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その日もディルハム伯爵家の屋敷ではいつものやりとりが繰り返されていた。
「だから、嫌なのです。何度も言っているではありませんか。私は働きに出て、最後は修道院に行きます」
「まだそんなことを言っているのか!いい加減にしなさい。お前はまだ若いし美しい。勉強もよく出来て優秀だ。社交界に出れば引く手あまただ。父さんが保証する」
「そう言うことでは無く、興味が無いのです。お願いだから諦めて下さいませ」
「いいや、諦められん。可愛い娘の将来がかかっているんだ」
ここのところ毎日のように続く親子喧嘩に、もはやディルハム伯爵家の屋敷の使用人達は慣れたものだった。まだ喧嘩を始めたばかりの頃はオロオロとして必死に止めようとしてきたものも多かったのだけれども、今は日常に溶け込む生活音であるかのように誰も反応を示さない。
恐らくは夜会の招待状であろう上質な封筒を握りしめて目尻を釣り上げるお父さまから目を逸らすと、私はふぅっと息を吐いた。あとどれ位、この不毛な遣り取りを続けなければならないのだろう。いっそのこと勘当でもして下さればいいのに、情け深いお父さまにそんな事は考えにも及ばないのでしょうね。
「とにかく、私は絶対に行きません」
もう一度はっきりとそう言った私の態度に、お父さまはぐっと顔を顰めた。そしてハァっと溜息をついて肩を落とし私の部屋を後にする。
大好きなお父さまががっかりするところを見るのは私も心苦しい。その原因となっているのが私のこの態度だと言うのも、益々心苦しく感じる原因となっている。
「お父さまも毎日のように懲りないわね」
「それだけお嬢さまのことが大切なのですよ。旦那さまはお嬢さまに幸せになって欲しいのです」
私の小さな呟きに侍女のカテリーナは苦笑した。いつもと変わらぬ手つきでリラックス効果のあるハーブティーを煎れて、そっと私の前に差し出す。私がお父さまと喧嘩するたびにカテリーナはこのハーブティーを煎れてくれる。カップに顔を近づけると、少し鼻を抜けるようなスーッとした爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
「やめてよ、カテリーナ。私は恋などしてはいけないのよ。幸せな結婚など有り得ないわ」
「なぜです?」
「なんでも、よ。はい、この話は終わり!」
私が無理に話を終わらせると、カテリーナは何ともいえないような不満げな顔をしたが、すぐにその気配は表情から抜け落ちた。さすがは我が家の優秀な侍女だ。
お父さまは今、何とかして私を社交界デビューさせようと必死になっている。
本来なら私は15歳で社交界デビューする予定だった。しかし、私が社交界デビューしたくないと駄々を捏ねたためお父さまもすぐに折れた。嫌がる私を無理にデビューさせなくとも、翌年で良いと判断したのだ。
その翌年、16歳になった私をお父さまは今度こそ社交界デビューさせようとした。しかし、翌年も私はデビューしたくないと駄々を捏ねた。さすがのお父さまもそれにはなかなか納得しなかった。毎日のようにデビューするしないの親子喧嘩を繰り広げたが、結局のところ最後に折れたのは私を溺愛するお父さまだった。
そして翌年、17歳になった私を今度こそデビューさせると意気込んでいたお父さまをかわすのはとても大変だった。ところがそんな折り、お父さまのお母さま、つまりは私のお祖母さまに不幸があり、我が家は喪に服する事になった。そして、その年の私の社交界デビューの話も立ち消えた。
そして今年、私は18歳になった。さすがにこの歳になると、まだ社交界デビューしていない良家のご子息ご令嬢は皆無と言って良い。婚約者がいる方が殆どで、既に結婚しているご令嬢も多く出始める。そして、条件の良いご子息ご令嬢から売れていくのは世の常。お父さまが焦る理由もわかる。しかし、私は社交界デビューしたくないのだ。
私はカテリーナが煎れてくれたハーブティーを口に含んでから、ハァッと溜息を吐いた。
貴族の世界は狭い。自分は曲がりなりにも伯爵令嬢だ。社交界に出入りするようになれば、否が応でも芋蔓式に殆どの有力貴族と何かしらの縁が繋がっていくだろう。
お父さまもそれによって私が良縁に恵まれて幸せになることを望んでいる。しかし、それは私の意図するところでは無い。それではこれまで引き籠もって勉強ばかりしていた努力の意味が無くなってしまう。
「カテリーナ。大聖堂にお祈りに行くから準備してくれる?」
「はい。畏まりました」
気分でも変えようと私がカテリーナに外出したいことを伝えると、カテリーナはテキパキとなすべき作業を始めてあっという間に準備を整えていく。私は飾りの少ないシンプルで落ち着いた色合いのワンピースに着替えて、髪の毛はハーフアップに簡単に纏めた。
鏡の中に映るのは若い娘の姿。元々ストレートで焦げ茶色だった髪は初潮を迎えた頃から髪質が変わり、今は薄茶色で緩くウエーブがかかっている。
髪の毛を一房つまみ上げると、私の脳裏にはかつてのストレートの焦げ茶色の髪の毛をいつも引っ張ってはいたずらしてきた可愛い男の子の顔が浮かんだ。けれども、私はすぐにその子の影を思考から追い出した。どうせ二度と会うことも無いのだから、この髪を見てあの子ががっかりすることもないだろう。
屋敷で勉強ばかりして化粧もしていないその顔はやや青白く、18歳という年齢に比べて少し老けて見える。化粧をすれば変わるのだろうが、そんな必要性も感じない。
私は垂れ下がる髪の毛を指にくるくるっと絡めて整えると、鏡から目を逸らした。
大聖堂は王都のタウンハウスから馬車で20分ほどの場所にある。この国で一番の大きい聖堂で、この国を守る神々に祈りを捧げるための聖なる場所だ。
白い石造りの建物はとても大きくて、高い天井には青空に天使達が飛ぶ姿が描かれていて本当に空があるかのような錯覚を覚える。小さな時はその天井に手を伸ばせば、天使が自分の手を引いて空を飛んでくれるのではないかと思ったものだ。
大聖堂の中心の祭壇に至るまでの途中にもそこかしこに神々の姿が描かれており、芸術的にも非常に価値の高い建造物だ。
その神々の間を通り抜けて私は大聖堂の祭壇の前まで行くと、その前にスッと跪いた。カテリーナはいつも何も言わずに後ろに控えている。
──私がかつて傷つけた美しい人達が、幸せでありますように。
──私は二度と同じ過ちを犯しませんように。
この7年間、祈ることはいつも同じ。かつての私が犯した罪に対する懺悔と贖罪だ。
かつての私、正確に言うと前世の私は愚かな過ちを犯した。嫉妬に駆られ、自己中心的な願望を叶えるために何の落ち度もない人を傷つけた。
その記憶は酷く曖昧で断片的だ。でも、夢の結末はいつも同じ。花のように可憐な少女を陥れる悪魔のような提案に、私は頷いてほくそ笑む人たちの背中を押す。あの子さえ居なければ、という愚かな妄想に囚われた憐れな人形。
私は恋などしてはならない。また愚かな妄想に囚われる、そんな自分になることが恐ろしくてならない。
祈りを捧げ終えた私は大聖堂の入り口に向かう途中、ふと一枚のフレスコ画に目を留めた。美しい女神さまに跪く少女、そして手を差し伸べる若い男とそれを見つめる若い男。
『来世への審判』
もう何度もみたこのフレスコ画は、死後の世界でその人の生前の善行と悪行を見返し、どのような来世を送らせるかを決める女神による審判の様子が描かれているという。
人は必ずいつか死に、そして、生まれ変わる。
この美しい女神は今、跪く少女の来世の転生先を決めようとしている。では、この手を差し伸べる若い男は何をしているのだろう?上から見つめている青年は彼女の関係者なのだろうか。
前世で罪を犯した私はこの美しい女神により、今ここに居て祈りを捧げる生涯を罰として与えられたのだろうか。もし誰かが前世の記憶を持つならば、それはこの美しい女神がそうあるべきだと審判したからに他ならない。
私は暫くそのフレスコ画を食い入るように見つめ、そして大聖堂を後にした。




