17
まだ人々の活動が始まらないような早朝、私は大聖堂を訪れていた。昨日は色々とショックのあまり放心状態だったが、一夜明けて私は精神を安定させるために行ったのは、やっぱり大聖堂のお祈りだった。
まだ薄暗い時刻の大聖堂には誰もおらず、いつも以上に神聖な雰囲気が漂っている。私は眠そうにしているカテリーナには馬車に残って貰い、一人で大聖堂に足を踏み入れた。神々の描かれたフレスコ画や、神々とその眷属たちを模した彫刻の間を抜けて祭壇へと向かう。祭壇の前に祀られている最高神の雄々しい石像は、今日も私を厳しい視線で見下ろしていた。
──私の愛する人達が、幸せでありますように。
──弱い私に強さを下さい。
祭壇の前に跪き、両手を胸の前で組んで祈った。
恋はするものではなく、落ちるものだと最初に言ったのは誰だったのだろう。私は恋などしないと固く誓っていたはずなのに、呆気なく私はウィルに恋をして、そして自分から傷ついた。
私は傷ついても立ち上がれる強さが欲しい。一人で生きていける強さが欲しい。
祈りを捧げ終えた私はいつものようにフレスコ画の前に立った。女神は微笑み手を差しのべ、導き手もやはり微笑んで彼女の右手を差し出している。
「ねえ」
私はフレスコ画を見つめたまま声をあげた。誰もいない大聖堂の高い天井に私の声が反響して響き渡った。私の声がかき消えてシーンと静まり返る大聖堂は、物音一つしない静寂に包まれている。私は駄目かと肩を落とした。最近大聖堂にお祈りにきても彼には会えない。
「呼んだ?」
静寂を破る澄んだ声にハッとして振り向けば、そこには私の待ち人である金髪金眼の男がいた。やはり人間離れした目の覚めるような美しさだ。でも、そもそも彼は人間では無いのだからそれも当然かも知れない。
「あなたは誰なの?」と私が聞くと、「僕に名前は無い。呼ばれればわかる」と男は無表情に答えた。
「では聞き方を変えるわ。あなたは私の『導き手』なの?」
「かつて、そんな風に呼ぶ子もいたね」と言って男は首を傾げた。
やっぱりそうだったのね、と私は心の中で思った。
「ではガイド、私は迷子なの?」
「ガイドってなんだい?」
「あなたの名前。無いと呼ぶときに不便でしょう?私を案内してくれる人だからガイドよ」
男はもともと大きな目を見開いてから、ケラケラと楽しそうに笑った。
「本当に君は変わった子だ。ああ、迷子かを聞いていたね。そうだな、君は目標地点までの大きな一本道が在るにも関わらず、どうにか脇道を探し出しては入り込もうとする子どものようだね」
私は考えた。私の目標は他人に迷惑をかけずにひっそりと暮らし、最後は修道院で神の花嫁となることだ。つべこべ言わずにさっさと修道院に行けと言うことだろうか。そんな私を見つめていたガイドはスッと目を細めた。
「もう一度言うよ。周りをよく見るんだ。ヒントはすぐ近くにあるんだ」
ガイドはまた一歩近づき、金の双眸で私をじっと覗き込む。
「君は何を望んでる?」
「だから、それは愛する人達の・・・」
ガイドは片手をあげて私の言葉を遮った。金の双眸が私の全てを見透かすように、妖しく光る。
「審判で主を前にした君はもっと素直だった。君は何のためにこの記憶を戻すことを望んだ?今も君はそれを望んでる」
わからないわ。わからないから聞いているのよ。
「あなたは意地悪だわ」
私は声が震えそうになるのに必死に耐え、キッとガイドを睨めつけた。
「それは心外だね。僕はいつだって君の味方なのに。君が戻して欲しいと望んだ記憶はとっくに戻っているはずだった。それを拒絶したのも君自身だ」
私は何も答えなかった。答えることが出来なかった。
「君の中でもう答えは出てるだろう?かつての君も今の君も、やっぱり同じ事を望んでる」
それだけ言うと、ガイドは消えた。私がどんなに呼びかけても、その日、彼が再び私の前に姿を現すことは無かった。
屋敷に戻った私は一つの決心のもと、お父さまの執務室を訪れた。机に向かって領地の港の輸出入品目の確認作業をしていたお父さまは、普段屋敷では部屋にこもりがちな私の来訪に訝しげな顔をされた。書類を机の上に置き、顔を上げたお父さまに見つめられると否が応でも緊張した。
「お父さま、お願いがあります」
私は緊張の面持ちでお父さまに話を切り出した。お父さまは私の表情からあまり愉しい話では無いと判断したのか、いつものような明るい雰囲気は全くなく、ただ一言静かに答えた。
「可愛いカンナの願いとはいえ、内容によるね」
「修道院に行きたいのです。神の花嫁になります」
私の申し出に、お父さまの眉間には一瞬で深い皺が寄った。普段は優しい目の奥に怒りの炎が揺らいでいるのを感じ、私はびくんと肩を揺らした。
「ウィルはどうした?私の見立てでは彼ならカンナと上手くいくと思っていたんだが」
「ウィルには呆れられて愛想を尽かされました。私とは距離を置くそうです」
お父さまは私の言葉が予想外だったようで目を見開き、なんてことだ、と呟くと項垂れて頭を抱え込んだ。歌劇場で鉢合わせすることを恐れて次の演目のシートを取るなと言われてしまう位の避けられようだとはさすがに言い出せなかった。
ただ、お父さまはどんなに私が誰かと恋をして幸せな家庭を築くことを望んでいたか。私はそれを突き付けられて、いたたまれない気持ちになった。
「カンナ。今シーズンと来シーズンの私が指定する社交行事は全て参加しなさい。そこでもいいご縁が無ければ私も手立てを考えよう。拒否することは許さない」
「お父さまの仰せのままに」
有無を言わせぬ口調のお父さまに、私は大人しく従うことしか出来なかった。お父さまが私に対してこんなに怒っている姿を見るのは、生まれて初めてだった。
数日後、私はお父さまのご友人でもあるリプトニ伯爵家のご令嬢エリーゼさまのお茶会にご招待されて参加していた。
エリーゼは赤味の強い波打つ髪に琥珀色の大きな瞳が印象的な快活なお方で、年齢は私と同じ18歳だ。先日の舞踏会でお会いしたし、遥か昔に私がまだスフィアさまのお茶会に頻繁に参加していた頃はよくそこで顔を合わせていた旧知の仲でもある。
「ねえ、カンナ。あなたとウィリアムさまって最近どうなっているの?」
「え?なぜ??」
私はエリーゼから突撃振られた質問に戸惑った。もしかして、なにかおかしな噂でも立っているのだろうか。困惑する私の顔を見て、エリーゼは少し首をかしげてみせた。
「一昨日なんだけど、ウィリアムさまが花の嬢を連れて街歩きをしていたのを見たという噂があるのよ。ウィリアムさまはカンナしか見えていないお方だと思っていたのに」
私は耳を疑った。花の嬢ですって?ウィルが??
花の嬢とは公に認められた高級娼婦であり、貴族の男性は彼女たちを火遊びの恋人や愛人に持つことは珍しくない。
彼女たちは貴族ではない。けれど、マナーや知識は一般的な貴族令嬢より備わっているといっても過言では無く、何よりも全員がとても美しい。そして、貴族の男性に同伴されれば社交界に出入りすることも許される、まさに花のような存在だ。
一昨日と言えば、私とウィルがトルク座に行ってから2日しか経っていない。ウィルは愛してると伝えた私に決別の手紙をしたためた翌日、私が大聖堂で祈りを捧げたあの日に新たな美しい恋人との逢瀬を楽しんでいたというの?
「こんなこと言いたくは無いのだけど」とエリーゼさまは肩を竦めた。「あなた達は少し話し合った方がいいと思うわ」
「ウィルが花の嬢を恋人にしたのなら、それは私が口を出すべきことでは無いわ」
私は声が震えそうになるのを必死に封じ込め、精一杯に見栄を張って美しく微笑んで答えた。私の声は震えていないだろうか?顔は青くなっていないだろうか??
「でも、何と言ってもウィリアムさまですからねぇ」
そう言ったエリーゼさまは隣に座るご令嬢と意味ありげに視線を絡ませて困ったような顔をされた。彼女の口元を隠す扇の羽がゆらゆらと揺れている。
花の嬢は美しくとも高級娼婦。候爵家の正妻には出来ない。それに、花の嬢を恋人にすることにはきっとエドウィンさまも反対されるだろう。
ウィル、あなたはそれでいいの?私はウィルの幸せを願っていた筈なのに、また何かを間違えたのだろうか。




