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第2章

裕也と出会ったのは今から三年ほど前のことだった。私は女子大を卒業して以降、銀行員として働いており、そこの同僚の紹介、いわゆる合コンで知り合った。

彼は有名大学を卒業した後、そこそこ名の知られた商社で営業として働いていた。顔の造形は人畜無害という言葉がぴったりとあてはまるシンプルさが特徴だ。趣味は映画観賞に読書、ちょっとマイナーな音楽を聴くこと。そんなありきたりの共通点が私達にはあり、当時の私の目にはなぜか魅力的に映った。

何度か目のデートを経て、裕也からの告白で私たちは恋人関係へと発展。そこから一年ほどで同棲を始め、今は初対面の少女と三人で異様な時間を共有している。

この三年間、裕也が私にとって常に魅力的であったかと聞かれれば、それは違うと即答する。趣味が通じ合ったとしても、一緒に過ごす時間を重ねるにつれ、生物として心底で通じ合わないと感じることが多々あったからだ。そっくりそのままの思いを、裕也も私に対して抱いていたかもしれない。

たとえば、巷では読書をすると共感能力が培われると言われているが、裕也はそれがケースバイケースであることを私に証明した。彼は誰かの悲しみや苦しみに寄り添うという行為をしない。それがたとえ形だけであったとしてもだ。

一緒に観ていたテレビのニュース番組で若者の貧困についての特集がされた際には「人は生まれてから死ぬまで、みな自分自身の意志によって選んだ道を歩いているのだからすべては自己責任だ」と鼻で笑っていた。失敗したり道を外れた者は、「能力不足である自分を恨め」というのが裕也の道理なのだ。

しかし貧困という背景には、生まれた土地や家族、周囲にいる人間の影響がグネグネと入り込んでいる。私は選択肢を持てないことが貧困なのではないかと反論したが、私の主張を聞いた裕也は途端に不機嫌になり、それ以上議論を交わすことはしなかった。彼は家族や友人の言うことは受け入れられても、恋人である私の言うことは信じない。

では裕也が自分自身の力量だけで今の環境を手に入れたのかと言えばそうではない。神奈川県横浜市で生まれ両親は二人とも揃っており、おまけに母親は専業主婦。一軒家で育ち学生時代は塾にも通っていたし、サッカー教室に行きたいとねだれば、両親は笑顔で望みをかなえてくれた。好きな女の子に彼氏がいたとか、鼻や身長がもう少し高ければとか、彼にとっての悩みは色々とあっただろうが、生育環境としては恵まれている。そんな立場の人間から吐き出される自己責任という言葉など「暴力でしかない」と私は思う。だから、私達は根底ではけっして通じ合わないのだろう。

毎日が平穏に過ぎていると思われがちなこの社会でも、生まれた場所によって一人ひとりの人生は大きく変わる。自分の見てきた景色だけがすべてではないのだが、裕也にはそれを想像する力がない。または見ることを避けている。そんな彼の共感力の無さが、私はずっと薄気味悪かった。

それでも、私は裕也と暮らし続けている。それは彼に対する愛情と言うよりも、三十歳を過ぎた辺りから周りに既婚者が増えたという焦りや、もし別れたらこの先相手が見つからないのではないかといった不安が判断を鈍らせているからだ。私だって、裕也のことを罵れるような正々堂々とした強く清らかな人間ではない。むしろ周囲の目を気にする弱くて卑怯な人間だ。

しかし、裕也との惰性で繋がれたような関係ももう終わり。過去と現在に向き合わなければいけない藍子という存在が現れた以上、このままののらりくらりと自分も相手も騙し続けることはできない。私達は嫌でも自分と相手の本性と対峙しなくてはいけない時がきたということだ。

私はやっとの思いで包丁とフライパンを動かし、二人に焼きそばを振る舞った。焼きそばであれば好きでなくても嫌いな人はいないだろうとの妙案だ。

藍子は一人分の焼きそばを何も言わずに完食したが、その額にはうっすらと汗がにじんでいた。汗をかくにはまだ早い季節であり、私は体温計を藍子の脇に挟み込む。体温は三十八度を超えていた。「父親」という称号だけを持った男と見ず知らずの女に挟まれ続ける生活が続くのかと思えば、熱くらい出したくもなるだろう。この週末はとりあえず藍子を寝かせておくしかない。私は何度も藍子の母親の携帯に電話をかけたが、やはり意志を持たない女の声が定型文を繰り返すだけだった。

藍子の通う小学校へは月曜日に行こうと裕也と話し合った。「話し合った」と言うよりも私が一方的に話しを付けたという方が正確かもしれない。裕也はこの場に及んで有給の取得がもったいないと言って嫌がったが、私の大げさな溜息を聞いて観念した。

今はまだ嫌いな食べ物を口の中で転がし続けている子どものような態度だが、現実の輪郭が明確になるにつれ、裕也だって父親としての自覚を大人しく飲み込むだろう。学校に行けば藍子の母親だってすぐに見つかるはず。そうすれば、彼女と裕也に話をさせて私と裕也の関係にも決着が付けられる。そんな呑気な展開を考えていた。事態が予想以上に複雑怪奇なことなど知りもせずに。

月曜日になり、熱の下がった藍子と共に私と裕也は小学校を訪れた。学校は家から電車で二十分ほどの駅が最寄りで、私と藍子と母親は、案外近くで暮らしていたことを知った。一度くらい、どこかですれ違ったことがあるのかもしれない。

駅前の廃れた商店街を抜け五分ほど歩くと、古びた学校の正門にたどり着いた。まずは三人で職員室に足を運ぶ。すると、藍子の担任だという眼鏡をかけた中年の女性が藍子めがけて速足で駆け寄ってきた。どうやら藍子は四年一組の児童で、この女性は原先生という名前らしい。原先生を見た藍子の顔は少しほころんだように見えた。

しかし原先生は浮かない表情で藍子に教室に行くように告げ、残された私と裕也は職員室に隣接している来客室に通され、少しの時間待つように言われた。五分ほど待ったところで原先生と校長だという初老の男性が部屋に入ってきて、私と裕也の目を見てはっきりと口を動かした。


「藍子ちゃんのお母さんは一昨日、自ら命を絶ちました」


出された緑茶がやけに苦く感じた。開けっ放しの窓の外には久しぶりに晴れた青空が広がっている。ここは一階だから窓から飛び降りたところで死ぬことはできない。藍子の母親はどのような方法で命を絶ったのだろうか。不謹慎だと思いながらも最初に頭を駆け巡ったのはそれだった。

藍子の母親・葵の死を警察は事件性がないと判断し、子育てを苦にしての自殺として処理したそうだ。両親や親戚など葵に頼れる身寄りはなく、このままいけば藍子は児童養護施設に入ると校長は説明した。

淡々と葵と藍子の状況を説明する校長の隣で、原先生は涙を流しながら鼻をすすっている。


「娘一人を残して自殺なんて母親失格ですよ。許されることではない。私なら絶対にそんなことはしない」


原先生は聞いてもいない身の上話を始めた。彼女は数年間にわたり不妊治療をしたものの、結局、妊娠することはできなかったといい、今は夫と二匹の犬と、それはそれで幸せに暮らしているようだ。

子どもを望む女性にとって不妊とはどんなに辛いものか。私達は「女は子どもを産む生物」だと当たり前のように思っている。それがある日突然否定されるとは、目の前にかけられた橋を切り離されたような絶望感なのだろう。

ただ、原先生に子どもができなかったことと葵が自ら命を絶ったことは別の問題だ。それに、なぜ葵だけが責められなくてはならないのか。母子を長年放置しつづけた男が、藍子の父親が私の隣に座っているではないか。

裕也は何も言わずに首を下に傾けているが、藍子が家に来た時のような取り乱した表情ではなく、私は彼が何を考えているのかさっぱりわからなくなった。

ひとまず、藍子は今日もうちで預かることになった。口数の少ない彼女だが、出されたご飯は残さずにしっかりと食べていて、藍子から微かに放たれている生命力が私は好きだと思った。

葵が死んだことについては藍子には伝えず、今後のことは明日話し合おうと裕也と約束した。親が自殺したなどという事実を十歳の子どもに伝える技量など、私は持ち合わせていない。

ところが翌朝、裕也はアパートから忽然と姿を消した。またしても彼は娘と恋人から逃げたのである。

部屋の中には強い雨の音だけが響いている。一週間くらい前から家には傘が一本しかなかった。裕也がどこかに忘れてきてしまったからだ。いつもの彼であれば私のことなどお構いなしにその一本の傘をさして出かけるが、今日は傘立てに残されたままだった。最後の最後にされる遠慮など何の意味があるのだろうか。

裕也の会社に電話をするとか興信所に捜索を依頼するとか、彼を探す方法はいくらでもあるが、そんなことはどうでもいいと思った。足手まといになる男よりも今考えるべきは母親を亡くした十歳の少女のことだ。藍子をどうするかの方が私にとっては重要なことになっていた。

傷を負った心はどんなに治療を重ねても傷を負う前のような綺麗な状態に戻ることはない。ファンデーションやワッペンで傷を隠したって、雨に濡れたり剝がそうとする力がかかればケロイドは剝き出しになる。そしてそれを引き金に人は簡単に壊れてしまう。それでも、傷を上手く隠しながら幸せだと思える人生を藍子はおくれるだろうか。

私は残された一本の傘を見つめながら、状況が落ち着くまで藍子をこの家に住まわせようと決めた。赤の他人であるにもかかわらず、なぜこれほどまでに彼女に執着しているのか自分でもわからない。三十一年間生きてきた中で自分のことはある程度理解していると思っていたが、それは自惚れに過ぎなかったようだ。

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