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本当は屋上に行きたかったのだけど、雨が降っているのでそれはできなかった。
二人は人気のない大学院の校舎の一階に移動して、お互いの傘を取り、雨の降る大学の構内をゆっくりとした速度で、散歩するように歩き始めた。
緑色の傘と、青色の傘。
「立花さん。ごめん。タバコ吸ってもいい?」
途中、喫煙コーナーが見えたところで、三田さんが言った。
葵は「はい」と返事をする。
三田さんは喫煙コーナーでタバコを一本だけ、すごく美味しそうに吸った。それは木野さんの吸ってるタバコと同じ銘柄だった。だから葵はその名前を知っていた。赤い箱に入った、木野さんの香りのするタバコだ。
「申し訳ない」
タバコを吸い終わった三田さんは葵にそう言った。
それから二人はまた大学の構内を当てもなく歩き始めた。
「……あいつは孤独なやつなんだよ」と三田さんは言った。
「孤独……ですか?」葵は言う。
「うん。孤独。孤独が大好き。孤独を愛している。……まあ、哲学科っぽいといえば、ぽいんだけどね。木野の場合はちょっと、危うさがあるんだ」
葵は三田さんの話に耳を傾けている。
三田さんの言葉の中には、葵の知らない木野さんがいた。
それがすごく新鮮だった。
「そりゃ、人間誰しもが孤独だよ。極論すればね。人はみんな一人だからね。でも、実際は、そうは感じていない。みんな誰かに愛されたり、誰かを愛したりして毎日を生きている。そうだよね?」
「私には、まだそういう難しいことはわかりません」葵は言う。
「でも、誰かを愛して毎日を生きるっていうところは賛成です」