昔有名な歌手と昔有名な競走馬
見えなくしているものナニ
1章 傷ついた競馬馬
上品な老婦人が一頭の馬を連れて来た。
老婦人は、昔有名な歌手だった。
馬は、昔有名な競馬馬だった。
歌手は名前を言えば、だれもが知ってる歌手だった。
馬は、有名なダービーを制したチャンピオン馬だった。
馬と歌手は老いてしまった。
歌手は引退した競馬馬の終末を、見届けるために引き取った。
二人は静かに牧場で余生を過ごしていた。
そして今日は、馬を湯治のために温泉へ連れて出したのだ。
馬と歌手は同じ目をしていた。
アーモンド形の優しい目をしていた。
いつまでも、いつまでも馬は温泉の湯につかってていた。
歌手は、なんども、なんども馬の脚にお湯をかけてやった。
山中の静かな温泉の空は、青い群青から朱い茜色に染まり、夕陽が傾いていた。
歌手はしばらく、歌うことを止めていた。
いつの間にか、歌を口ずさんでいた。
かすかな声で、あの懐かしい聞きなれた歌声で
好きな歌を歌ってた。
それは自分の曲ではなくて、幼い頃の童唄だ。
馬はその歌を、じっと聴いている様子だった。
馬は、自分の寿命を知っているかのようだった。
歌手は大変だろうが、
誰の助けも無く 自分一人で馬を見送ることに決心していた。
2章 競走馬の想い出
夕闇が訪れ、朱い空は辺り一面を覆っていた。
遠くの山々を暗いシルエットの背景に置いて
歌手と馬を照らし上げた。
馬は頭をもたげ、遠くを見詰めた。
それは秋の国内最大のダービーだった。
会場は割れんばかりの大歓声がこだまし、
迫力あるアナウンスは熱狂かし、
ファンファーレが鳴り響いた。
勿論馬は大本命で、優勝候補間違いなしの前評判だった。
馬は駈けた。生まれ育った緑の大草原の中を
兄弟や、母やおじいさんとも一緒に駈けていた。
青空の下 無心に駈け抜けた。
彼が先頭を切っていた。
みんなが彼を追った。
気持ち良い風が、楽しかった。
みんなと一緒に走ることが嬉しかった。
馬は一気に飛び出した。
兄弟が待つところ、母やおじいさんが待っているところに向かうように
難なく、先頭で走り抜けた。
彼は幸せだった。
体は逞しく力に溢れ、何の疲れも無い。
足は快く、容赦なく駆け抜けた。
もはや彼には誰も追いつけなかった。
彼の圧倒的な完勝であった。
彼は競馬界のヒーローとなった。
でも、もうあの生まれ育った緑の草原には二度と戻れなかった。
兄弟や母やおじいさんと一緒に走ることもできなかった。
僕は誰よりも速く走れる。
世界のチャンピオンにもなっのだ。
でも僕の求めていたことは、これだったのか?
3章 三冠馬を制した翌日
馬は後ろ脚に腫れを感じていた。
足は熱っぽかった。
小さな傷口にウイルスが炎症を起こしたようだ。
それからというものは、もう馬は走れなくなっていったのだ。
その時出会ったのが、一人の歌手だった。
歌手は、大きなヒットソングと共に華々しいデビューをした。
レコードやCD売り上げ、そしてテレビ出演や
リサイタル、コンサートの開催と多忙な毎日だった。
歌い続けて来たある日、歌手に疑問が浮かんだ。
自分の人生って?
春の日に桜を、夏の日に海へ、秋にピクニックへ行ったことがあろうか?
歌詞にある言葉の意味が分かっていない。
本当の海って?桜って?家族と過ごす日々?友達と山歩きって?
私に人生ってあったと言えるのか?
その日以来、歌手の姿はぴったりと消えてしまった。
何年か過ぎて、歌手の話題は人々からも消え去った。
そんな時、歌手はダービーで三冠馬となった後、静かに余生を送る名馬の記事を見た。
馬は老いてはいたが、堂々たる姿にはチャンピオンの面影を写していた。
旅に出た老いた歌手は、その名馬と出会った。
歌手は馬のアーモンドの目を見つめながら考えた。
そしてその瞳を信じた。
そこで、走れなくなった馬を引き取ることに決めたのだ。
馬も喜んだ。
自分とよく似たアーモンドの目を持った歌手の目には
悲しみがいっぱい溜まっていることを見た。
馬は瞳を信じた。
老いた馬は、ゆっくりと歩むのだった。
この歌手と、どこまでも どこまでも
ついて行くことを決めた。
老いた歌手は、馬の手綱を握り締め
ゆっくりと ゆっくりと導いて行くのだった。
みんなに等しく有るものナニ