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ウィルに連れられて訪れたトルク座は相変わらず豪華絢爛と言う言葉がぴったりの場所だった。今回は中央ボックスシートではなかったが、それでも平面席のかなり上位の席をとってくれていたので問題なく楽しめた。
歌劇は原作を少しだけアレンジしてあり、青年は作り上げた財で男爵位を買い、貴族になっていた。そして、没落貴族のご令嬢がきな臭い悪事に手を染めている貴族に売られたのを救い出すために決闘をするシーンが加わっていて手に汗握るものだったわ。
「今回も本当に素敵だったわ!特に、あの決闘はすごかったわね」
「そうだね。まさに鬼気迫る演技だった」
私はまたもや大興奮だった。ウィルは興奮する私のお喋りをにこにこしながら聞いてくれている。その時、私は斜め上から呼びかけられて顔をあげて表情を強張らせた。そこには笑顔のブレンダが居た。
「バレット子爵、カンナさま、ご機嫌よう」
強張る私に対して、ウィルは柔やかに微笑んだ。
「やあ、ブレンダ。この後一緒に果実酒でも愉しまないか?」
「まあ、素敵なお誘い嬉しいですわ」
「雅香館の2番だ」
「よろしくてよ」
ブレンダは口元を扇で隠してころころと笑った。花の嬢らしくデコルテの大きくあいた魅惑的で豪華なドレスを着ている。私は自分の淡い水色の清楚なドレスを見て、もっと豪華なドレスを着てくれば良かったと後悔した。膝に置かれた自分の手を無意識に握り締める。
恐らく、今のウィルとブレンダのやり取りは花の嬢と貴族男性が秘密の逢瀬を愉しむときの暗号のようなものだ。私の知る雅香館は中央ストリートにあるただの貴族向け香水屋だけれど、その周辺にお互いに別々に入って逢瀬を愉しむ秘密の場所があるのだろう。
嫌だ。疚しいことがなくても、ウィルが花の嬢とそんなやり取りをする光景を見せられて楽しい訳が無い。私はぐっと唇を噛み締めた。
「さあ、行こう」
いつものように笑顔でウィルに手を差し出されて、私は無言で自分の手をそこに重ねた。
ウィルがトルク座から馬車で向かったのは予想通り、中央ストリートの私も知る香水屋の雅香館だった。
多くの貴族の御用達の香水屋は中に入るだけで様々な香りが混じり合いモワッとした。
大小様々なガラスの小瓶に入った香水が店内に所狭しと並んでいる。そして、この香水用ガラス瓶もバレット商会の製品だ。
普段、雅香館に訪れるときはどの香りにしようかと心が躍るのに、今日はちっとも心に響かなかった。
私が虚ろな気持ちで香水を見ていると、横で何かを注文していたウィルが最後に店主に「マイ・スイートハートの2番だ」と付け加えるように告げて、店主が無言で頷くのか視界の端に入った。
『マイ・スイートハート』とはセミアレンジの香水の総称で、男性が恋人に贈るものとしてとても人気の高い商品だ。ベースの香水に男性が店員に好みを伝えると少し香りの雰囲気を変えてアレンジしてくれる。でも、よくよく商品案内を見ると『マイ・スイートハート』に2番はない。
なんでもない日に聞いたならば、恋人想いの男性が彼女の為に香水を選んでいる微笑ましい光景に見えただろう。でも、こうして秘密の逢瀬のための部屋を用意しろと言う合言葉なのだと判ると虫酸が走って吐き気すらした。
暫くすると一人の若い店員がウィルに声をかけて、私達は店から少し離れた所にある高級宿の一室に案内された。部屋には既にブレンダがいて、私達を見ると「バレット子爵にカンナさま、お待ちしてましたわ」と微笑んだ。
「バレット子爵。お話するのに飲み物も無いなんて味気ないわ。下に行って頼んできて下さらない?」
ブレンダは私達が到着するや否や、飲み物を要求してきた。そして、小間使いに指名されて戸惑うウィルの背中を押して「早くとってきて下さいませ」と廊下に追いやった。そして、ふぅっと大きく息を吐くと私に向き直った。
「大事な方を追い出してしまってごめんなさいね。でも私、カンナさまと一度お話したかったのです。カンナさまは私がお嫌いでしょうけど」
「そんなことは・・・」
ブレンダは私を見つめると真っ赤な紅のひかれた形の良い唇の端を持ち上げた。そう言われて、私は言葉に詰まった。好きか嫌いかの二択しか無かったら、確かに嫌いだと思う。
「でも私、どうしてもカンナさまに言いたかったのですわ。あなた達はもう少し自分達がお互い愛し合っていると自信を持つべきです。今も、私の顔を見てカンナさまの表情からは不安と嫉妬心が滲んでますわよ?」
ブレンダは大きな緑色の瞳で私の顔を覗き込んだ。ぱっちりとした大きな緑の瞳は長い睫毛に縁取られて魅惑的だ。私は咄嗟に目を伏せた。
「どうも話を聞く限りバレット子爵とカンナさまは拗らせる事が多いようですから心配で、焦れったくって仕方が無いですわ!いいですか、バレット子爵はもし私が服を脱いで魅惑的に誘ったとしても決して私に手を出さないでしょう。愛するあなたを裏切ることになるからです。なんなら賭けても構いませんわ。
カンナさま、もっと自信を持ちなさいな。私は仕事柄多くの殿方を見ています。妻や恋人がいても平気で裏切る人はたくさんいます。でも、私が見る限りバレット子爵は違いますわ。私は一人の男性にこんなにも愛されるあなたが羨ましくてならないわ」
最後の言葉を聞いたとき、私はハッとして顔を上げた。花の嬢として多くの男性の恋人であったブレンダの瞳には一抹の淋しさが見えた。
「ブレンダ、あなた・・・」
ブレンダはにこっとすると私の口元に人差し指を1本押し当てた。
「カンナさま、私の仕事を軽蔑することがあっても可哀想と思われるのは心外ですわ。私、田舎の大家族に生まれましたの。それはそれは貧乏で、着る物や食べるものにも困るほどでした。だから、私は唯一自分に与えられた武器であるこの美貌でのし上がることにしたのです。貧乏な田舎娘がこんな素敵なドレスを着て、貴族男性から宝石を贈られて、高価な歌劇を嗜むなんて凄いと思いませんこと?」
ブレンダは楽しそうにクスクスと笑った。
「でも、まだですわよ?私、一応恋人になるお相手は選んでますのよ?私はいつか貴族男性の後妻に収まってカンナさまの仲間入りを果たしますわ。私は相手の位置や権力も含めてその人を生涯愛するのです。私は自分の幸せは自分で掴みにいきますわ」
強い決意を込めた瞳に射貫かれて、私は言葉を失った。
自分の幸せは自分で掴みに行く。
ただ受け身な私とはまるで反対の考え方だった。決して恵まれた環境ではないのに、そんな風に強く居られるブレンダがただただ眩しく見えた。
何となく、この人は本当にいつかは貴族の仲間入りを果たし、そしてどんなに陰口や意地悪をされても凜として微笑んでいそうな気がした。
その時、扉の外からトントンと階段を上がってくる足音がして、私はハッとした。きっとウィルが戻ってきたのだ。
「とにかく」もう一度ブレンダは私を見つめて微笑んだ。「あなた様ほど純粋にお相手の男性に愛情を注がれている方はなかなかおりませんわよ?多くの男性を見た私が言うのです。もう少し自信をお持ちになってドンと構えて下さいませ」
扉が開いて、発泡酒を3人分トレーにのせたウィルが入ってきて私は顔を上げた。ウィルは私のやや強張った顔を見て首をかしげた。
「えっと、お邪魔だった?」
「いえ、バレット子爵がカンナさまにそれはそれは夢中だと言うお話をしていたのですわ」
ポカンとした顔をしたウィルは、次の瞬間には首まで真っ赤になった。ブレンダはそんなウィルを見て「あらまぁ、初心でいらっしゃる」と、ころころと楽しそうに笑った。
「それでは、面子が揃ったところで本題に入りますわ」
ウィルがソファーに腰を下ろすと、ブレンダはさっきまでの明るい調子とは打って変わって真顔になった。
「私の調べでは、フローレンス商会はシエラ夫人のやっている闇商会と言うのに間違いはありませんわ。質流れ品や、正規ルートを外れた品物を売っています。そして、3年ほど前から鉄鋼製品を扱いだして急成長してます」
ブレンダはそこで発泡酒を一口飲んで喉を潤した。
「そしてシエラ夫人自体がかなり曰く付きよ」
「曰く付き?」
「ある日突然お金持ちの平民の遊び場に現れたのらしいけれど、最初から普通ではあり得ないような羽振りの良さだったそうよ。豪華なドレスに高価な宝石、連日の賭遊び・・・まるで有力貴族のような生活だわ」
「パトロンが居ると言うことだな?」とウィルは呟いた。
「ええ。それも、かなりの太っ腹の人物よ。なのに、誰なのかが一切不明なのよ。それだけ出資すれば、大抵のパトロンはその相手が自分の愛人であることを見せびらかすのが普通よ。なのに、シエラ夫人のパトロンは一切名前が出てこない」
ブレンダはいったん間を置いて、私達を順番に見つめた。
「それは奇妙だな」とウィルも眉をひそめた。
「シエラ夫人の出生もよくわからないのだけれど、元々は貴族令嬢だったという噂もあるの。何をしでかしてその地位を失ったかは判りませんけれど」
「貴族・・・。シエラ夫人の見た目や歳の頃は?」
「髪も目も漆黒で肌は透けるような白。歳は公表してないからわからないけれど、30代半ばから後半じゃないかと思うわ。今もお美しいけれど、若い頃はさぞかし可愛らしいお方だったのじゃ無いかしら?」
私はブレンダとウィルのやり取りを聞きながら動悸を抑えることが出来なかった。元貴族で髪も目も漆黒で肌は透けるような白・・・
脳裏に浮かぶのは漆黒の艶やかな髪に黒曜石の瞳の悪魔のような少女。ルシエラ、もしかしてあなたなの?




