15
今日は楽しみにしていたトルク座の歌劇鑑賞の日だ。私は朝からうきうきとした気分で、カテリーナに手伝ってもらい、まるで夜会に行くようにお洒落をした。(と言っても、私はいつもとても地味にまとめているので大したことは無いわ)
ウィルにエスコートされてトルク座の中に足を踏み入れた時、私はあまりの豪華絢爛な様に思わずほぅっと息を吐いた。
トルク座は建物の外観も大聖堂同様に白い石造りになっていて、建物の外壁の至る所に彫刻があしらわれていた。中に入れば最初に目に入るのは玄関ホールの高い天井から吊り下げられている大きなシャンデリア。その大きさは以前訪れたウインザー公爵家を超えており、こんなに大きなシャンデリアはここと王宮以外でお目にかかることはまず無いだろう。
そして、赤い絨毯がしかれた玄関ホールからは上に昇るための螺旋状階段が左右に延びている。螺旋状階段の手摺りの1番上と1番下にはそれぞれ天使の彫刻が飾られており、桟には金箔が施されていた。
「やっぱり凄いわ」
私は階上を見上げて感嘆の声をもらした。夢の中で一度だけ訪れた場所は、実際に見ると想像以上だった。ウィルはそんな私を見つめて、にっこりと微笑んだ。
「中央ボックスシートは僕も初めてなんだ。幕間の休憩時間にはドリンクと摘まみのサービスがあるみたいだよ」
「まあ、そうなの?楽しみだわ!」
私は柄にも無くはしゃいでいた。だって、こんな素敵なところに来られるのは貴族令嬢と言えども滅多に無いわ。それに、何と言っても中央ボックスシートだもの!
中央ボックスシートは舞台を正面に見て後方の少しだけ平面席より高い位置に配置されている。ここの席は舞台も全景がよく見えるし、演奏も良く聞こえると言われているのだ。
そして、座ってみてわかったのだが、この中央ボックスシートからは平面席に座っている方々もよく見えた。皆夜会のように美しく着飾っており、殆どの方は貴族のようだ。一部が羽振りの良い平民の方や、貴族の愛人であると思われる美人な若い女性達もいた。
演目が始まるまでの間、私は暇つぶしに平面席の人々を眺めていた。前に舞踏会でお見かけした方々も何人かいる。その時、たまたま目に入った一際羽振りの良さそうな黒髪のご婦人と目が合い、何故か私は怖いと感じた。睨まれている訳でもないのにだ。一瞬で底知れぬ恐怖心を感じて私は身震いした。
「カンナ、寒いのか?」
震えた私に気づき、ウィルは歌劇場の係員にショールを用意するように言い、それを受け取るとふわりと私の肩に掛けてくれた。
「大丈夫?もう一枚頼もうか?」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
私がそう言うと、ウィルは「よかった」と言って柔らかく微笑んだ。その途端に私の中の恐怖心はフッと消える。
私は件のご婦人をもう一度見た。既にご婦人は舞台に向かって座っており、顔は見えない。私よりはだいぶ年上のそのご婦人は艶やかな黒髪にきらきらと七色に輝く髪飾りを付けていた。どこかで見たことがあるような気もしたが、初めて見る人のような気もする。結局、よくわからないまま歌劇の開始の鐘が鳴り、私は歌劇へと意識を切り替えた。
最近始まったばかりのこの日の演目は、この手の歌劇によくある悲恋の物語だった。
貴族の嫡男と人気の踊り子が恋に落ちて恋人同士になる。しかし、それに気づいた男性の父親は身分違いの恋に怒り、踊り子に金を積んでなにも言わずに去るように言う。踊り子は恋人の将来を想い、なにも言わずに彼の元を去るが、金目当てに遊ばれて捨てられたと思いこんだ男性は怒り狂い彼女に徹底的な報復を与えた。そして、遂に彼女は踊り子としての仕事を失い娼婦に身を落とす。けれどもある日、男性はひょんなことから真相を知り、自らの誤りに気付く。男性は踊り子を迎えに行ったが、踊り子は不幸な生活に身をやつし、既に息絶えていた。男性は自らの行いを悔い、彼女を追って自らの命を絶つのだ。所謂、典型的な悲恋の物語だ。
演劇が終わったとき、私は感動のあまり暫く席を立ちあがれないほどだった。演奏も歌も演技も本当に素晴らしかったわ。それに、何よりもストーリーが切なくて、ヒロインの悲痛な思いとヒーローの後悔の気持ちがひしひしと伝わってきて、途中からハンカチ無しでは見られなかった。
「気に入った?」と声を掛けられて涙を拭う私が隣を見ると、柔らかい表情でウィルがこちらを見ていた。
「ええ。素晴らしかったわ!ありがとう、ウィル。特に、恋人になる前のヒロインに男性が毎日のように花束を贈って愛を示すと言うのが素敵だわ」
「よかった。カンナは恋なんてしないっていつも言っているから、こういう話は興味がないかと思って心配してたんだ。でも、やっぱりカンナも女の子なんだね」
ウィルの言葉に私はおもわず赤面した。『恋なんてしない。修道院に行く』と常日頃から言っている私が、実は誰よりもこういう恋物語に密かに憧れを抱いていることを見透かされたような気がした。
「だって、これは私の話じゃなくて歌劇だもの」と私は口を尖らせた。
「そうだね。あれは歌劇だ」とウィルはにっこりと頷いた。
帰りは馬車の順番待ちでホールは大混雑になる。私たちは中央ボックスシートの特典として、パトロンでなくても歌劇団の方々に直接会うことが出来たので、ホールが空くまでの時間を潰すことも兼ねて舞台裏に行った。
私は歌劇団の方々にいかに自分がこの歌劇に感動したかを伝えて、あらかじめ用意していたプレゼントを渡していった。本当に素晴らしかったから、私のこの感動と彼らへの感謝の気持ちがちゃんと伝わると良いのだけど。
「本当に素晴らしかったですわ」
「気に入って頂けて光栄です。またよかったらお越しください」
演出家だと言う中年の恰幅のよい男性はにこにことした笑顔で私達を出迎えてくれた。ええ、また来たいわ。でも、お金が問題ね。私の仕事の稼ぎで見に来られるかしら?頑張らなくちゃだわ・・・
「私たちの演目は悲恋ですが、お2人は末永くお幸せに」
「ええ、勿論です。悲恋は歌劇だけで十分です」
去り際に演出家の男性が意味ありげにウインクしながらかけてきた言葉に、ウィルは笑顔で対応していた。どうやら、私たちは結婚間近の恋人同士だと思われていたようだ。
帰りの馬車でも私の感動の興奮は冷めやらなかった。だって、本当に素晴らしかったのよ。もう、明日にでももう一度見に行きたいくらいだったわ。いつも以上に饒舌になる私の話をウィルはにこにこと相槌を打ちながら聞いていた。
「そういえば、演出家の方が私達を恋人同士だと勘違いしてたわね」
私は先ほどの演出家さんの様子を思い出して、クスクスと笑った。あの様子は、完全に勘違いしていたわ。
「ああ、そうだね。」とウィルは頷いた。「来週にでもディルハム伯爵に許可をもらいに行こうと思ってる」
「許可?なんの許可?」
私は首を傾げた。私の許可はもちろん、お父さまも許可もなく夜会の返事を私の名前で出したりするウィルが今更なんの許可を取りに行くのか。
「僕とカンナの婚約の許可だよ」
当たり前の事のように発せられたウィルの言葉に、私は耳を疑った。まさに頭から冷水を浴びせられた気分だった。
婚約?私とウィルが??それはダメよ、絶対にダメ。だって私は・・・
「ウィル。ダメよ。絶対にいけないわ」
私は声が震えてくるのを感じた。
「何故?僕たちは歳も近いし爵位も釣り合いが取れているし、当人同士の仲もいい。家同士の関係だって良好だ。どこからどう見ても駄目な要素は見当たらないよ」
そこまで言って、ウィルは青い双眸で私を見つめた。私は喉がカラカラに乾いてくるのを感じた。
「それに、カンナは本当は社交界に出たがっているよね。嫌々だけど、いつも楽しそうだ」
「違うっ」
「本当に?それに、カンナが僕を憎からず思ってくれているのはわかるし、僕はカンナを愛してる」
私は継ぐ言葉が出てこなかった。
愛してる?私を??ダメよ、絶対にダメだわ。だって私は醜いの。ウィルがもし他の女性の手をとるところなんて見たら、何をしでかすかわからない女なの。
脳裏にスフィアさまの泣き叫ぶ顔がフラッシュバックした。
私がやった。きっとエドウィンさまを取られたことに腹を立てた私がやったの。私はウィルの大切なご両親から世界で一番憎まれる人間なの。
「ダメなの。お願い、それはやめて。私は恋などしてはならないの」
懇願する声が震える。ヒューヒューと喉が鳴り、息が苦しい。
何故なの?
私はうまくやっていたはずなのに、どこで間違えたの??
愛してると言われて心の奥底では舞い上がっている私はなんと浅ましいのか。一番避けなければならないウィルを、私はいつの間にかこんなにも愛してる。
『君は何を望んでる?』
金髪金眼の男の声が頭に響く。
私は、私は・・・
暗い。視界が徐々に暗くなる。
カンナ!とウィルが必死に呼びかける声がしたけれど、私の意識は次第に闇に呑まれていった。




