いわしの聖女が家にやって来た
「はあ……つっかれた……」
仕事終わり、自宅アパートに帰り着いた俺は、コートとジャケットを脱いでネクタイを外すと、ワイシャツ姿のままベッドに倒れ込んだ。
最近、なんだか妙に疲れる。夜に寝つきが悪いせいか、仕事量が特別増えたわけでもないのに、体がやけに重く、倦怠感が止まらない。
「ああ……料理したくねぇ」
そうは言っても、帰り道に夕食を買っておらず、かといって代わりに料理を作ってくれる恋人なんかもいない以上、自分で何か作るしかない。分かってはいるが、ベッドから起き上がる気力が湧かない。
ピンポーン
「うん?」
いっそ出前でも取ろうかと思い始めた頃、玄関のチャイムが鳴った。続いてノックと、「すみませ〜ん」という若い女性の声。
新聞の勧誘か何かかな? と思いつつ、隣人の可能性も考えて、重い腰を上げる。
ドアスコープから外の様子を伺うと、そこにいたのは20代前半に見える、なかなかの美人だった。見覚えはないが、スーツなどを着ていない様子から、セールスレディというわけでもなさそうだ。
「……なんでしょう」
念のためチェーンは掛けつつ、少しだけドアを開けると、外の女性に用件を尋ねる。
すると、女性は丁寧にお辞儀をしてから、いきなり突拍子もないことを言い始めた。
「突然すみません。単刀直入に言いますが、この部屋には良からぬものが取り憑いています。早急に対処しないと、大変なことに──」
「あ、そういうの間に合ってますんで」
「って、まっちょおおぉぉい!?」
予想以上にヤベェ勧誘だったと思いながらドアを閉めようとしたら、わずかに開いた隙間に手をガッされた。
「話を聞いてください! このままだと、本当に取り返しがつかないことに──」
「いや、本当にそういうのいいんで。手、放してもらえます?」
「だから話を……あなただって、少しは自覚あるんじゃないんですか!? やけに体がだるいとか、謎の体調不良とか!!」
女性の言葉に、ピタリと動きを止める。
今女性が指摘したことは、たしかにここ数日俺を悩ませているものだったからだ。
腕の力を緩め、少しだけドアを開くと、女性はホッとしたような表情で、背中のリュックサックから何かを取り出した。
「これを玄関に飾っておけば、問題は解決します」
そう言って女性が差し出したのは、枝に刺さった……鰯の頭?
「……馬鹿にしてるだろ」
「違いますっ! 『鰯の頭を信じんから』って言葉を知らないんですか?」
「それを言うなら、『鰯の頭も信心から』だろ! なんだその関西弁の煽り文句みたいな言葉は! 信じないからどうなったんだよ!?」
「え…………少子高齢化社会?」
「規模がデカイ! 誇大広告も大概にしろよ!?」
「待っ──本当に待って!」
「いい加減にしないと警察呼ぶぞ?」
「そっちがその気なら、『せめてお腹の子だけは捨てないで!』って大声で叫びますよ!?」
「それはやめろ!!」
そんなことされたら、ご近所さんにどう思われるか分からない。
やむなく、俺はこの変な女を部屋に招き入れた。生まれて初めて自室に招く女性がこんな変人だとは……なんか、損した気分だ。
「それで? その鰯の頭を飾ればいいのか?」
「飾るだけじゃダメですよ? 『鰯の頭も信心から』ですから、ちゃんと信じないと。信じる者は救われる、です」
「言っとくけど、それ誤用だからな?」
「へ?」
「本来は、くだらないものを盲信する人間を揶揄する言葉だから」
「くだらないとはなんですかぁ!! この鰯の頭には、本当に御利益があるんですからね!?」
そう言って、枝に刺さった鰯の頭を突き出す女。
いや、猫の食べ残しにしか見えんけど?
「つーか、アンタはなんなんだよ? どこぞの新興宗教の信者か?」
「失敬な! 私はそんな胡散臭いものじゃありませんよ!」
「じゃあなんだよ?」
「フフン、人は私を“いわしの聖女”と呼びます」
胸を張って、これでもかとドヤ顔をする女だが……
「胡散臭い上にダサい」
「失敬な!」
「というか、そこは巫女じゃないのか?」
「う〜ん、私もそう思うんですが……なぜか聖女って呼ばれるんですよねぇ」
「……ああ」
なんとなく察した。
この女は知らないようだが、最近一部のネット界隈では、聖女という肩書が持つ神聖性が徐々に失われてきている。具体的には、聖女ならぬ性女や、煩悩に塗れまくった……有体に言って、俗物っぽい聖女が増えている。
目の前の女を見る。
うん、実に俗っぽい。それにどことなくポンコツ臭が漂っている。
なるほど、これはたしかに聖女(笑)だ。どう見ても巫女という感じではない。
「なんか失礼なこと考えてません?」
「いいや、別に。まあ話は分かったよ。これを飾って拝めばいいんだな?」
いい加減だるいので、納得したふりをして話を切り上げようと、突き出された鰯の頭を受け取ろうとして──スッと上に避けられた。
「……なんだよ?」
「1万円」
「金取んのかよ!!」
「そりゃ取りますよ! 取らなきゃもれなく行き倒れですから!!」
「何を偉そうに! にしても1万円は高過ぎだろ!!」
「む……」
俺の叫びに女は眉間にしわを寄せて考え込むと、ふと何かを思い付いたように表情を明るくした。
「分かりました。それじゃあ後払いでもいいですよ?」
「後払い?」
「この鰯の頭の効果を実感できてからでもいいです。もし納得できなければ、お代は頂きません」
「……ほう」
それは、なかなかに良心的な申し出に思えた。
試すだけならタダだし、もし本当にこの体調不良が治るなら、その時は1万円くらい出してもいい。まあ、治ればの話だが。
「……一応聞くが、飾るところは玄関の外じゃなきゃいけないのか? 流石にそんなもの飾るのは、ご近所さんの目が気になるんだが……」
「う~~ん……本当は外がいいんですけど、人目が気になるなら玄関扉の内側でもいいですよ?」
「……分かった。買うよ」
「本当ですか!? ありがとうございます!!」
「ただし! 効果が無いと思ったら本当に金は払わないからな!」
「いいですよ? でも、さっき言ったように信じないと御利益はないですからね?」
「……ああ」
「といっても、いきなり信じるのは難しいですよね?」
「う……まあ、な」
「仕方ないですね。では、あなたが信じる気になるまで、私が代わりに信仰を捧げましょう」
「……ん?」
「どちらにせよ、持ち逃げされないように見張っておく必要がありますし?」
「……うん?」
「というわけで、あなたが信じる気になるまで、ここに住まわせてもらいますね?」
「はあぁっ!?」
その後、1時間以上に及ぶ話し合い(というか怒鳴り合い?)の末、とうとう俺は折れた。
女がスゴイ強引だったこともあるが、単純に倦怠感とだるさが限界に達し、何もかもどうでもよくなったというのもある。保険として免許証だけ預かり、俺はこの女の滞在を認めた……というか、認めさせられた。
それから3日。どうせなんの効果もないだろうという俺の予想に反し、俺の体調は徐々に回復し始めていた。
認めるのは癪だが、あの女が来てから夜中に目が醒めることもなくなったし、体も軽くなった。それに、なんだか息がし易くなった気がする。
「本当に、御利益あるのかもな……」
仕事終わり、玄関扉の内側に吊り下げられた鰯の頭を眺めながら、そう独りごちる。
そして、短い廊下を歩いてドアを開けると……
「あ、おかえりなさ〜い」
そこには俺のベッドに寝そべってテレビを観る自称聖女。
ベッドの上で自分の腕を枕に横たわるその姿は、その整った容姿と起伏に富んだ肢体が描く曲線美も相まって、なかなかに色気のある体勢と言えなくもなかったが……ベッド脇に置かれたさきいか(俺の)と缶ビール(これも俺の)が、全てを台無しにしていた。
なんて残念美人。なんて典型的な娘に軽蔑される休日のお父さんスタイル。信じられるか? こいつ、これで居候なんだぜ?
「ただいま……それで? お前はいつまでここにいんの?」
「んん〜〜? あなたが鰯の頭を信じるようになるまで、ですかねぇ」
「いや、もう結構信じてるから。このところ体調良くなってきたし」
「まだまだですよぉ〜。私から見たら、まだまだ信仰心が足りてないです。それに、まだ良からぬものが完全に消えたわけじゃないですし? というわけで、もうしばらく居座ります」
「テレビ観ながら堂々と寄生宣言すんな! お前、仮にも聖女だろうが!」
「聖女っていっても、周りがそう呼んでるだけですからねぇ……げっふぅ」
……こいつ、ホンット……っ!!
世の妻に搾取される夫っていうのは、こんな気分なのだろうか? だとしたら尊敬するわ。俺だったら到底耐えられん。ましてや妻でもなんでもない居候女なら尚のこと、だ。
こめかみと口元を引き攣らせる俺に流石にマズイものを感じたのか、女は億劫そうに立ち上がると、コンロにかけられていた鍋を持ってきた。
「まあまあ、そうカリカリせず。寒い中お疲れ様でした。お味噌汁用意しておきましたから。温まりますよ?」
そう言いながら、お椀によそった味噌汁を差し出してくる。その芳しい香りが、わずかに俺の怒気を和らげた。
「……いただきます」
差し出されるまま受け取り、一口すする。途端、口の中にホッとする美味しさが広がった。
「……うまい」
思わず素直にそう言ってしまうほどにはうまかった。これが彼女の手料理なら、手放しで絶賛していただろう。
なんとも言えない複雑な気分で味噌汁をすする俺の前で、女も自分の分を椀によそうと、つみれを一口食べ……
「うん、おいしくできました。やっぱり鰯のつみれは最高ですよね」
「ブフッ! って、オオォイ!! なに堂々と鰯食ってんだぁ!!」
「え? いや、普通に食べますけど?」
「いやいや、普通信仰対象は食わんだろ!」
「そうは言っても、頭だけ使って胴体を捨てる方がよっぽど罰当たりでしょう。それに今の時代、『胴体はスタッフが美味しく頂きました』っていうのをアピールしとかないと、すぐ叩かれるんですよ?」
「なんの話だよ!」
俺のツッコミを軽くスルーし、女はまたしてもベッドにゴロ寝した。その場しのぎのご機嫌取りであることを隠しもしないな、こいつ。
再びテレビを観始めた女にジト目を向けつつ、俺も鰯のつみれを口に運ぶ。……たしかにうまい。認めたくはないが、抜群にうまい。
「1万円」
「だから高ぇわ! 俺のささやかな感動を返せ!」
「誰もタダとは言ってないです。むしろ、御利益を考えれば安いもの」
「もはや御利益と言っておけばなんでも通用すると思ってないか? このつみれにどんな御利益があるんだよ?」
「それはもう。『鰯のつみれのお陰で10kg痩せた』とか、『鰯のつみれのお陰で可愛い彼女が出来た』とか、『鰯のつみれのお陰で宝くじが当たった』とか。多くの喜びの声が届いてますよ?」
「じゃあなんでお前は行き倒れかけてんだよ」
「へぇ〜、トロンボーンってマーチングの最中つばが逆流しちゃうんだぁ〜。知らなかった〜」
「おいこらテレビの世界に逃げんな。こっち向けよ」
「ふぅ〜やれやれ、これだから不信心者は」
「ヤッベェ、俺生まれて初めて女を殴りそう」
「何事もまず、信じるところから始まるんですよ?」
「なんか良いこと言ってる風だが、俺の信じる気を削いでる主な原因はお前だからな?」
「失敬な。私のどこが信じる気を削いでいると?」
「どこがって──いってぇ!?」
突然本棚から落ちてきた漫画が、俺の後頭部を直撃した。
すると、女はプークスクスと笑い出しそうな表情で口を押さえて一言。
「ほ〜ら、鰯の頭を信じんからぁ」
「そういうところだよ!!」
落ちてきた漫画を投げつけてやろうと、思いっ切り振りかぶり──
ピンポーン
玄関のチャイムが、来客を告げた。
「お客さんですよ?」
「分かってるよっ!」
苛立ち混じりに漫画を下ろし、玄関に向かう。
ドアスコープから外を伺うと、そこにいたのは20歳前後に見えるなかなかの美人……って、なんだこのデシャヴ。
「……なんでしょう」
例によって念のためチェーンは掛けつつ、少しだけドアを開けると、外の女性に用件を尋ねる。
すると、女性は丁寧にお辞儀をしてから、すごく聞き覚えがあることを言い始めた。
「突然すみません。単刀直入に言いますが、この部屋には良からぬものが取り憑いています。早急に対処しないと、大変なことに──」
「あ、そういうの間に合ってますんで」
「って、まっちょおおぉぉい!?」
ドアの隙間に手をガッ。うん、やっぱりデジャヴ。というか、マジで間に合ってるんだけど?
「この竹箒! この竹箒を玄関に飾ってください! そうすれば問題は解決しますから!」
「今度は竹箒かよ! なんで竹箒!?」
「『竹箒も五百羅漢』って言葉を知らないんですか!?」
「知らん! それは本当に知らん! 五百羅漢って何!?」
「え…………なんかすごい人です!!」
「そこは把握しとけ!?」
というか、マジでナニこれ。なんとも雑としか言いようがない誤魔化し方まで、どこかの誰かさんにそっくりなんだけど?
そんなことを考えていたら、奥から当人がやってきた。
そして、ドアの隙間から顔を覗かせる女とバチッと視線を合わせ、同時に目を見開いた。
「あんた! なんでここに!?」
「お姉ちゃん!? お姉ちゃんこそなんでここに!?」
姉妹かよ!! 道理で色々とデジャヴると思ったわ!!
内心でそう絶叫する俺を余所に、姉妹は俺越しに言い合いを始める。
「あんた、まさかまだ竹箒なんか配ってるんじゃないでしょうね!?」
「お姉ちゃんこそ、まだ鰯の頭なんか配ってるの!? マジでやめてよね! 恥ずかしいから!」
「竹箒なんか信じてるあんたに言われたくない!!」
「鰯の頭よりは500倍マシ!!」
その瞬間、姉妹の頭にそれぞれ、洗剤のボトルと鳥のフンが降り注いだ。
作者が他の連載作品で、『“癒しの聖女”って書こうとして、一回“いわしの聖女”って書いてしまいました。現時点で令和イチの破壊力を持った書き間違いです。いわし……』という後書きを書いたところ、なぜかたくさんのコメントを頂いてしまい、創作意欲が誤爆しました。
この短編にびっくりするほど中身がないのはそのせいです。我ながら本当に何をやっているんだろう?
2020/6/16
なぜか誤字きっかけの無茶振りと悪ノリから生まれた狂気の短編第二弾が出来てしまいました……。
『前世餅の少女が願うこと』
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