第7章
あんなに私の頭の中を支配していた藍子との暮らしだったが、いとも簡単に終わりは訪れ去って行った。私は藍子の小学校に連絡をした後、藍子を隣町の施設まで見送った。藍子の荷物は少なくキャリーケースには学校の教科書と必要最低限の洋服だけしか入っていない。これから彼女はどんな荷物を背負っていくのだろうか。
去って行く藍子は一度振り返り私に向かって口角だけを上げた笑顔で手を振った。再び前を向いた藍子の背中から何かを読み取るほどの力は私にはない。私は結局、彼女にとっていい大人にはなれなかった。
私が藍子に抱いていた感情を誰かは母性だと言うのかもしれない。しかしそれは母性などではなかった。ただこの世のあらゆる理不尽から藍子を守ってあげたかった。それもこれも私の一方的な思い上がりであり、藍子を守った姿を私の両親に見せつけたいという心の底にこびりついた汚れが私を突き動かしていたのだとも思う。どちらにしろ母性などというものなどでないことだけは確かだ。
部屋のダイニングテーブルの上には藍子が忘れていった消しゴムが置かれていた。四つの角はすべて丸くなり所々えぐられた跡のある汚い消しゴム。私はそれをゴミ箱に投げ入れようとしたが、思い直してスカートのポケットの中にしまった。取っておいてもしょうもないもの。でもその汚い消しゴムが藍子が私に残した置き土産のような気がして捨てられなかった。
ひとりになると突端に部屋がこんなにも広かったことを思い知らされる。裕也も藍子もいなくなった部屋で私は壁にもたれかかりながら、嵐の去った後の光に目を細めた。梅雨が終わり紫陽花は枯れ、外では蝉が短い一生を謳歌している。数カ月後にはその蝉も息絶え私は道路の端に転がるそれを横目で見て何事もなかったように通り過ぎるのだろう。足を前に動かす私の頭上には木々たちが赤く染まった葉を揺らす。私にとっては激動の一カ月でも誰かにとっては凡庸な一カ月で、季節は人間の事情などとは関係なく過ぎていく。
大きく窓を開け放つ。もちろん風は答えなど運んでこない。今の私の中からは、過去の記憶も現在やるべきことも訪れるであろう未来までも何もかもが消えていた。ただ息をしているだけの体だが、きっと二時間後にはお腹が空き私は生きることへの執着心から食べ物を食べる。
空っぽの心を抱えて明日からどう生きていこうか。私は鼻と口を使って目一杯に風を吸い込み、ゆっくりと腹の底に沈めた。