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「アニエスさまっ」と鈴を鳴らすような可愛らしい呼び声に気付き、私は振り返った。声の方向を見れば、妹のように可愛がっているスフィアがスカートの端を抓んで駆け足でこちらに寄ってくるところだ。私は今図書館で借りてきたばかりの恋愛小説を胸に抱え、スフィアが駆け寄るのを笑顔で見守った。
「アニエスさま、ご機嫌よう。あの、素敵なドレスをありがとうございます」
私を見つけて急いで小走りして来たせいか、スフィアは息切れしていた。白い胸元がはぁはぁときれる呼吸と共に上下してゆれている。私はこんなに焦って来ることも無いのに、と苦笑した。
「いいのよ。私には妹もいないし、あなたに使って貰えたら嬉しいわ」
「でも、あんなに素敵なドレスだなんて。私、お礼に何をすればいいのか・・・」
眉尻を下げて本当に困ったような顔をするスフィアを見て、私は微笑んだ。すぐに良いことを思いついたのだけどわざと顎に手をあてて少し考えるようなポーズをとる。そして、もったいつけてからそれをスフィアにお願いした。
「では、お礼にドレスを着たら会場で私にその姿を見せに来て。私の譲ったドレスを着るのだから、とびきりおめかししなきゃ駄目よ。スフィアはとっても美しいのだから、会場で一番美しくなった姿を見せて欲しいの」
「そんな!私がどんなに着飾ってもアニエスさまには絶対に敵いませんわ!」
目を丸くして力説するスフィアは本当に可愛らしい。
「だーめ。スフィアは私のドレスを着るのだから、綺麗にしなきゃいけないわ」
「それは・・・、頑張りますわ」
スフィアは両手を持ち上げると肩の辺りの高さで拳を作って真剣な顔で頷いた。こんなに可愛らしい妹分が出来るなんて、私はとても幸せ者だわ。
「ねえ、スフィア。ダンスの復習をしましょうよ」
突然の提案に戸惑うスフィアの手を握ると構わずに、私は「1・2・3」とカウントを始めた。見よう見まねの私の下手な男性パートのリードに合わせて、スフィアは覚えたてのダンスを踊る。
スフィアは貴族令嬢に必要な最低限のダンスの踊り方すら知らなかった。そんなスフィアに、私はお茶会の作法からダンスの踊り方まで一から手取り足取り教えた。
スフィアはとても頭の良い娘で、私が教えたことは水を吸うスポンジのようにどんどん吸収していった。だから、スフィアに色々なことを教えるのはとても楽しかった。
来たる舞踏会での皆の驚く顔を想像して、私は表情を綻ばせた。
そんなやりとりのあった数日後、私はエドとお茶をしていた。
婚約者でもない年頃の男女が2人でお茶をするのはあまりあることでは無い。けれど、私達は幼い頃からの仲の良い幼なじみでもあるので、今でもよくお茶をしていた。
私たちの両親もそろそろ私とエドを婚約させるのもやぶさかでは無いと考えていたし、なによりも、私はエドを密かに慕っていたのでこのお茶の時間がなによりも好きだった。
「そのゴーランド伯爵夫人はひどいね。スフィア嬢は気の毒に」
私の話を聞き終えたエドは、ティーカップを置きながら眉を寄せた。彼の苛立ちが現れたのか、珍しくティーカップはソーサーにぶつかりカツンと音を鳴らした。
「そうなのよ!」と私はエドと同じように眉を寄せて、拳をぐっと握って胸元に寄せた。
「絶対に最初から行かせないつもりだったのだわ。ドレスを用意したら、今度はパートナーがいないだなんて!!」
酷い話だと頷くエドに、私はいかに自分もこのことに腹を立てているかを話して聞かせた。
妹のように可愛がっているスフィアは15歳になっていた。
事の発端は年齢的に今年社交界デビューするであろう筈のスフィアに、私がその話題について話を聞いたことだった。スフィアは自分が社交界デビューする歳であることすらよくわかっておらず、屋敷で継母にその事を聞いた。そして、スフィアは驚くべきことを口にしたのだ。
なんと、ゴーランド伯爵夫人に、今年は領地収入が無く余分なお金は無いからスフィアのドレスは用意できないと言われたと言うのだ。これには本当に驚いた。だって、そんな馬鹿な事があるわけが無いわ。ゴーランド伯爵夫人はついこの間も豪華な最新のドレスに身を包んで舞踏会に現れたのだから。
腸が煮えくりかえる思いだった私は、自分が社交界デビューの時に身につけたドレスをスフィアにプレゼントした。1度しか着ていないから綺麗だし、私とスフィアは体型が似ている。社交界デビューで身につけた思い入れのあるドレスだけれども、スフィアの事は妹のように可愛がっているから彼女にならあげてもいいと思ったのだ。
それなのに、今度はパートナーが見つからないと言う。パートナーが誰も見つからないなんて、そんなことがあるわけが無いわ。嫌がらせ以外の何物でも無いことは明らかだった。
スフィアに対する酷い仕打ちにハンカチを咥えて噛みちぎりそうな勢いで悔しがる私の脇で、エドは何やら考え込んでいた。
「なあ、アニエス。今度の舞踏会で僕がパートナーを出来なかったら、君は誰か代わりを探せる?」
突如エドが言い出したことに私は首をかしげた。私の社交界でのパートナーはデビュー以来、常にエドが務めてくれていた。婚約しているわけでも無かったけれど、自然な成り行きでそうなっていのだ。
「え?お誘いは何件も来ているからすぐに見つかるとは思うけど、どうして?次回の舞踏会は都合が悪いの??」
私は侯爵令嬢であり、見た目も悪くない。年齢も17歳になったばかりでまさに花の盛り、大物貴族から弱小貴族まで様々な御家庭のご子息方から引く手あまただった。けれども、出来ればパートナーはエドに務めて貰いたかった。
「いや。スフィア嬢のパートナーが居ないなら、僕が申し込めば参加できるかと思ってさ」
私はエドの提案に言葉を失った。確かにエドがパートナーの申し込みをすれば、スフィアはなんの懸念も無く社交界デビュー出来る。
でも、そうしたら私は?私が誰か別の人にエスコートされても、エドは何も感じないの??
その言葉は喉元まで来たのに、口にすることは出来なかった。エドが安心したように言ったから。
「アニエスに誘いがいっぱいあって良かった。次回はお互い別々のパートナーで参加しよう」
さも名案を思いついたかのように微笑むエドに、私はただ微笑み返すことしか出来なかった。スフィアには誰もいないけど、私にはたくさんの誘いがある。どっちが我慢すればいいかなんて、聞くまでも無い。
「わかったわ。スフィアをよろしくね」
「ああ、勿論だよ」
エドはにっこり微笑んで、頷いた。
スフィアは可愛い妹のような存在。姉が妹のために我慢するのは当然のことだわ。
私は胸の奥に燻り始めたもやもやとした気持ちに無理矢理蓋をして、気付かないふりをした。
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目を覚ますとあたりはすでに明るくなっていた。朝日が窓から差し込んで部屋の壁を白く照らし、小鳥の囀りが聞こえる。
私はベットを抜け出して部屋に備え付けてある鏡をのぞいた。そこに映るのは薄茶色のふわふわとした髪に深緑の瞳、色白の若い娘。私は自分が間違いなくカンナ・ディルハムであることを確認してほっと胸をなで下ろす。
窓の外を覗き今日もお出かけ日和であることを確認すると、私はいつものように身支度を始めた。
アニエスはとってもよい子です。お姉ちゃんが妹のために我慢するのは当然じゃないよー!




