る前にミリアは急ぎ部屋へ戻る。
普段から整理を心がけているタイプではあるが、飲みかけのマグカップやくしゃりと置かれたブランケット。そして読みかけの恋愛小説。それらを慌て片付けた。
そして診療所へ戻り、ジルベスターを自宅へと案内する。
この時のミリアは気が付いていなかった。独り暮らしの女性の部屋に男性を招き入れる迂闊さと、この上なくニコニコしたジルベスターの嬉しそうな表情を。
「こちらにお掛けになってお待ち下さい」
「ありがとう」
ミリアに勧められ二人掛けのソファに座る。ジルベスターはぐるりと部屋を見渡すと壁に飾られた猫の仮面を見つけて思わず頬が緩んだ。ジルベスターが街の案内をしたあの日のことは、ミリアにとっていい思い出として残っているようで嬉しくなった。
ジルベスターがミリアの引っ越し先を知ったのは、一枚の決済書が切っ掛けだった。
下町の家具屋から届いた決済書を見て、ミリアが家具を購入したのだと気が付いた。
今座っている二人掛けのソファは、素朴で実用性重視のものだ。
他にも二人用のダイニングテーブルや、ラック、食器を納めたキャビネットなどが置かれ、狭い部屋に合わせて全ての家具がこじんまりと収められていた。
あまりにも安い購入金額だったので、粗悪品でも購入したのかと心配したが、実際に見てみると平民の感覚では一般的なものなのだと知った。
その家具屋の決済書に書かれた『搬入先住所』を見てミリアの引っ越し先を知り、ジルベスターは居ても立っても居られなくなり、ここまで来てしまった。
ブリジットの件でミリアは自分のことを嫌っているのではないか。
二度と会いたくないと思っていないか。
そんなことを気にしていたが、ミリアは気にした様子はなかった。
ミリアはキッチンで湯を沸かしている。キッチン上部に備え付けられたラックに手を伸ばし、お茶の缶を取ろうと、爪先立ちになった。
来客用として購入しておいたお高めの紅茶は、少し取りづらい場所に保管していた。
ミリアは精一杯伸ばした手をプルプルと震わせていたが、あともうちょっとというところで後ろからジルベスターがそれを手に取った。
「これか」
「あ、それです。ありがとうご…」
ジルベスターはお茶の缶をミリアに手渡すと、思いの外彼女の顔が近くにあることに気が付いた。
吸い寄せられるように顔を寄せる。
黒縁メガネが邪魔だと思った。
そっとメガネを外し、唇を重ねる。
優しく、優しく、ミリアの温もりを感じ取るように優しくキスをした。
唇を離すと、ミリアは瞳を潤ませ頬を上気させていた。
そんなミリアにジルベスターの理性の箍は今にも外れそうで、これ以上はヤバいと感じた。
「これ以上は性急過ぎるな。
お茶はまたの機会に馳走になろう。
また会いに来る」
そう言ってジルベスターは階段を降りて行く。しばらくすると馬車が出て行く音が聞こえた。
ミリアは何が起きたのか理解できず、しばらくその場から動けなかった。




