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第1章

雨が降っている。私は雨が嫌いではない。コンクリートの上で繰り広げられる、雨水と泥が混ざり合い、濁った水溜まりをつくる光景が好きだ。あの子がお腹の中にいることが分かった日も雨が降っていた。私は雨と深い縁があるようだ。

ただ、雨が降った後の晴れ渡った空は嫌いだ。その青空を「雨が汚れを綺麗に流したようだ」と比喩する人もいるが、私はどう考えても、その洗い流された汚れのような人間だから。多くの人は流されてしまった汚れのことなど気にも留めない。綺麗になった空しか見ようとしない。

この部屋にはもう私しかいない。出来る限り紐は固く結んだが、取れてしまったらどうしよう。そういえば最近少し太った気がする。今更こんなことを考えてもしょうもないし、あとは足を一歩前に踏み出すだけなのに。

生まれ変わったら何になろうか。人間はこりごりだからなるべく人間から遠い生物がいいかもしれない。誰にも干渉されず、森の奥でひっそりと息をひそめて暮らせたら、どんなに素敵なことか。

自分から死ぬ人間に来世を選択する自由などないか。ただ一つだけ、女にだけはなりたくない。




もう一週間ほど雨が続いている。部屋の中に干した洗濯物はやけに辛気臭い空気を放ちながら、Tシャツにプリントされた猫がじっとこちらを見ている。

金曜日からの解放感を纏った土曜日の昼間、私と裕也はテレビを見つめていた。どうしてテレビのバラエティ番組というものはこんなにも刹那的なのだろうか。番組を観終わった五分後には、その内容を一つ残らず忘れてしまう不思議。

私はそろそろ昼食の準備でもするかと思い、ソファーから立ち上がった。裕也はこちらの動きを横目で確認したものの、視線はすぐにテレビに戻った。動く気配がないのはいつものことだ。落胆は次第に慣れに変わり、諦めとなって私の中に溜まっていく。


「男はみんな子どもだから。母性だよ、母性」


誰だか知らない女の声が頭の中で響く。大人の男に対して母性を抱くなど変な話だ。

台所の水道に手をかけた時、玄関のチャイムが鳴った。うちは古いアパートだからインターホンにモニター画面はついていない。ドアスコープから外を覗くと、赤い傘をさした十歳くらいの女の子が大きな銀色のキャリーケースと共に立っていた。子どもが持つにはやけに大人びているデザインに見えた。

女の子の肌は白く、子供らしい柔らかな髪は肩ぐらいの長さにそろえられている。小さな唇は少し紫がかって震えているようにも見えた。私は背筋がゾッとし一歩後ずさりしたものの、外が肌寒かったことを思い出し恐る恐るドアを開けた。このまま外に放置したりなんてすれば、どんな恐ろしい呪いをかけられるかわかったもんじゃない。

少女は私の目を見ながら無表情で言った。


「藍子と言います。お母さんにここに来るように言われました」


何回も練習したセリフのような口調。この歳の女の子と話すのは何年ぶりだろうかと回顧しながら、私は状況を整理できないままとりあえず少女を部屋へと招き入れた。玄関では世にも奇妙な事件が発生しているというのに、裕也はそれに気が付かず、相変わらずソファーでこっくりこっくりと舟をこいでいる。

藍子という少女は所在なさげにソファーの下に敷いてあるラグに正座をした。この歳でも見ず知らずの人の家でどう振る舞うことが正解なのかを気にしているようだ。私もかつては十歳の少女であったはずだが、その頃の自分が何を感じ考えていたのかなどほとんど覚えていない。

やっと藍子の姿を間近で確認した裕也は、さっきまでの涎を垂らしていた顔とは打って変わって緊張で筋肉が硬直している。この男は私に何を隠しているのだろうか。今すぐにも問いただしてやりたいが、まずは藍子の話を聞かなくてはならない。私は大人だから。

大人になってから「子どもに戻りたい」と願う人は少なくないが、私は一度たりともそう思ったことがない。過去に戻りたいなどと無邪気に言える大人が羨ましい。それは美しい子ども時代を過ごした者だけに与えられる特権なのだから。

私は自分もラグに正座をし、さも優しい人間かのような声で藍子に問いかけた。


「どうしてママにここに来るように言われたの?」

「お母さんはお父さんがここにいるって言っていました」


藍子はか細い声で答える。どうやら藍子は母親のことをママではなくお母さんと呼んでいるようだ。そんなことよりも重要なのは「お父さんがここにいる」という一文だ。藍子は少し遠慮がちに裕也に視線を注いでいる。

私は裕也の顔を無言でまっすぐに睨みつけ、彼の顔はますます凍てついていった。説明を促すと、裕也は「元カノが産んだ子ども…だと思う」と言い、目から流れた涙が無駄に大きな手の甲に落ちた。


「なぜお前が泣く? 泣きたいのはわけもわからず父親の元におくられた藍子だろ」


喉元まで出かけた言葉を飲みこむ。裕也の説明はこうだ。社会人一年目の梅雨時、二歳年下だった大学生の彼女に妊娠を告げられた。父親になる覚悟がなかった裕也は堕胎をするように迫るものの、彼女は「産む」の一点張りだったという。

こうなった時、男はどうするべきなのだろう。彼女ととことん話し合い答えを出す、いっその事、父親になる覚悟を決めるか。裕也は「逃げる」という選択をとった。彼女との連絡を一切断ち、今日の今日まで子どものことについては思考停止をすることで、「その場しのぎ」を続けてきたのだ。

裕也は三十三歳であるため、やはり藍子は十歳ということになる。私はこの無責任と卑怯を煮詰めたような男と同棲までしている自分を軽蔑しながらも、冷静を装って藍子の顔に視線を戻した。

藍子はまたしても小さな声を出すと、右手で左手をぎゅっと握りしめた。


「ここで面倒を見てもらってって。お母さんが言ってたから」


母親の言いつけを忠実に守る藍子の健気さが、より裕也の卑劣さを強調させる。


「おかけになった電話番号は現在使われておりません」


私は藍子に母親の携帯番号を聞き何度もかけてみたが、自動音声が定型文をくりかえすだけだった。重々しい空気を打破するためにも昼食を食べようと提案し、私は再び台所に立った。シンクの下の戸棚から包丁を取り出したはいいものの、頭の中は処理しきれない情報でとっ散らかっている。このまま藍子と裕也に背を向け続けられたらどんなに楽だろうか。妊娠した彼女から逃げた裕也のように。

それでも、「裕也に藍子を任せることなどできない」というどこから湧き上がってくるのかわからない使命感が、私をこの家に引き留めた。

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