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「小道さん、傘、持ってきました?」持ってきていないとわかってはいたのだけど、一応、育はそう聞いた。
「いえ、持ってきてません」と苦笑いをしながら小道さんはそう言った。
それから朝顔と紫陽花は大好きな本とゲームをほったらかしにしたまま、降り出した雨のことを、縁側の端のところから二人で一緒にじっと眺めていた。
小道さんと育も、同じように雨を眺めた。
六月の雨。
梅雨の雨。
みんな無言で雨を見ていた。
育の耳には、ざーという、なぜか気持ちのよい、雨の降る音だけが聞こえていた。
それから少しして、育は包帯の巻かれた自分の右足をそっと片手で何度か撫でた。
「傷が痛むんですか?」
小道さんが言った。
「いえ、そんなんじゃないです」とにっこりと笑って育は言った。
育は今年のはじめに交通事故にあって、足を怪我してしまった。幸いなことに命や日常生活には支障がなかったのだけど、大好きだった陸上はもうできなくなってしまった。
育の選手生命はこのときに絶たれてしまったのだ。
後悔はしていないつもりだったけど、こうして雨の日になると、傷が少しだけ傷んだりした。その痛みで、当時の気持ちを思い出して、育は何度か夜中に一人で泣いたりもしていた。
「雨になると、思い出すことがあるんです」小道さんは言った。
「それはなんですか?」育は言う。
「亡くなった妻のことです」
小道さんは言う。
「奥さんのこと」育は言う。
「ええ。妻は雨が大好きでした。だから、雨が降ると、なんとなく、雨降りの日を喜んでいる妻の顔を思い出すんです」小道さんは言った。
「そうなんですね」と小さく微笑んで、育は言った。