1章ー1話 おはよう異世界、さようなら理解
よろしくお願いします。
目が、光を捉えると同時に、これが夢なのだと頭が理解した。薄暗くて、妙に神秘的な雰囲気を醸し出す場所に立っていた。
等間隔で設置されたほのかな炎が示すのは一つだけ。俺の足元から前へと続く石畳の道。
考えなしに一歩踏み出す。俺の歩みの速度に合わせて、炎が揺れて、道の続きにまた火が灯る。
ふと、振り返れば辿った道の炎は消えていて引き返すことすらできない。
ここはどこなのだろう、そんな当然な疑問が寝ぼけたように靄がかかった頭の中で浮かび上がっては消える。
夢というのは頭の中の願望や、いつかの思い出を反映するみたいなことをいつだったか聞いたことがある気がする。
願望を写しているなら一体俺は何を望んでるんだろう。パッと頭に浮かんでこないのだからちっぽけな願いだろう。
いつかの思い出というなら、なんの思い出を写して俺の頭は俺に何を思い出させたいのだろうか。
どうせ、こんな浮かび上がっては散っていくような少しセンチメンタルな思考も朝暗い部屋で目覚めれば消えているんだ、でも、夢でも暗いところにいるのは嫌だな。
「歩こう…」
声が出たことがなぜか不思議だった。暗くて自分の指すら良く見えないけれど声さえあれば大丈夫と、なぜかそう思った。
ゆっくり、ゆっくりミミズが這いずるみたいな速度で石畳に足を踏み出し続けた。
炎が灯っては消えてを繰り返して、ようやく辿り着いた。
突き当りにあったのは木製の扉。扉だけが佇んでいる。
これを開けると、また石畳の道が続いているのだろうか。それとも某猫型ロボットの道具のようにどこかへ連れて行ってくれるのだろうか。
ーーー次の現実から逃げる術を与えてくれるというのか。
もしかしたら終わりのない石畳は、どこまで行っても逃げ場はないと俺に伝えたかったのだろうか。
でも、終わりがなければどこまでだって逃げられるじゃないか。
そう思って、ドアを押す。
不思議なくらいに、軽かった。ゆっくりゆっくりドアが開いて、光が差し込んで、その光に目を細めた俺の顔は、ひどく死んでいたような気がする。
不思議となぜか、そう思った。
そして、後ろからそれを悲しむような視線を感じた気がして振り返ろうとしてーーー
でも光がさっきの闇の代わりに、全身を覆って、見えなくなって。
そしてーーー
「ーーーーーーーー」
何も聞こえなくなった。
*********************************************
どうやら、俺の頭の中に一定量あった思考能力と、理解力といったものはどこかに落としてきたか、たった今飛んでいったかのどちらからしい。
「それか、さっきまでいたはずの部屋に置いてきたかの三択だな…笑えねえ」
そう、自重したように顔をうつむかせながら呟く少年が白昼の中一人佇んでいる。
高校生ぐらいなのだろうか、男にしては長い髪に、眠そうな目。よく見れば顔立ちは整ってはいるが、すれ違う人がふと見ても1分後には忘れている、そんな雰囲気の少年だ。
言ってみれば、普通なのである。至って普通。
だが、何を隠そうこの場ではもっとも浮いているのである。
何を言っているのか恐らく分からないと思う。なぜなら俺も分からないからである。髪を染めて派手にしているわけでもなく、ピアスをつけているわけでもない。
もう一度言うが至って普通の高校生であるである。
ーーーそう、ここが高校生という概念の通じる国日本であったなら。
「ここどこよ…」
理解力が飛んでいってしまった頭を精一杯回しながら、自分を嘲笑うように真上に悠然と存在する太陽を見上げたのだった。
太陽はあるんだな…と言う場違いな感想を残して。
「どうしてこんなことに…」
********************************************
こうやって見知らぬ地でうなだれることしかできない男の名は、高宮鼓という。田舎といえば田舎、都会といえば都会と言えなくもない。そんな特徴のない街の一角に佇む高宮家の長男として生まれた。
かなり特殊な家庭ではあったが人並み以上の愛を注がれ、自宅に併設する祖父の剣道場で心身ともに鍛えられ、剣道では中学最後の大会で全国二位という成績を残すなど立派な若者へと成長する事間違いなしだった。
ところが、少しそれに綻びが生じたのが鼓が高校生になった頃である。特殊な家庭事情と諸事情により見事に高校の同級生から浮き始め、祖父の逝去とともに見事に高校一年目にして引きこもり児童の誕生である。
そっからは絵に描いたような引きこもり生活まっしぐら。今まであまり手が出せなかったネットの世界にのめり込み、サブカルチャーやゲームにどハマりし無骨だったはずの部屋は徐々に二次元色に染まって行く始末。
そしてその引きこもりのいわゆるオタクである俺が導き出した現状に対する結論というのが完結のまとめると、こういう事である。
「うん…どうやら…」
目の前を通り抜けて行く、肌の色がおおよそ地球で見かけない色をしている人間や、甲冑を着込んだ衛兵らしき人間に目と思考能力を奪われながら呟く。
「異世界に飛ばされたらしい…」
そう、覚悟も予兆も何もなく非現実に襲われた男は再び天を仰ぎ嘆いたのだった。
********************************************
この男、元々ライトノベルやアニメといったものにハマってはいたが、その中でも異世界転生ものというものがあまり得意ではない。
まあ、正直これは異世界に行っただけで急にモテ出したり、チート能力でチヤホヤされる奴らへの嫉妬だったりしていて救えないのだが。
何度暗い部屋の中で現実はこんなに甘くねーんだよ!と叫びそうになったかわからないというのだからさらに救えない。
まあ、この男先々異世界はそこまで甘くないと身を以て痛感して意見を改めることになるのだがそれはまだまだ先の話である。
「さて、そのアニメやら何やらでは俺と同じ境遇のいけ好かない方々はどうしてたかな…」
そうやって現実逃避をしても、現実は非常に残念ながら変わる気配がない。
少し気を落ち着かせながら、記憶の中から散々心の中で唾を吐いて来たはずの先導者達に助けを求める。
「でもやっぱりあいつらは恵まれてたんだなあ…」
自分の脳内辞書で異世界に飛ばされてた時の対処法を検索するが、どうやら脳内に存在するいけ好かない方々と俺では状況が違うらしい。
自分がいけ好かないと思っていたご都合展開。具体例を言って見せれば、自分を召喚した人物が状況や使命を伝えて装備を渡してくれたり、美少女が助けを求めてきたり、チート能力が手に入ったりだ。
しかし、今の自分にはそんなイベントは何一つ発生していない。体が軽くなってもいなければ、何一つ裏事情の説明などもない。
俺の異世界ライフは開始十分足らずで心が折れそうだ。
「そもそも、人多すぎだろ…土地勘もなければここがどこなのかもわかんねえ…どうしろってんだ…」
引きこもりを辟易させるには十分な人の通行量。それに加えて、理解不能な状況が生み出すとてつもない不安感がものすごい勢いで精神力と体力を削っていく。
さらに歩くこと数分。何も解決しない状況と周りを堂々と歩く違和感たちについに精神と体力が限界を訴え、ひらけた広場の一角に存在感を放つ噴水に座り込む。
やけにうるさい水音と噴水を見てはしゃぐ子供の歓声を聴きながら水面を見つめる。
「…へ?」
激しい波紋が広がる水面に、写っていたのは確かに俺だ。しかし、少々おかしな点がある。
「目が赤色…?」
確かに、自分の顔なのだが違和感がすごい。あまり好きではなかったとはいえ、曲がりなりにも十数年毎日見てきた顔なのに、いや、だからこそ違和感がすごいのだ。
「よく考えてみると服も…」
どうやら自分でも思う以上に動揺が激しかったらしい。よくよく落ち着いて自分の格好を見てみると、どう見ても俺が自分の部屋で着ていた寝巻きではない。
全身黒で統一された服装であり、太もも下ほどまであるロングコートが特徴的だ。
「やっぱり、ここ日本じゃないんだなあ…」
明らかに日本なら職質されているだろう格好であるし、誰も自分の赤目を気にも留めない。わかっていたことだが日本とのギャップを痛切に思い知る。
「それに、この服も明らかにおかしい」
極め付けに、どういう仕組みなのかはわからないがこの服明らかに、季節に合っていないのだが全く暑くない。明らかに頭上から、燦々と陽光が差しているのだが何かに包まれているかのように暑さを遮断している。
強いていうならば、噴水の適度な涼しさだけは感じるというよくわからない効果が出ている。
「だけど、目の方は特に何の効果もないなあ…」
服は不思議な効果を発揮していたので、赤い目にも期待していたのだが本当に癪に触る仕様なのだが、こっちの目は今のところ何もない。
片目を閉じたり、目に力を入れてみたりしたのだがただ周りの人からギョッとされるという効果が得られただけである。
「要期待だと信じたい」
もはや非現実感も薄れて来て、テンションもこんなもんである。理想とギャップの差が激しすぎるのである。
向こうの世界でも保育士さんやら、警察官が夢に描いていたのと違ったということがあるらしいがそれと同じ感じなのであろうか?
「それと本当に世知辛い…若干お腹が減って来た」
過度な緊張と、どこともわからず歩き回ったおかげで腹の虫が騒ぎ出すが、当然食べ物は持っていない。
その上に何が問題かと言われると。
「多分ここって通貨が円じゃないよな」
まあ、円も一円すら持っていないのだが。
「普通にどうしよう…人として生きて来てこんなにピンチに陥ったことないぞ」
ただ惰眠を貪って、温かいご飯が出てくる空間にほんの少し前までいたはずなのになぜかすでに比喩なしで泣きそうなぐらい懐かしい。
まあ、それはそれでダメということには目をつぶっておこう。
「とりあえず…歩くか」
動けばさらに腹は減るが、動かなくてはどうにもならない。暗中模索が最善手と判断して、見知らぬ街の往来を一人で歩く。
自分でも何を探しているのかはわからないが、何一つ見逃さないようによくよく街を見渡しながら、活気のある商店街らしき一角で歩を進め続ける。
「街は煉瓦造りで、日本にはなさそうな感じ。おまけに電化製品やら、文明の利器は確認できず、か」
周りを見渡すと、電線の一本も見当たらない世界史の教科書に載っていそうな見事な中世風の街並みが広がっている。
今歩いている場所をよく観察して気づいたことが二つ。
「その一、話してるのは日本語だ。その二、文字はなぜかひらがなとカタカナしかない」
やたらと飛び交う商売文句と喧騒で気づいた。そう言えば、言葉はわかる。だがなぜか、見上げる看板にはひらがなとカタカナの文字しか見えない。
「どういう、理屈なんだろ。喋ってる言葉日本語なのに漢字はないのか」
日本で生まれ育ったので、掲げられた店の命である看板に「ヤオヤ」だの「しょくじどころ」だのと書かれているのは読みにくくて仕方がないのだが、ひとまず安堵のため息を漏らす。
「何もわからないより何万倍もましだ、流石に文字も言葉もわからないんじゃ話にすらならなかった」
正直焼け石に水と言われてもおかしくないほどの希望だが、ないよりましだ。どうやって生きて行くのかすらわからない瀬戸際でコミュニケーションすら取れないでは絶望するところだったが、首の皮一枚繋がったといったところなのだろうか。
まさか、言語が通じるだとか文字がわかるといったことを心から安堵する機会が人生にあるとは夢にも思っていなかったが。
「だからといって、状況は何も変わらないんだよなあ」
商店街らしき場所を抜け、人通りがまばらになった橋の上。ついに歩き疲れて立ち止まる。
閑散とした雰囲気が、少しもの物悲しくなって橋から身を乗り出して拾った小石を水面に投げつける。
ちゃぽん。というありきたりな音が一つ響いて、また静かになる。同じように、足元の小石を何度か投げ込んでみるが返ってくるのは同じ、凡庸な音だけだ。
気づいたら足元の小石も無くなって、また手持ち無沙汰になって足元を見ながら橋を渡り始める。
小石を探していたのか、悲観しか出来なくて視線が自然と下を向いていたのかは今でもわからない。
でも、もし悲観させて下を向かせるためにこれまでの不条理があったのだったとしたら納得しよう。
誰かにぶつかったと感じる前に、体に生じた小さな衝撃とともに、何かが始まった気がした。
俺の決して恵まれてるとは言い切れない異世界ライフの扉が、少しだけ開いた音が、した。