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ウィルのパートナー役としてウインザー公爵家の舞踏会に参加してから2週間が経った。私はもとのように、いつか屋敷を出なければならないときに備えて部屋に籠り勉強に励むという平穏な日々を送っている。
元貴族令嬢ができる仕事など微々たるものだ。家庭教師か学校の教師か高位貴族向けのドレスデザイナーなど、選択の幅は殆ど無い。ちなみに、王宮勤めは結局会いたくない人達と顔を合わせてしまう可能性が高いので初めから除外している。
けれども、私は結婚するつもりが無いので、その何れかの職を手に入れなければならない。だから、勉強を欠かすわけにはいかないのだ。
お父さまはとりあえずは私の社交界デビューという3年越しの大目的を達成したことで満足されたようだ。その後のパーティーのお誘いは、断っても以前ほどガミガミ言われずに済んでいる。
それに、殆ど誰とも会話もダンスもしなかったにも関わらず、私のもとには沢山の貴族のご子息達からご機嫌お伺いのお手紙が届いていた。地味な私(用意されたドレス以外は努めて地味にしたのだから、間違いなく地味だったわ!)にご機嫌お伺いなど、世の中には物好きな人というものが一定数いるのね。でも、それらの手紙は父親を大変安心させたようだ。
そんな中での突然の来客に、私は困惑していた。
ラフな普段着姿のウィルは私の戸惑いなど露にも知らぬ様子でにこにことした人懐っこい笑顔を浮かべている。追い返す訳にも行かないし、困ったものだと私は頭を抱えた。
「ウィル、どうしたの?」
「カンナはどうしてるかと思ってさ」
困惑する私に対し、ウィルはにっこりと笑ってそういった。
「ご覧の通り、元気にしているわ。この前戴いた手紙の返事に書いたと思うのだけど」
「うん。その手紙は読んだよ。でも、実際に会って様子を知りたいだろ?」
ウィルがお父さま関連でここにきたのであるなら、私も顔を会わせないように部屋に籠るという対応ができた。けれども、今日のウィルは突然先触れもなく屋敷に現れて、カンナに会いに来たと使用人に伝えたようだ。
使用人もバレット侯爵家の嫡男でお父さまとお母さまも可愛がっているウィルを追い返すわけにもいかなかったのだろう。私のところに侍女のカテリーナが知らせにやってきたとき、既にウィルは屋敷の応接室に通されて使用人に出された紅茶を飲んでいるところだった。
「それで?」私はウィルの様子を窺いながら正面のソファーにとりあえず腰を落ち着かせた。
「実際に会ってみて私の様子はわかったかしら?」
「ああ、カンナが相変わらず屋敷にいるってことがわかって安心したよ」とウィルは目を輝かせた。
私はウィルの言葉に首を傾げた。私は大聖堂に行く時と図書館に行くとき以外は基本的に屋敷に籠っている。他人と関わらないことが一番間違いがおこらないし、結婚しないのであれば学か手に職をつけておかないと将来路頭に迷うことになるからだ。
「安心した?私は基本的にいつも屋敷にいるわ。いつか働きに出た時のために勉強しなければならないもの」
「せっかく社交界デビューしたのに、その将来像は変わらないんだね」
ウィルはあからさまに肩を竦めて見せた。どうやら、私が結婚しないで働くつもりで、ゆくゆくは修道院に行くと言っていることを知っているようだ。
きっとお父さまがエドウィンさまにでも相談したのをまた聞きしたのだろう。むっつりとした私の顔をみて、ウィルはふぅ、と息を吐いた。
「そんな屋敷に籠りがちなカンナを今日は誘いに来た。明後日、マンセル伯爵家主催の夜会がある。僕のパートナー役を引き受けてくれるよね?」
ウィルはにっこりと微笑みながら夜会の招待状を上着の胸ポケットから取り出した。上質な封筒に入ったそれが夜会の招待状であることはすぐに想像がついた。
「夜会?嫌よ、行かないわ。ウィルなら私よりもっと美人で見栄えのいいパートナーがすぐ見つかるわ」
私はすぐにその誘いをお断りした。
もう一回行ったのだから私の最低限のノルマは達成した筈だわ。私はこれから、残りの余生を皆の幸せを祈りつつひっそりと過ごす予定なのに。
それに、ウィルはこの前の舞踏会で沢山のご令嬢を紹介されていた。何人かは頬を染めてウィルを熱い眼差しで見つめていたことも知っているわ。あの中の一人にパートナーを申し込めばいいのに、なぜ地味な自分なのか訳が分からない。
「明後日なのに、今から探すの?カンナの名前で返事出しちゃったよ」
「なんですって!?」
私は驚きのあまり、思わず大きな声をあげてしまった。前回に引き続き、本人の許可もなく勝手に参加の返事を出すとは、お父さまといい、ウィルといい、どうかしているわ。
狼狽える私に対し、ウィルは哀しそうな顔をして眉尻を下げた。
「カンナはこの前、僕と舞踏会に行ってダンスを踊って楽しくなかった?僕は凄く楽しかったんだけどな」
「た、楽しかったわ!」
「じゃあ夜会も一緒に行ったら楽しいよ。明後日の夕方迎えに来るね」
にっこりと微笑まれて私はハッとした。シュンとした態度を見せられて、ついつい絆されて楽しかったと本音を漏らしてしまったじゃない!これでは前回の二の舞だわ。
「ま、待って。ウィル!」
立ち上がって帰ろうとしているウィルを思わず私は呼び止めた。扉の近くまで行って私に背を向けていたウィルはキョトンとした顔でこちらを振り返った。
「あの、私困るわ。できたら別の人を探してほしいの。ウィルならすぐに見つかるはずよ」
「なんだ。別れが惜しくて呼び止めてくれたのかと期待したのに」
がっかりとした顔のウィルは私のところまで戻り、私を至近距離から不満げに見下ろした。次の瞬間私の頬を柔らかいものが掠めた。
「なっ!」
「カンナ以上に見栄えするご令嬢なんているわけないと思うけどね。カンナ、明後日ね」
真っ赤になった私に手を振ると、ウィルは颯爽と帰っていった。突然のことに呆気に取られた私は暫しの間、その場に立ち尽くしてしまった。
ウィルが帰宅したので、後片付けのために部屋に入ってきたカテリーナは私の顔を見て怪訝な顔で首をかしげたのでやっと意識を取り戻した様だったわ。
「お嬢様、お顔があかいように見えますわ?」
「ちょ、ちょっと部屋が暑いのよ。それよりカテリーナ、大聖堂に行くわ!」
唇が掠めた頬が熱い。私は気持ちの平穏を取り戻すため、いそいそと大聖堂に向かったのだった。
──私がかつて傷つけた美しい人達が、幸せでありますように。
──私は2度と同じ過ちを犯しませんように。
──私がウィルやご両親の平穏を乱すことがありませんように。
いつもと同じように跪き祈りを捧げるのに、私の心は落ち着かない。
頬が熱い。こうも容易く私の心はかき乱される。
これでは前世と何も変わらないと、私は胸元で組んだ両手の指先に力をこめた。
──私は二度と同じ過ちを犯しませんように。
私はもう一度同じことを神に祈った。
私は過ちを犯した。
私は恋などしてはならない。
何度も何度も同じことを自分に言い聞かせた。
お願い、私の心を乱さないで。
嫉妬深く浅ましい自分には、もう二度となりたくないの。
大聖堂の出口に向かう途中、フレスコ画の少女を見つめていると若い男の声がして私は振り返った。
「せっかく前進したのに、強情だね」
私の視線の先にいるのは金の髪と金の瞳を持つこの世のものとは思えないほどの美しい男。
「前進?後退の間違いではなくて?」
また前世のように私の心は乱され始めている。どう考えても後退だわ。
「前進だよ」男は断言して、私を真っ直ぐに見つめた。
「君は何を望んでる?」
「愛する人たちの平穏と幸せよ。それ以外は何も望まないわ」
私の答えに男の視線は冷めたものへと変わった。
「違うよ。君はそれじゃあ満足できない」
満足できない?
それは私が浅ましい人間だから、強欲に多くのものを望むということ?
前世で彼が欲しくて美しいあの子を傷つけたみたいに?
「違わないわ」と答える私の声は無意識に震えた。
「違う」
金の双眸に何もかもを見透かされている気がして、私は咄嗟に男から目を逸らした。
「お嬢さま?お嬢様!どうされました?」
カテリーナが怪訝な顔をして私に呼びかけているのに気づき、私はハッとした。またあの男はいつの間にか姿を消している。
「何でもないわ。行きましょう」
私は大聖堂を後にする。
『君は何を望んでる?』
『君はそれじゃあ満足できない』
何もかもを見透かすかのようにそう言いきった男の声が、いつまでも私の頭の中で反響していた。