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「その人のことが、私、ずっと好きなんです」と葵は言った。
「でもその人は、その私の気持ちに全然気がついてくれないんです」
葵は隣にいる木野を見る。
「木野さん。こういうときは、どうすればいいと思いますか?」
「それはきちんと言葉にして、相手に自分の気持ちを伝えるしかないと思うよ」木野は言う。確かにその通りなのだけど、それができないから苦労しているのだ、ということはもちろんわかる。でも、木野にできることは、こうして当たり前のことを言って、相手の背中を押してあげることくらいしかないのだった。
木野の言葉を聞いて葵は黙った。
「……私、恋をしたの初めてなんです」葵は言った。
「木野さんはどうですか? 木野さんは今、好きな人とかいるんですか?」
「いるよ」
木野は即答する。
それは嘘ではない。こういうときに、木野は嘘をつかない。
すると葵は「……そうですか」と小さな声で呟いてから、車のフロントガラスの外に広がる真っ暗やな夜を見つめた。
「今日はありがとうございました」そう言って葵は木野の車から下りた。
「遅い時間だし、送っていくよ」と木野は言ったが、「大丈夫です。でも、ありがとうございます」と葵は言って、それから一度頭を下げて、いつもの無表情のまま、木野の前からいなくなった。
木野はお店の近くにある自動販売機でホットコーヒーを買い、それから車の中で、そのコーヒーを飲みながら、少しだけ考えごとをしてから、家に帰った。