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普段よりずっと高い視点は遠くまで見渡せ、爽やかな風は頬を優しく撫でる。かつては不愉快だった揺れも、いつの間にか心地良く感じるようになった。
「うん、そう。とても上手だ。これなら大丈夫じゃ無いかな」
「本当?」
「ああ。問題無いと思うよ」
ウィルに褒められて私は思わず笑みをもらした。
お尻が痛くなり皮がむけたのではないかと思うことウン十回、太股とお腹が筋肉痛になって苦しむこと数知れず。元引きこもり令嬢で運動が不得意な身としては泣きたくなることも多かったけど、遂にここまで進歩したわ!!
遠乗りに行きたいから乗馬を教えて欲しいと私がウィルにお強請りしてから早1年、遂に私も問題なく馬を操れるようになった。
「遠乗りに行けるかしら?」
「うん、大丈夫だと思うよ。でも、最初は2時間位で行ける距離がいいんじゃないかな。あまり遠出して戻れなくなると大変だからね」
ウィルに笑顔でそう言われて、私はすぐにどこに行くか思案し始めた。馬で2時間位と言うことは、馬車で4、5時間位の距離かしら?どこにしよう・・・
その時、私の頭にふと1つの町の名前が浮かんだ。
「私、ベリチェに行きたいわ」
「ベリチェ?また随分と珍しい場所を選ぶね?」
ウィルは私の要望した場所が予想外だったようで、意外そうに目をパチパチとしばたたいた。
ベリチェは王都から馬車で3時間半ほどの郊外にある中規模の都市だ。特に大きくもなく、小さくもない都市で、目玉となる観光があるわけでもない。確かに旅の途中にベリチェに立ち寄る人は沢山いても、ベリチェを目的地にする人は殆どいないかもしれない。
「前に旅行記で、寄木細工が有名で川沿いの並木が美しいって書いてあるのを見たのよ。ダメ?」
別の場所にしようと言われるかと不安に思って上目遣いに見上げた私に、ウィルはにっこりと微笑んだ。
「いいよ。距離的にも丁度いい。一緒に行こう」
こうして私は生まれて初めての遠乗りの約束を取り付けたのだった。
ウィルと約束したその日は爽やかな快晴だった。風もほとんどなく、絶好の遠乗り日和と言ってよい陽気だ。朝早くに艶やかな赤茶毛の愛馬に跨がり私を迎えにきたウィルはいつも以上に素敵に見えたわ。
ベリチェは中規模の都市なので、王都までは馬車も通れる街道が整備されている。それでも、初めて馬で遠出する私に合わせてゆっくりと進んだので、通常なら馬で1時間半あればつく距離のはずが2時間半もかかってしまった。
かつて旅行記で読んだ並木道はベリチェの手前から数キロに亘って続いており、街道の隣を流れる川の水音も相まって本当に素敵な道だった。馬の上から川の浅瀬で釣りを楽しんでいる人達がちらほらと見え、ゆったりとした時間が流れている。
「カンナ、そろそろ馬を繋いで歩いて廻ろう」
中心街に近づいてくると、私とウィルは馬を日貸しの厩舎に預けて歩いて回る事にした。都市の入り口には旅人のためにこういった日貸しの厩舎が必ずあるということも、私は今回の遠乗りで初めて知った。
ベリチェの街は王都ともディルハム領とも違った雰囲気で、目にするものがどれも新鮮でとても楽しくて、なんだかチャルドニ王国に行って街歩きをした時のことを思い出した。ベリチェの街は王都と同じく普通に道沿いの建物の中に店舗があるのだけどね。
目的の1つだった寄木細工は様々な木片を組み合わせて絵や模様を作り出すというこの地域の伝統工芸で、高価なものになると想像上の龍や鳳凰の柄なども器用に描いてあった。ベリチェの街にはこの寄木細工を扱うお店が街の至る所に点在している。
どれもとても素敵だったのだけれど、馬車じゃないのであまり沢山は持って帰れないのが残念でならないわ。
私はお父さまと弟には小物を入れるトレーを、お母さまとカテリーナにはそれぞれ手鏡と櫛をお土産に購入した。そして、自分用にはウィルと初めての遠乗りの記念にと寄木細工のコースターのセットを選んだ。
「カンナ、お腹すいてない?」
「お腹?そういえばすいているわね」
私は楽しさのあまり、ウィルに聞かれるまで空腹も忘れる程の楽しみようだった。すでに時刻はお昼をだいぶ過ぎていて、言われてみれば確かにお腹が空いたわ。私はウィルに、木陰で座って食べたいからパンを買いたいと伝えた。
「ここも旅行記に載ってたの?」
「ええ。まあ、そんなようなものね」
ウィルが訝し気な顔をするのも仕方がないわ。私が行きたいと言って道に迷いながらもわざわざ訪ねた少し郊外のそのパン屋は、特に大繁盛しているわけでもない、なんの変哲もない普通のパン屋だった。
パン屋であることを示す麦の絵が描かれた木製の看板がドアの上にぶら下がっていて風で少し揺れている。私は外からそっと中の様子を覗った。20代後半位の年頃の店番の女性は笑顔でカウンター越しにお客さんの接客をしていた。私は少しの迷いの後、思い切って中に入る事にした。
店内には様々なパンが置かれていて、ドアを開けた瞬間に香ばしい匂いに包まれた。私はトレーとトングを手に取ると、早速商品の物色を始めた。こんな風に自分でパンを選ぶのは初めての経験だわ。
「おじょーしゃま、ルミエはこれがおいちいからしゅきなの」
私が店の中でどのパンにしようかと真剣に悩んでいると、横から舌足らずの可愛らしい声がした。目をやれば、一人の小さな女の子がクリクリの大きなお目々でこちらを見ていた。
「えっと、これかしら?」
「うん。おいちぃよ」
女の子はそこにあったクルミパンをそのちいさな手で私のトレイにポンと載せると、歯を見せてニコッと笑った。
「まあ、ルミエール!素手で商品に触ってはいけません!!申し訳ありません、お取替えします」
店番をしていた女の子の母親と思しき女性は焦ったようにカウンターから飛び出してきたので、私は少し考えてからトングを使ってとったクルミパンと女の子が素手で掴んだクルミパンを両方購入した。一個分しかお代を取ろうとしない女性には半ば無理やり二つ分の代金を渡した。
「はい、どうぞ」
私が店を出てからクルミパンの一つを女の子に差し出すと、女の子は大きな目を白黒させた。
「これは美味しいパンを教えてくれたあなたへのお礼よ」と付け加えると、女の子はそれは嬉しそうにニコッと笑ってそれを受け取った。そして、遠目に私達を見ていた別の子供たちの方へと駆けて行くと何かを言い、みんなでパンを分け合いっこしていた。
「サンドイッチじゃなくてよかったの?」とウィルが聞いてきたけれど、私は「ええ。だってこれがおすすめだもの」と言った。
近くの木陰でウィルと一緒に食べたパンは、屋敷で出てくるものより少し固くてパサパサしていたけれど、とっても美味しく感じた。
キャハハッと子供達の歓声が辺りに響く。声の方に目をやれば先ほどの女の子は少し年上の男の子に手を引かれて鬼ごっこの鬼さんから逃げていた。大きな瞳はキラキラと輝き、笑みが零れる口からは歓声が上がる。きっとこれが彼らの日常なのだろう。
「帰りも同じくらい時間がかかることを考えるともう少ししたら戻らないとだな」
「そうね。ウィル、今日はありがとう」
再び街歩きをしていると、いつの間にか太陽は少し傾き始めていた。私が笑顔で今日のお礼を言うと、ウィルは微笑んで「どういたしまして」と言った。
『彼女の望みは平凡な幸せだった』とガイドは言った。
小さな歯を見せてにっこりと笑う大きな瞳の女の子。私の心にはほんわかとした温かいものが広がる。
「自分で見に来てよかったわ」
小さな声で呟いた私の耳元には「だからそう言っただろう?」と得意気に囁く声が聞こえた。
帰りは私も一度通った道で少し慣れたのか、行き程は時間がかからずに戻ることが出来た。楽しかった遠乗りももう終わっちゃったのかと思うとなんだか寂しく感じるわ。
「ねえ、ウィル。また連れて行ってくれる?」
「勿論だ。何度でも、カンナの好きなだけ」
私のお強請りに、ウィルは今日もにっこりと微笑んだ。
次はどこに行こうかしら。いつかバレット侯爵領も二人で回りたいし、アーロンさまのご実家だった南部の野性の鴨も一度は見てみたい。ウィルと一緒に行きたい場所は数えきれないわ。
「ねえウィル。これからも私と一緒に色んな所に行って思い出を作りましょうね」
私も最愛の人を見上げるとにっこりと微笑んだ。
この後もほのぼの、ほんわかな話が続きます。残り3話の予定です。




