第5章
藍子との生活を始めてから、二週間ほどが経過した。朝は藍子と一緒に家を出て、仕事から帰ってくれば藍子と一緒にご飯を食べる。相変わらず藍子は私にとっては「手のかからない」少女であった。
高校時代、同じクラスには毎日遅刻をする女子生徒がいた。彼女は非常に手のかかる生徒であったが、担任は「仕方ないな」と言いながらも嬉しそうに彼女の世話を焼いていた。一方で手のかからない生徒であった私は担任から見向きもされなかった。手がかからないからといって誰かに評価されたり大切にされたりするわけではないのだと私はその女子生徒と担任から学んだ。
藍子の担任である原先生から「学校に来てほしい」との連絡が入った。職場には藍子と暮らしていることを話していない。銀行は面倒なことも少なくないが有給を取得する理由を聞かない上司でよかったと思う。今までのあれこれを同じ職場という理由だけでつながっている人々に説明するなどまっぴらごめんだ。
職員室に行くと私は最初に学校を訪れた時と同じ応接室に通され、あの時の重々しい空気が蘇ってきた。今日は雨だからなのか窓が閉められていることだけが救いだ。
部屋に入ってきた原先生はやはりあの時と同じ位置に座って、家での藍子の様子を私に尋ねた。一瞬、嘘の藍子の姿を報告してしまおうかとも思ったが、柔らかな物腰に強さを内包したような原先生の声にはすべてを見透かされているような気がしてありのままを話した。
決していい出会い方をしたわけではない原先生と私だが、私は原先生が嫌いになれなかった。声だけでなく、原先生のふくよかな体の周りには今まで自分が味わった苦しみを優しさに昇華するような素直な空気が漂っている。
原先生はあの日の取り乱した様子が嘘であったかのように落ち着いた表情で、母親が死ぬ前から藍子は大人びた落ち着きのある子であったと説明した。藍子は友達の数は多くないものの、優しくて物分かりにいい子だという。
私は原先生に裕也が失踪したことをまだ伝えていなかったのを思い出し、「藍子の父親は最低な野郎だ」と罵倒したい気持ちを抑えながら原先生の空気感に合わせた口調で状況を説明した。彼女は数秒、口をあんぐりと開けたもののすぐに閉じ、私の手を握りながら静かに言った。
「大変でしたね。でも、あなたはひとりじゃないから大丈夫よ」
私の体は一瞬びくりと反応した。いつもであればやけにつるつるとしたフレーズに嫌悪感を示すところだが、原先生の喉から発せられるその言葉は不思議と私の心に染み入った。
「あの時、父親である彼にも自覚を持たせることを言えていればこうはならなかったのかもしれません」
原先生はそう嘆いた。ただ私はそうは思わない。原先生は人の善意を信じすぎている。仮にあの時、原先生が裕也に父親としてどうこうといった説教を垂らしていたとしても、きっと裕也は私と藍子の前からそそくさと逃げただろう。裕也は三十数年間、ずっとそうやって生きてきたのだ。今更、誰かの一言二言によってそれが変わることはないのだと思う。私は裕也と数年間の月日を共にした仲だ。美しい愛情はほぼほぼ消えていたとしてもお互いの性質は嫌でも頭に残っている。結局、人は自分の言葉によって自分を納得させない限り行動を変容させることはできないのだ。
そう原先生にも伝えようと思ったが彼女の目が潤んでいるのを見て止めた。この涙は私のための涙なのだ。原先生の涙はきっと私が流す涙よりも少しだけ温度が高いのだろう。私の言葉によって私のために流した彼女の涙の温度を下げてしまうのは気が引けた。
ただ一方で、もしここで私が原先生に思いの丈をそのままぶつけたとしたら、私達は藍子という存在を介してではなくひとりの女同士として深い仲になれるのかもしれないと思った。原先生の言葉通り私はひとりではなくなるのだろうか。けれども私は「仲良くなる」ことよりも「嫌われない」ことを優先する。この一線を越えれば、私はまた自分の感情を制御できなくなるかもしれない。嫌われるのであれば無の存在である方がいい
「過ぎてしまったことはどうしようもありません。あの人がいてもいなくても、私の生活はさほど変わりませんし、むしろいない方が面倒が減りますから」
私はそう言ってぶっきらぼうに微笑んで見せた。すべてではないが、これも嘘ではない。藍子は十歳でも自分のことを自分でやる。しかし裕也は自分のことを自分でできない人間だ。またはできるのにしなかったとも言えるだろう。部屋を散らかしたり汚したりする人間が消えたことで私の家事をする量は確実に減った。
「私の旦那も同じよ。なんで女ってだけで家の仕事を無償でするのが当たり前って思っちゃうんでしょうね。でもきっと、時代と共に変わっていくはずだから希望を持って」
原先生は眉間にしわを寄せながら言った。藍子のことがなければ私達が交わることは一生なかった気がする。それでも女という共通点だけで、私は原先生と一瞬、心が通じ合った気がした。
原先生と学校で話して以降、私は藍子とちゃんと向き合うことを心に決めた。藍子が私を嫌いだとしれも藍子の心の声を聞き出し、児童養護施設に行きたいのか、このまま家にいたいのかを知ろう。もし藍子がうちにいることを望むことがあれば私はかまわない。血のつながりの有無など重要なことではなく、私は藍子にとって一番身近な存在になりたい。あれほど残酷な言動をしておきながらこのようなことを望むのがおかしなことは自分でもわかっている。藍子の答えはほぼ出ているようなものなのだから、私はそれを正面から改めて突き付けられるのだろう。
雪ちゃんのように常識の外に飛び出せたら、原先生のように曲がりがない温かみのある人間になれたなら。そんなことを切望しても私は私でしかなく、このままの惨めな姿で藍子と対峙するしかないのだ。
私は家の窓を思いっきり開けた。ここは五階だから下を覗くと道路を歩く人々がごま塩のようにとても小さく見える。私の頭の中は急に熱を帯び始め、胃から苦い液体がこみあげてきた。不意に風が強く吹いた気がして私は咄嗟に窓を閉めた。