1章ー2話 壁に耳あり盗み聞きとゴミ箱少女
小さな衝撃が肩に走って、自分が誰かにぶつかったんだと分かった。なにもわからない世界での孤独のせいで少し気が立っていた、というより誰かに八つ当たりしてしまいたいような気持ちだったのだろう。
完全に俺の不注意だというのに、向かいに佇む人間を睨みつけた。
正確にいうと睨みつけたはずだったのだ。でも、次の瞬間にその八つ当たりじみた感情なんてどこかにすっ飛んで行った。
目の前、少し不機嫌そうな顔をしながら、数秒前の俺と同じようにこちらを見ている少女がいたから。
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美しい少女だった。言うまでもなく整った顔に、少し青色が混ざった煌めく銀髪をひとつにまとめ、肩から横に垂らし、切れ長の目には、透き通ったサファイヤブルー。
その双眸に見つめられただけでどんな男でも息を呑んでしまうだろう。
その、スラっとしながらも、女性らしさに富んだ肢体を身体全体を覆えるだろうローブで包んでいる。
そして、僅かに覗く腰元には視界に入るだけでとてつもない圧力を感じるような白金色のバラの装飾が施された剣が差さっている。
ぶつかった衝撃で、はだけてしまったローブのフードからの覗くその双眸を見ただけで、例外なく俺の視線は少女に吸い寄せられていた。
「…次からは前を向いて歩きなさい、危ないから」
少女は呆けて何も言えない俺に、困ったように笑ってそう一言だけ残して、急ぐようにローブのフードを被って橋の向かい側の細路地へ歩き去ってしまう。
それから一分後、ようやく何もわからない異世界の現実へと完全に飛んでいた俺の意識が舞い戻って来た。
「あんな美少女実在するんだな…心臓が何秒か止まってた気がするぞ」
先程出会った美少女は比喩や誇張抜きに、魂ごと骨抜きにされるほどの美貌を誇っていた。
初雪のように白い肌、それに映える青混じりの銀髪とどこまでも青い双眸。
「名前くらい、聞いておけばよかったかもな」
こちらからぶつかって急に名前を聞くというのも、おかしな話だと少しおかしくなる。
先程までの、諦めに近い怒りも寂しさも、気づけば消えている。どこまで自分が単純なのかびっくりするが、男の性だと思うので仕方ない。
「一言、言葉を話すだけで負の感情を吹き飛ばせるって美少女すごいな」
やっぱり、見た目がいいというのは得だな。あそこまでの美貌は稀有だろうが、やはり有利は有利なのだろう。
本当の意味で目を奪われる美貌などそうそうあってたまるかという話だが。
過去画面の中で楽しく会話したどんな女の子よりも可愛かったなと想いを馳せるように橋の向こう側に目を向ける。
すると、橋の中頃。つまりは、先ほどの美少女とぶつかった場所あたりに何か落ちている。
「なんだこれ、ネックレス?」
落ちていたのは、ネックレスに見える妙な装飾品。何が妙なのかというと、まず、首かけの部分が糸で編まれたようなもので出来ており随分と古い。
おそらく俺とぶつかった時にちぎれてしまったのだろう。
そして、妙な点がもう一つ。その糸に吊るされているものが不揃いで三つかかっている。一つめは、綺麗な青色の小さな石。
そして、この二つがよくわからないのだが、全く仕様も形も大きさも違う古ぼけた鍵が二本かかっている。
どちらかというと、ネックレスというよりただ首から掛けていたものという表現の方が正しいような気がする。
どうにしろ、拾おうと体を曲げ手を伸ばし、手に取る。
「っ!?」
それを拾い上げた瞬間、違和感が体に走った。なんだろう、この変な感じ。内臓の一つが急に体から抜けてしまったみたいな…
「ーーー?」
「なんとも、ない」
違和感が消える、というよりは体に馴染むという表現の方が正しく、今も何かが欠けたような感覚が体に残ってはいるが、実害は何もない。
試しに手をぶらつかせてみたり、屈伸してみたり、ジャンプしてみたりしたが、なんともない。
その頃には違和感のかけらも体に感じもしなかった。
「なんだったんだ?」
拾い上げた瞬間走った違和感のせいで危うく再び地面にリリースするところだった首飾りらしきものを親指と人差し指でつまむように持ち顔の前で見つめてみるが、先ほどと特に変化もないし、棘が出ているわけでもない。
それはそれでなおさらさっきの現象に納得いかず怖い。
「でも、これどうしよう…」
手にとってみたはいいものの、体に害を及ぼしそうな上に落としものだ。
日本では、落とし物を拾ったら、交番に届けましょうというのが常識だったのだが、この世界に交番などあるはずもないし、それに類するものがあったとしても、俺が知るわけがない。
そういう時は落としてあった場所の近くの目立つ場所においていくのが、最善手だと思うのだが…
「届けるか…?」
さっきの状況から省みて、これを落としていったのはあの少女で間違いない。幸いなことに落とし主はわかっているし、別れてからまだ数分も立っていない上に移動した方向もわかっている。
今から追いかければ、まだ間に合うはずだ。
「完全に下心混ざってるけどな」
我ながら驚くほどに素直だが、多分落とし物を届けるなんて方便であわよくばあの子にもう一度会いたいという下心、それと、
ーー何かをしていないと、気が狂いそうだから目的が欲しかったのだ。
明日がどちらかさえ分からない今の状況を考えたくない。そんな逃げに見知らぬ他人を使ってしまっていることに、気づかない。
そんなことにも気付かずに、善意と、少しの下心と不安を抱えて、橋の向こうへ歩き出す。
ーーーここが運命の分岐点。ここから始まる、眠りの騎士の異世界譚の始まりの場所。
当然、そんなことに気づく余地もなく、スタスタ、スタスタと。少年は橋の向こう側へと歩き出した。
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「確かこの路地に入って行ったはずなんだけどな」
周りをキョロキョロと見渡しながら、そう呟くが、周りは静まり返っており独り言をつぶやいているのがなぜか恥ずかしくなってしまう。
例の橋から移動して数分、あの少女が入って行った路地に考えなしに飛び込んだのはいいのだが、よくよく考えてみれば土地勘などまったくない。
その上に、この路地というのが入り組みすぎている。周りを見渡せば同じような崩れかかった壁や、人が住んでいるかのか疑わしいどころか、人が住めるのかすら怪しい廃墟のようなものが連なっている。
あまりにも、似通っているせいで、壁に無造作に書き殴られた落書きや壁の崩れ具合ぐらいでしか自分が進んでいるのかの判別がつかない。
そして、見ただけでわかる治安の悪さと、独特の空気でまた別の意味でも心臓に悪い。橋を一つ渡っただけで治安の変化が著し過ぎる。
「こういう、治安悪そうなとことか廃墟みたいなところに妙な落書きされるのはどの世界でも共通なのな」
日本でもトンネルやら、路地裏やらと悪い奴らが溜まり場にしてそうなところにはやたらとスタイリッシュな理解不能な落書きがあちこちに施されていたものだが、こういう寂れた場所を見ると何か色を足したくでもなるのだろうか?
「なんか、日本とは違う意味でこっちも奇妙だな…ひらがなとカタカナが混じった字で何々…ほうれんソウ、カイワレだいこん…これ、意味わかって書いてんのか?」
誰が書いたのか知らないが、ほうれん草やカイワレ大根がこの世界にあってそれを認知した上で書いているなら、全力で農家さんがクレームを入れて来そうだ。
ご丁寧に、緑と白で書かれているのも無駄に芸が細かい。
「そんなバカみたいなこと考えてる場合じゃなかった…早めに追いかけないと…」
そう言ってみるのはいいが、入り組みすぎていてあの少女の行方どころか帰り道すらわからなくなっている。
あの少女は慣れた様子の足取りだったしすでにこの路地を抜けているかもしれないと考えるとかなり状況は悪い。
手に無造作に握りしめた首飾りを視界の端で見やり、あの子のことを思い出すことでなんとかまだ追いかける気力が残っているが、基本的に根は引きこもり根性なので今も半分くらい諦めたい気分になり自分の情けなさに一つ深いため息を吐く。
「おい、いらっしゃったか?」
「いや、いない…全くあの人はまたしても我々から逃げおおせるとは…王国の騎士団の面子丸つぶれなのだが…」
そんな時少し離れた裏路地から先ほどツヅミが吐いたものよりも大きなため息とともにそんな声が聞こえてくる。
なんだかやけに疲れたような、そして同時に焦りも含んだ声がし、少しその会話に耳を傾けてみると、どうやら向こうさんも人を探しているらしい。
なんとなく親近感を覚えて声が聞こえた路地を覗き込む。
すると、男が二人、辺りを見渡すような仕草を見せながら佇んでいる。
妙な風体の男たちだ。正直向こうも今のツヅミに風体のツッコミをされたくないと思うのだが、ツヅミからの主観としては随分と異質な風体の男たちだった。
まず、二人とも甲冑を着込み、腰にはやたらと大仰な風体の騎士剣が刺さっている。しかも片方は見上げるくらいの巨漢であり筋骨隆々の大男。
無造作にあげた少しくすんだ青色の短い髪。困ったという風な表情をしながらも精悍な顔をしており、その豪快さが垣間見えるような男だ。
人のいい顔をしているからか、あまり目立たないが顔は整っており、クラスのリーダーっぽい雰囲気を醸し出している。
そして、もう一人、こちらもまた異様な威圧感を放っている。
体つき自体は、ツヅミと大して変わりなく、横の大男と比べるまでもないのだが、やはり、その体は甲冑を着込んでもわかるほどに鍛え上げられている。
しかし、注視すべきはそこではない。それ以外、そのほかの部分がやたらと整っている。いや、整いすぎていると言ってもいい。
まるで輝くような、少し癖がかった長い金髪を丁寧に切りそろえており、少し憂いを帯びたアメジストの瞳には一瞥されただけでどんな淑女も頬を染めるだろう。
白い肌に、優しそうな顔立ち、少しタレ目がちの瞳にはめ込まれたアメジストと見間違うような双眸。
いわゆる、王子様然とした美男子というやつだ。心なしか背景に薔薇が幻視できるのは気のせいだと信じたい。
「おおう…なんだろう、いけ好かない…」
人様の会話や顔を勝手にのぞいてそれはないだろという感じだが、ツヅミの口から出た第一声はそれだった。
別にツヅミも顔自体は悪くないし、死ぬほどモテないというわけでも別にないのだが、何かよくないサブカルチャーに影響でも受けたのか、イケメンを見ると条件反射のように呪詛を口に出してしまうのだ。
まさか、壁から妙な目が光り、自分の顔をジロジロ見られた挙句呪いの言葉を吐き捨てられたとは夢にも思わないであろう男たちは、やはり何か困ったような顔をしながら会話を続ける。
「あの人は本当に…これで脱走は都合何回めですか…」
「ああ、えーっとそうだな…両手で数えれないとこまで行ったことは確かだな…」
どうやら、どこからか脱走した『あの人』とやらを追っているらしい二人組。しかもどうやら初犯ではないらしく、これで何度目かと青髪の大男に問うた優男が、言外に数えるのも億劫になってきた程だと返答され、嘆かわしいとばかりにその整った顔を覆う。
「で、あの人の気配は追えてるのか?」
「いえ…また反応が消えましたね…あの人相手だと私の探知の魔法がこの国有数という自信をなくすのですが…」
「諦めろ…あの人は気配を消すことに関してはバケモノ級だから…しかも、習得した理由が王城から抜け出すためって…」
「ええ、ですが、さっきダメ元であの人の気配を探してたんですが、一瞬だけこの路地で気配を感じました、気配を消すのを忘れるくらいに動揺したということですから、なかなか気を揉みましたが…」
「まあ、ここら一帯の様子みるに大丈夫だろ、あとは…俺らがかくれんぼを頑張るしかないな」
「はあ…行きますか」
結局、甲冑を着込んだ二人は会話を始めた当初よりもさらに疲れた顔をしながら路地の奥に進んでいく。
それを見ていたツヅミはというと…
「なんの話してたのか全然わかんなかった…」
実はこの時ツヅミはなかなか社外秘ならぬ国外秘に近い話を盗み聞いていたのだが、残念。
この世界に対する予備知識がないために、全く功をそうしないどころか理解すらできていない有様である。
ツヅミが理解できていたのは、やたらと逃走癖のある「あの人」とやらを探している甲冑を着込んだ二人がいるということだけ。
というより、ツヅミは途中から男たちの会話は話半分状態で別のことに感激していた。
「あの金髪の言ってることが本当なら…」
そう、男の子なら一度は夢に見たことのあるロマン。
「この世界には魔法あるのかーーーーー!」
路地裏に響いたその思いもよらぬ喜色を孕んだ奇声に、路地裏に住む少ない住人と、間接的な原因となった男たちが盛大に顔を顰めたのは知らなくていいことだろう。
魔法を使って戦う自分を妄想してから、自分の目的を思い出したのは男たちが立ち去ってから数分後のことだった。
「しまった…ロマンワードに心を奪われすぎた…」
路地裏に一人で恍惚とした表情で自分を想像しながら立ちすくむという、なかなか黒歴史じみた行為を若干後悔しながら、再び、首飾りの落とし主を探すため歩を進め始めたツヅミ。
なんとなくフィーリング的にあの二人とは逆の路地に進むことを決めて、遅れた分を取り戻さんとばかりの早歩きで奥に進んでいく。
落書きと瓦礫ばかりの路地を奥へ奥へ、いくつもの行き止まりと意味のわからない野菜の名前が羅列された壁を踏破しながら奥へ。
そうして、歩き続けてどのくらい経っただろうか、奥に進むにつれ閑散さが増してきた路地の奥に急に開けた広場が見えた。
煤汚れた木箱やら、何かの鉄くずなどが散乱して、憩いの場とは口が裂けても言えないが、それでも、だだっ広い広場としか表現できないような場所だ。
明らかに先ほどまでとは空気が違うその広場に足を踏み入れるかどうかの逡巡の迷いの末に一歩足を踏み出す。
周りを見渡して、少女の姿を探しながら、進んでいくと何か固い感触がつま先に当たった。
「?」
足に当たった固い感触の正体、それはーーー
”人の頭部”
「うあああっ!?」
人の頭部といっても、別に生首などではない。倒れている人間を蹴ってしまって、たまたま蹴った部位が頭部だったというわけだ。
そして、「こいつ…死んでる…」とかそういった展開でもなく、蹴った瞬間に聞こえてきた「うっ…」といううめき声からしても普通に息がある。
だとしても、普通に道端に人が倒れているのは怖すぎる。抜けそうになった腰と、荒くなった呼吸を整えて、もう一度よく見渡すとなんということだろうか、ツヅミが蹴ってしまった男の他に人間がダース単位で転がっている。
あまりにも自然に倒れているし、地面の方に全く気を配っていなかったので気づかなかった。
そして心配なのが木箱に頭を突っ込んで某犬○家のようになっている男がいるが大丈夫なのだろうか。
「いや…どういう状況だこの広場」
平静さを取り戻して、頭を捻ってみても全く意味がわからない。異世界では道端に人が転がっているのが普通だったりするのだろうか。
だとしたら、なんとしてでも元の世界に逃げ帰りたいところだ。
「というか、倒れてる奴らなんでこんなに嬉しそうな顔して気絶してんの!?怖いんだけど!?」
そう、ただでさえ人が死屍累々と転がっている光景でドン引きしているのになぜか倒れ伏している男たちは顔が確認できる限り全員、本望とでも言いたげなやけに嬉しそうな表情で気絶しているのだ。
「意味がわからねえええ、なんだこの状況…」
ただでさえ、異世界に問答無用で飛ばされるという事態で心が一杯一杯なのに、いったい目の前のある意味惨状というべき情景を俺にどうしろというのだろうか。
ガタッ。
目の前の状況のあまりの意味不明さに頭を抱えていたツヅミの耳に、さらに奥の路地から何かが揺れるような音がした。
その路地は広場よりもさらに怪しい雰囲気を纏っており、ツヅミも普通なら近くか否か迷ったのだろう。
だが、何しろ、全くの無防備といった状況下で未知の世界に飛ばされて、未曾有の美少女に遭遇し、恍惚とした表情で横たわる死屍累々を踏み越えという特異がすぎる状況下を経験したツヅミにもはや怖いものはない。
そう高をくくって、奥の路地に進んだことを若干後悔する羽目になる。いや、長期的に見れば素晴らしい判断と言わざるを得ないが、この瞬間だけ、ツヅミは後悔することになる。
進んだ路地裏には、恐ろしく何もなかった。ここに来るまではそこら中にあった壁の落書きも、瓦礫も、壊れた木箱も。
この空間だけが、新設された歩道かのように白さを保っているのだ。
そして、今ツヅミを戦慄させているのは、その何もないと錯覚させる場所に、明らかに異質なものが一つ置かれているから。
…そしてーーー
「なんでゴミ箱が動いてるんだ…」
その、またしてもド級の不可思議さを醸し出す光景に、最早放心といっても差し支えない顔をする。
そして、諦めたように恐る恐るゴミ箱らしきものににじり寄る。なぜだか、ロクでもないことになる予感がするのに、この蓋を開けなければいけないような気がしたのだ。
そして、いっそ一思いにという風に勢いよく蓋を開け放つ。
「エルレイン…これは違うの!?その興味本位で…ふにゅ?」
勢いよく蓋を開け放ったゴミ箱の中には、不思議そうにツヅミを見つめる探し人の美少女が入っていました。
ツヅミは、きっと疲れてるんだと思い、勢いよく蓋をゴミ箱に叩きつけた。