第6章
藍子の周りは、触れたらきっとピリピリするような薄い膜で覆われているようだった。私は何度もそれに触れようと試みては手を引っ込めてを繰り返し、時計の短針が何周したのか、日めくりカレンダーが何枚減ったのか、そこからわざと意識を遠ざけ続けた。
そうこうしているある日、数カ月ぶりに姉から電話が来た。彼女は現在二人目の子どもを妊娠中で常に眠く足のむくみが酷いという。妊娠経験のない私はその返答が思いつかず、さっきから「へー」とか「大変だね」を連呼していた。
姉は三十歳のカウントダウンが始まった二十八歳で今の夫と結婚した。結婚一年目で一人目の子どもを妊娠中しその間に郊外にマイホームを購入。二人目の妊娠がわかった際に正社員として働いいていた会社を辞めた。絵に描いたような、いわゆる「女の幸せ」のど真ん中を突き進んでいる。
一通り言いたいことを言い終わると、姉は父が一時的に東京に帰って来ると告げた。母の病死以降、父は出身地である栃木県に身を寄せている。栃木のどこに誰とどのように暮らしているのか私は知らない。知りたくもなかった。
姉は父と時折連絡を取っており父は孫に会うために東京に来るようだ。姉は子どものおもちゃや洋服を買ってもらえる絶好の機会だと意気込んでいたが、私は今更父に会ったところで話すことなどない。同じ家で暮らしていた姉妹でもこうも父親を見る目が違うのかと身震いがした。
だが姉は「父は会いたがっている」と強制的に私と父親を引き合わせようとする。あまりにも姉が引き下がらないため私は諦めた。
「父と二人でなら会ってもいいよ」
過去にかけられた呪いに目を向けることで、藍子と向き合う糸口が見えるかもしれないというかすかな願いが片隅にあったのかもしれない。いっそのこと、私は父に藍子のことを話そうと思った。彼がどのような反応をするのかは未知であり怖いもの見たさのような好奇心まで湧いてきた。
私が父と会ったのはそれから数日後の日曜日。まだ梅雨は明けていなかったが空は嘘のように晴れ渡り、強い日差しが私の頭皮をじりじりと焼いた。毎年、夏になると帽子を買おうと思うもののいつの間にか夏は終わっており、道端にはいくつものセミの死骸が転がる。
父は待ち合わせをした渋谷駅の近くのカフェにすでに到着していた。私は新宿駅が良かったが父が渋谷を指定したためそれに従った。新宿と渋谷は随分と違う街であり私にとってその違いは重要なことであったが、父に歯向かう勇気は合った時にとっておこうと思った。
アイスコーヒーをストローですすりながら父はホラー小説を読んでいる。
実家の子ども部屋は物置状態であったが父の部屋だけはしっかりと確保されていた。その扉は人の侵入を拒むように冷たい色をしていたことははっきりと覚えている。しかし私はなぜかその色に親近感が湧き、父の不在時に何度か部屋に足を踏み入れていた。仕事机の隣には大きな本棚があり、ホラー小説や歴史小説、推理小説が隙間なく並べられている。私はその一冊を手に取り一撫でしては本棚に戻す。本の中身を読むことはなかったがそこにある本という存在がやけに気に入っていた。
一人暮らしをするようになった私は、今まで読むことのなかったホラー小説や歴史小説、推理小説を好んで読むようになった。最初は父の好みだということを忘れていたが姉に指摘され過去の記憶がよみがえった。姉は私と父は似ていると言う。似ているのだからきっと仲良くできると。
父に声をかけると彼は読んでいた本を閉じ物語を中断させた。最後に会ったのは母の葬式であったが、その時から見た目はあまり変化していない。皺ひとつない清潔感のある服装は田舎で暮らしている初老の男の生活と似つかわないように感じた。
「久しぶりだな」
「そうだね。久しぶり」
他愛ない挨拶を終え私は父の向かいの席に座った。向かい合ったはいいものの、私はその瞬間なぜ自分が今ここにいるのか理由がわからなくなった。確かにさっきまで頭の中でしていたはずの父との会話のシミュレーションは急に輪郭がぼやけ、もう少しも形を残していない。私は動揺を隠すようにウエイターを呼びホットティーを頼んだ。本当はアイスコーヒーが飲みたかったが父と同じものを頼むことへの抵抗感から、自然と口からはホットティーという単語が飛び出していた。
父は私と目を合わせようとしない。私はシミュレーションしていた会話を一から組み立て直すために窓の外を見ながら、父にバレないように深呼吸を二回反復する。
渋谷の路上は万能感に溢れた大学生らしき若者で溢れている。ここが新宿とは違う点だ。この日も私の前を流れる若者たちは思い思いに服装やメイク、言葉や歩き方で万能感を表現していた。いつから私は若者をそんな風に見るようになったのだろうか。自分の体は確実に歳をとっていくが、その中身には幼稚さがマーブル模様のように混ざり込んでいて自分という人間が一体何歳であるのか年々ぼやけていく気がする。
私の中にはまだ子どもだった自分が膝を抱えて座っているのかもしれない。藍子という子どもが現れてから一層、私は母と父から愛情を注がれなかったという過去に固執しているのだろう。ただそれを父に悟られるのだけは避けたい。
「あなたたちの愛情なんてなくたって、私は今、幸せに暮らしている」
そう示してやりたかった。一方で、そんなことは自分を大人らしく見せるための稚拙なプライドだということも自覚しいている。私は一体何歳なのだ。ウエイターが運んできたホットティーをすすろうとしたものの、熱さに負けた唇はすぐにカップから離れた。やっと父が口を開いた。
「今の生活はどうなんだ」
またしても当たり障りのない聞き方だ。
「仕事も続けてるし何も心配されるようなことはないよ。お父さんはどうなの」
藍子のことは言い出せなかった。こんな会話をするために私はここにきたはずではない。父は数秒の沈黙を挟んだ後、栃木にいる内縁の妻との暮らしを話し始めた。父はすでに六十歳を過ぎており私はてっきり細々とひとりで生活しているものだとばかり思っていた。そんな寂しい老後を紛らわすために娘と孫に会いに来るのだと。女と暮らしているとは予想だにしなかった展開だ。
父によると内縁の妻は三十歳後半で小学生の大悟という名前の息子がいるという。入籍をするつもりはないが大悟は本当の息子のようにかわいく、父にとてもなついている。
「大悟と妻と暮らしているとふいにお前と母さんのことを思い出してな。ほら、二人とも仲が悪かっただろ。喧嘩ばっかりしていて父さんは居心地が悪かったよ。まぁ喧嘩するほど仲がいいって言ったりもするしな」
誰かにとっては継続的な苦悩でも、誰かにとっては終止符を打った過去ということは往々にしてある。
「今の妻と大悟は仲がいいから家の中がポカポカ温かいんだよ。神様が俺の過去の我慢を評価してくれたのかもしれないな」
私と母の苦しみは父の目にはただの親子喧嘩に写っており、自分はその被害者であり我慢してやっていたと主張したいのだろう。父のこの言葉を聞いた瞬間、濁った水を目一杯ためていた私の心のダムは崩壊した。
「親のくせに」
状況を飲み込めない父の黄ばんだ目がこちらを向いた。私は熱いホットティーを無理やり体内に流し込んだ。喉は悲鳴を上げるが私の手は動き続ける。私の体すべてが自己を主張し始め制御不能を起こしている。喉の言うことを手は聞かない。頭の言うことを唇はきかない。右足は椅子から立ち上がろうとするが左足はそこにとどまり続けようとする。
「どこまでも他人事だねあんたも親のくせに。あの時の私とお母さんがどんなに苦しかったか想像したことが一度でもあった? 私にとっては今でもあの時の地獄は過去になんてなってないんだよ」
頭からは今すぐに口を塞いで店を出ろとの信号が送られている。しかし口は言うことを聞かない。この言葉は誰が紡いでいるのだろうか。私が私じゃなくなっていく。
「あんたはいつだって傍観してただけじゃん。傍観は被害者なんかじゃなくて加害者と一緒だよ。どうして私のこともお母さんのことも無視し続けたの? 結局あんたは夫にも父親にもなりきれなかった出来損ないってことだよ。私は絶対に一生許さないから」
私は父のことをずっと憎んでいたがその感情を父にぶつけたことは一度もなかった。父も今になってこんなことを言われるとは思ってもいなかっただろう。ただ私は今になったからこそ、この言葉が言えたのだと思う。子どもと大人、両方の気持ちが複雑に交差している今だからこそ。気が付くと私の両目からは生暖かい涙がボロボロとこぼれていた。いつもの涙よりも、若干、温度が高い気がした。
「すまなかった」
そう呟いた父の姿は一回り小さくなったように見えた。視線を上げた先には彼の大きな喉仏があった。きっとその喉仏は彼の死後、肉体が高温で燃やされた後もしっかりとした形を保ち内縁の妻が持つ箸で骨壺に封印されるのだろう。そこに私はいない。
いつの間にか私の体はひとつに戻り、それは以前の私ではなくなっていた。無意識に体の底から力がみなぎってくるようで今まで味わったことのないような恍惚感があった。窓の外には相変わらず万能感に溢れた若者が歩いている。今なら私だって彼らと同じように歩けるはずだと思った。
そんなことを呆然と考えていた。あれからどのくらいの時間が経過したのかははっきりとしないが、父の姿は見当たらず机には読みかけの小説と伝票だけが所在なさげに残されている。
小説にかかる紙のカバーをめくると『隻眼の罪』とのタイトルが書かれていた。まだ読んだことのない本だと思い私はそれを一撫でして鞄にしまった。さっきまでの高揚感は消えており、私は冷めた頭で伝票の中身を確認し厭らしい笑みをこぼした。
きっちりと父の頼んだアイスコーヒーと自分の飲んだホットティーの代金を支払うと、電車に乗り込んでまっすぐと自宅に向かった。電車の中は女性に向けた脱毛の広告で溢れている。いつも通りの光景だ。
「肌がキレイになれば人生は輝く」
そんな謳い文句に乗せられて私も数年前に脱毛を始め、今では全身、産毛程度しか毛が生えていない。しかし人生は輝いているだろうか。私の歩く道は限りなく灰色だ。真っ暗ではなくとも真っ白く光照れされてはいない。当たり前のことだが脱毛したところで人生が光り輝くわけではない。それでも人は何十万というお金をそこにつぎ込み何かをやり遂げた気分になる。
私は広告を引っぺがしたい衝動を抑えながら窓の外に流れる景色を見ることに集中した。久しぶりの晴れの日ということもあってか布団を干している家が多い。脱毛をするより太陽の光をいっぱい吸った布団にくるまった方が人生は光り輝く気がすると思った。
家では藍子がテレビの前に座っていた。テレビからは笑い声が漏れているもののどうにも彼女がそれを観ているようには思えない。ただ一秒毎に変化する画面を眺めているだけのようだった。
私は藍子に話があると伝え二人でテーブルに向かい合わせに座る。沈黙の発する音に耐えられそうもないのでテレビは付けたままにした。
藍子は察しがいいから、すでに私の発する言葉から他意を感じ取ったようだ。足元に向けられた藍子のまっすぐな視線を追うがそこには何も見当たらず、昨日の夕食のご飯粒でも落ちていれば少しは救われるのに。付いたままのテレビから発せられる雑音や米粒の妄想は、私の心根の弱さを象徴している。
藍子の眉毛あたりに目をやりながら私は藍子の意志を問う。児童養護施設に入りたいのか、このまま家にいたいのかどちらなのか。心臓は今まで生きてきた中で一番と言っていいほど上下左右に大きく揺れた。
私の言葉を聞いてもなお、藍子は架空のご飯粒を見つめている。言葉というものは耳に入っただけではどうにもならない。音が脳にまで届き意味を理解しようとしないと何の意味も持たない。藍子はそれを避けているのかもしれない。
私は誘導尋問のようだと思いながらも、聴き方を変える。
「このまま家にいたかったらいてもいいんだよ。どうする?」
藍子はやっと私の目を見た。その目には今まで見た彼女の目の中で一番しっかりとした意志が宿っていた。
「施設に行く」
私の心臓は一度だけドクンと大きく揺れたものの、以降は揺れがピタリと治まった。「面倒を見てやったのに」とか「薄情な子どもだ」などと藍子に対して自分はそのような感情を抱くと思っていた。親が子どもに対してそのような暴言を吐く物語は沢山あるし実際にそういうことを言う人もいる。しかしいざ藍子の答えを聞いた私はそのようなことは思わなかった。藍子の答えに納得し素直に受け入れられたことが自分でも不思議だった。自分の意志を真っ直ぐな目で伝えた藍子のことがなんだから誇らしくさえ思えた。誰にもあなたの人生を指図する権利などない。あなたの人生を歩けばいいのだから。
「短い間だったけど優しくしてくれてありがとうございました」
十歳の子どもに気を使わせる一言を言わせる自分の情けなさは変わらなかった。