生きる
第四十九回開催は8月11日(土)
お題「見上げてごらん」/山
皆様の参加をお待ちしております
作業時間
8/11(土)
23:00〜0:11(11分オーバー)
「Look at the stars in the sky」
懐かしい歌だね、母さんが歌っていた。青年は――まだ青年になりたての、少年と呼ぶべきか――が言う。少女は口ずさんだ歌を放り投げるように、空中に余韻を残すと、夜の、その暗闇とは対比になるような真っ白な砂浜に、白いサンダルを脱いで駆けてゆく。彼女の着る真っ白なワンピースは胸の辺りから裾にかけてブルーのグラデーションが掛かっていて、夜の闇に溶け込むと、手足と上半身だけが白く浮かび上がっているようだった。
青年は潮騒に耳を傾けながら、後手に回した肩の片方に耳を預け、目を閉じる。
「見上げてごらん、夜の星を……」
そうしてかの歌の冒頭を少女と同じく口ずさんだ。
今よりは少し、暑くない陽気だったと思う。遥か下ではアブラゼミやニイニイゼミ、ツクツクボウシが煩く鳴いていた。
青年と少女は空調の効いた機内にいて、二人で小さな窓を取り合っていた。
二人共初めての空の旅で、スチュワーデスが優しくオレンジジュースを出してくれた。二人は奪い合うようにジュースを飲んで、また窓に張り付いた。
最初は、そうだ。カタカタという小さな音だったと思う。窓に張り付いていた二人はその振動にいち早く気付いた。
「なんだろう、もと兄……」
少女が言うが早いか、大きな衝撃が二人を襲った。
大木が切り倒される時のようなめりめりという音。
シートベルトをしていなかった者は、天井にしたたかに身体を打ちつけ、機内は真っ暗になった。
「阿鼻叫喚」とはこういう事を言うのだろう。落ち着いて、落ち着いて下さいと、スチュワーデスは最後まで立派だったと思う。
少年と少女は天井からぶら下がる緊急酸素マスクを互いに口に当てて、震えるしかなかった。
やがてコントロールを失った飛行機は山に激突して大破した。
死者、五百人以上を出す、後の世に語り継がれる最悪の事故となった。
「璃咲」
夜の海は、静かに凪いでいて璃咲が裾を持ち上げたその下にある白い二本の足をさらさらと濡らしていた。
璃咲は肩まで届く亜麻色の髪を、片手で片方の肩に掛けると、青年に笑いかけた。
「もと兄も来ると良いよ、すごく気持ちが良いから」
「もと兄」と呼ばれた青年は手と腰についた粉のような砂をぱんぱんと叩いて落とした。大股で歩いて璃咲の許まで行くと、ジーンズの裾をたくし上げ、足を水に浸す。海は穏やかに彼の足を洗い、思わず笑い声が上がる。
暫く二人は睦まじく暗い海を楽しんでいた。
ふと、璃咲の動きが止まり、その場にしゃがみ込んだ。
「もと兄、礎お兄ちゃん、この海ちっとも冷たくない」
「気は済みましたか」
礎ははっとして振り返る。そこには夏の格好には到底似つかわしくない上品そうな漆黒のコートに、ループタイをした老人が、にこやかに見守っていた。
老人の言葉は優しかったが、圧倒的な力が備わっていた。
暗い海辺でスネークウッドのステッキをついた彼が一声掛けると、璃咲はいまにも泣き出しそうな声で言った。
「わたし達、飛行機でお空を飛んでたのよ? なんで海に居るの?」
礎は老人が遠回しに二人の「死」を伝えに来た者なんだと理解した。
「おとうさんと、おかあさんは?」
「既に旅に出たよ、あの列車に乗って」
老人の背後が四角い列の灯りがともる。老人の左手の薬指の環がきらりと光ったかと思うと、璃咲はかくんと項垂れて列車の方へ歩いて行く。
「璃咲!」
礎が大声を張り上げると、璃咲は振り返り、ふ、と笑った。
「もと兄、わたし達は今度はもっと幸せな世界へ行けるんだって、わたし行く」
暗闇で光るどろりと濁った璃咲の目を見て礎は小さな悲鳴を上げた。
「璃咲をどうする気だ! 俺は絶対にいかないからな!」
礎は精一杯の虚勢を張って老人を睨み付けた。老人は優しく微笑んで、持っていた杖をとん、と砂浜に突いた。
「より辛い悪夢を望むか。それもよろしかろう。寂しさや、苦痛が糧になる事もあるだろう」
礎は目の前が薄らいで行くのを感じた。目を擦っても擦っても、周囲は白んでいって、まぶしいくらいになった時、礎は"目を開けた"。
『生存者が居る模様です! 今運ばれて来ています!』
はじめは、ばたばたと耳に残った。全身の痛みが襲ってきて、ヘリコプターの音だと気付くには少し遅くて。ヘリコプターに乗せられた礎は虚ろな声を聞いていた。
『生存者は……全部……人……折り重なるように……家族が…犠牲になっ、』
「君、君、しっかりしろ! 名前は言えるか? さあ、もう大丈夫だからね」
聞こえないはずの潮騒が聞こえる。家族と一緒に行くはずだった海に、もう行かれそうも無い。声を出そうとしただけで身体中に激痛が走る。
「な……まえ、は……七部……礎、父さんと、母さんと……妹で、沖縄へ……」
そうして礎は再び意識を手放した。
暗い海に、青みがかった髪の青年が一人。漆黒のコートの老人とは別の、瞳が瑪瑙を嵌め込んだような美しい人で、つまらなさそうに佇んでいる。青年はうつぶせに倒れている礎を見つけると、ゆるりと頬を笑みの形に持ち上げた。
「痛かったかい? "痛い"っていうのは生きている証拠さ、喜ぶと良い」
「璃咲を返せ! 父さんを、母さんを返せ!」
礎はその体勢のまま砂を投げつける。青年は避けるでもなく、その砂を浴びていた。
やがて礎が肩でいきをするようになると、青年はかがみ込んできて、そっと礎の肩に手を置いた。
「苦しいかい? 辛いかい? 君は生を選び取った。安易な死ではなく。璃咲も生きようと思えば、出来た。君達は両親に守られていたのだから」
「璃咲、父さん……母さん……」
「生も死も、呪うことは出来る。けれど、絶対にやって来るものだ。本当に"生きる"と言うことはそういうことさ」
礎は家族を思い、声が嗄れるまで泣いた。きっと、自分は生を呪うだろう。けれど、生きていく。絶対に、どんな困難が立ちふさがったとしても。生きているとは、そういう事なんだ。